加藤博 「イスラムvs.西欧」の近代

 昨年末のガザの件を見て、そういやパレスチナ問題ってまったく知らないやと思い、何冊か買い込んだうちの一冊。中心に取りあげられているのは、エジプト。ナポレオンの遠征によって西欧とぶつかることになったエジプトは、いかに西欧と向かい合い、何がどうなって原理主義へと向かったのかって話が書かれている。言い換えれば「和魂洋才の挫折inエジプト」。
 200ページ足らずでそんなでかいテーマ扱えるはずもなく、著者はその流れを三人の人物(ジャバルティー、アリー・ムバーラクムハンマド・アブドゥー)に代表させ、彼らのテクストを引っぱることで、その折々の憤懣を提示する。
 へー、ほーと読むばかりで別に感想なんてない感じだった(内容について書いてある記事があったのでリンクしておく→beatoeの日記)のではあるが、一カ所だけ「ああ、そうなってるの!」と思った部分があって、そこだけ引用しておきたい。
 それはアリー・ムバーラクが書いた「アラム・アル=ディーン*1」で、主人公のアラム・アル=ディーンがしたヨーロッパにおける近代文明とキリスト教の矛盾の指摘を著者が解説している部分だ。

 キリスト教徒は、近代的な知識や技術に照らすならば信じられるはずのない、「イエスでの神の化身という間違った信念」を保持しつづけている。
 なぜなのか。それは、「恐らく、……かれらが世界のすべての人々に対する支配権を意味する(ローマ)教皇権を維持したいと望んでいる」からであろう。「というのも、かれらは、教皇こそ、かれらの祈念する神の代理であると主張しているからである」。

 ここでアラム・アル=ディーンが弾劾しているのは、「ヨーロッパにおける宗教と政治の癒着、つまり神政一致」なのだけれども、それが起こる理由の部分に俺は驚いた。

 この世は聖の世界と俗の世界からなる。これを、宗教の世界と政治の世界と呼び替えてもよい。アラム・アル=ディーンの主張によれば、この聖俗二元論こそ、ヨーロッパにおいて政治と宗教が癒着する原因である。
 この世に俗の世界とは別に聖なる世界というものが存在すると考えるから、俗の世界にいる人間が聖なる世界に受け入れられるためには特別な仲介者が必要になり、必然的に仲介者たる教皇が権力を持つようになる。

 そういう視点があったか、と一瞬本気で驚いた。もっともそのあとで政治と宗教を分けなければ、「政治と宗教の癒着」はなくなるにしても、それによって象徴されるような腐敗がなくなるわけではなくて、単に「政治と宗教の癒着」として見えなくなるだけじゃねーかとは思ったんだけども。
 ただこの政教分離批判はアリー・ムバーラクの独創ではなく、イスラム教の世界ではもともとそのふたつは分離させずに考えているらしい((「イスラーム文化」(井筒俊彦)によると、この発想はイスラムの主流にとってはあてはまるが、イランなどシーア派と呼ばれる人たちの考えではいささかズレる(違うというのとも違うんだけど)ようだ。で、エジプトはスンニー派と呼ばれる多数派の方の国であるので、ムバーラクのような発想が出てくるのも自然だったのかと思った。)。というよりも、政治経済から日常生活に至るまで宗教世界がカバーしない場所はないらしい。そうなると、イスラム教信者に宗教からの脱出なんて説いても、それはキリスト教徒に説くよりも「死ね」って言葉に近いんだろうなと思った。だって世界から宗教引いたらなんにもなくっちゃうってことになる。
 逆に言うと、そういう世界設定にしたことがイスラム教の強さなのかもしれない。上のような主張をアラム・アル=ディーンができるのも、癒着が目に見えるからで、見えなければケチもつけられないわけだから。
 と、そんなことを考えた。 
  
「イスラムvs.西欧」の近代 (講談社現代新書)
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*1:アラビア語では最初の対話形式による四巻からなる小説」とある。