『なつかしの殺人の日々』

なつかしの殺人の日々 (角川文庫)
辻 真先

4041659035
角川書店 1986-10
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by G-ToolsISBN:4041659035

「なつかしの殺人の日々」を読んだ。リンク先は角川文庫だけど読んだのはカドカワ・ノベルズ版*1。表題作は「野生時代」1982年三月号初出で、書き下ろしの「はるかなり盗人の日々」も収められている。
 束間深志という男が可能克郎にテレビ黎明期の犯罪事件を語って聞かせるというスタイルで、CHKの名物番組「黒のエチュード」にまつわることの顛末が追いかけられる。中心人物は番組のチーフディレクター鬼堂修一郎。女癖が悪く、押しの強い情熱家。造形は「アリスの国の殺人」に出てきた漫画雑誌の編集者と似ている。ゲストとして岩下志摩、ジュディ・オング、十朱幸代も登場する。
 準主演級の女優がライトにぶつかって死亡。しかし調べてみるとライトはもとから床にあって、女優がキャットウォークから落ちてきたことが分かった。自殺か他殺か? という話から「黒のエチュード」にはオカルトチックなエピソードがついて回る。それは誰かが仕掛けたのことなのか? という謎の提示と解決は魅力的にできているんだけど、一番デカいトリックの効果がイマイチなのは、とってつけたような出し方だから。もしかして書き出してからラストを決めたんじゃないかと思うほど浮いていて残念。企みは凄いのに。
 それはそれとして黎明期のテレビって凄いと思わせる語り口はさすがに作者がその現場に立ち会っていただけのことはある。ドラマ全部生放送の臨場感が読む方にも感じられた。「無名のゲリラ戦士たちの、報われず知られざるささやかな戦果」の一端ではあっても知れて良かった。
 追記:文庫本のあとがきによれば、「はるかなり盗人の日々」で語られる市川崑監督の選んだ小道具を失敬するエピソード(これはテレビ疾風怒濤(感想)でも語られている)当時、市川監督が撮影していたのは「女性に関する十二章」だったらしい。見る機会があったときには、「どの小道具が予定外だったのか」考えながら見ようと思う。

追記:20220826 中心人物の鬼堂は『電気紙芝居殺人事件』でスーパー、ポテトとも共演している。こちらもなかなか凝った作り(ただし、それが効果をあげているかどうかは微妙なところも『なつかしの〜』と似ていた。)

*1:昭和五十八年一月二十五日初版発行

東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」

「メタリアル・フィクションの誕生」(2003〜2004)を四回まで読んだ。せっかくだから思いつきを書き留めておこう。
 と言ってもゲームやらんしラノベ読まんし、マンガもよー知らないので、明後日なことしか考えつかないんだけど。
 まず第一にこの論を杜撰だと詰るのは、それぞれのジャンルに詳しい人なら容易であるらしい*1のだが、詰っても無益だろう。この評論は未来への投機として書かれているからだ。正確性より創造性をメインに綴られているように思われる。それは東自身が、第一回で

批評は、新しい解釈の枠組みを投入し、人々の想像力を喚起し、好ましい未来が実現する可能性を少しだけ高めることができる。

 と言っていることからも明らかだ。で、「Ever17」が面白そうだ、誰か貸してくれって話はどうでもよくて、とりあえず四回分読み終えたとき考えたのは、論が著者の意図を裏切ってるんじゃないかということだった。別のところで東は「文学の革命」を夢見ていたと書き、さらに「ファウスト」で革命を夢見ているとも書いている。これを鵜呑みにするなら「メタリアル・フィクションの誕生」は、革命宣言書みたいなものと位置づけられたいのではないかと思う。少なくともぼくはそう読んだのだが、ではこの論はそういう働きをするのかというと、全然しないだろうと思う。言葉と扱われる問いが、「文学の側」*2からもたらされたものである以上、この論法でいくら「ラノベ的なもの」を意味づけても、それは文学カテゴリーの延長にしかならない。それでは全然革命にならないじゃないか。革命を唱えるならライトノベルを文学に組み込むという戦略は有効でないと思う。むしろそういう意味づけに抗うような評価基準の提出が必要だったんじゃないだろうか。欲を言えば独自の価値基準とその文学の側への適用。それが達成されて初めて革命の名に値するのではないかと思う。
 読んでない、やってない、見てないの三重苦なので、どんな基準なのかは想像もできないんだけど。
 ところでこの評論を読んでいて、舞城王太郎って、逆平野敬一郎なのかもしれないとちょっと思った。ゲーム的なストーリーを純文学雑誌に送りつけてデビューした平野と純文学的な読みとり易さをたっぷり持ったエンターテインメント作家の舞城は、コインの裏表のように感じられる。
 たぶん落とし穴は出発点に大塚を選んだことだ。大塚と東は扱うものは近いけど、それを扱うことで何を目論むかという方向性に大きな隔たりがある。そこを無視して論が始まったために、東の論は東の目論見を裏切っている。

*1:あちこちに文句を見かける。大抵は「知識が足りてないよ!」という文句に見える。

*2:ここでは東が言う主流文学という言葉を言い換えている。