西本願寺流焼香のやり方

 本日は祖父の納骨があった。幸いなことに天気も崩れず、風が強いながら無事納骨が済んだ。参加者は祖母、伯父夫婦、うちの家族、それから弟の一家。こじんまりとしたものだった。
 昼過ぎに霊園に着いた。そちらの方が準備を整えてくれていた。やってきてくれたお坊さんはまだ若く(といっても四十くらいだったろうか)、テキパキと納骨を済ませてからおもむろに、法要を始めた。
「みなさんご一緒に、なまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
 不謹慎にも「何のライブ、これ?」とか思いつつ、一応なまんだぶなまんだぶなまんだぶ。
 それからお坊さんは読経を開始する。風がびゅーびゅー吹いて寒いが、ポケットに手をいれるわけにもいかず、ひたすら手を合わせる。読経を聞きながら、これはなんのために行われる儀式なのかと考えていた。たぶん遺族である我々が、故人を偲ぶのに相応しい厳粛なムードというのを作る、ということがもっとも必要とされる効果なんだろう、なんてことを思っていたら、
「ごほん、ごほん」
 お坊さんが咳き込んで、読経が止まった。もちろんピアノの発表会同様、そのあとも何事もなかったかのように、読経が続いた。俺はなんとなく去年鶴岡八幡宮で見た新嘗祭を思い出した。雅楽鳴り響き、眠くなるようなペースで挙げられる祝詞。時折鳴らされる太鼓。それを打っていた人は片手にケータイだかトランシーバーだかを持ち、身体には欠片の緊張感も持ち合わせてはいなかった。なんつーか業務っぽくこなしていて、非常に残念な気持ちになった。
 しかしながら、お坊さんの方はまだキャリア半ばっぽい年齢でもあるし、「もっとしっかりした人にやってもらいたい」と条件反射で思ったものの、経験を持たずにしっかりしたプロになれる人などいるわけがないのだから、咳き込んで中断くらいで、ムッとするなんざ、俺はアホかと思い直した。と同時に、これまで読経を聞く機会があったときに、一度もこうした経験のなかったことに気がついて、お坊さん全般は凄いんだなと気がついた。普通咳のひとつやふたつ、してしまうもんだろう。やっぱり。目の前のお坊さんも声に張りがあって、練習を積んでいる感じはした。
 いい加減凄く寒いぞ、と思い出した頃、「ご焼香を」ということになって、祖母から順々に焼香をしていった。焼香ってのはあれだ。なんかよくわからないもんをつまんではパラパラ、つまんではパラパラ、つまんではパラパラして手を合わせる奴だ。何度やってもぎこちないんだけれども、まあこの際スマートさとか関係ないよね、大事なのは多分気持ち、と脇にどいてくれたお坊さんが読経を続ける中、俺もパラパラ。ところがここで我々はフラグを立てていた。それを知るのは読経が済んだあとだった。
 最後もみんなでなまんだぶなまんだぶなまんだぶと声を合わせて一礼とかして、風はびゅーびゅー吹き続け、ああやっと終わったわ、とホッとしていると、お坊さんが唐突に、
「ではすこしお話をさせていただきます」
 そういや有難い法話とかいうのがついてくるんだっけ、こういうのには。寒い、寒いよ。ってか、おばあちゃん寒空の下に立たせっぱなしなんで、早めにお願い、と反射的に俺は思った。で、お坊さんはこう続けた。
「私どもは仏教の中でも浄土真宗と呼ばれる宗派であります。浄土真宗というのはさらに十くらいに分かれまして、私どもは西本願寺という宗派であります。そして、わたくしどもの宗派ではご焼香の回数は一回です
 ん? そうなの? ところで俺たち、全員三回パラパラしてなかったか? ってか、お坊さん、顔が強ばっているのは寒さのせいですよね?
「今日はなぜこの焼香をするのかというお話をさせていただきます。そもそも焼香の起源はインドにありまして」
云々。身を清めるんだそうです。そして西本願寺の焼香回数は一回で、やりかたはまず遺影の方に一礼、一回パラパラ、ちょっと下がって手を合わせてお辞儀、喪主にお辞儀という順番なんだそう。阿弥陀如来は死んだ人を平等に救ってくれる。我々には死者の魂を救うことはできない。だから阿弥陀如来にお願いをする。そのときには身を清める。それが焼香であり、西本願寺派の焼香は一回なのである。数珠の持ち方は数珠の輪の中に両手を入れるのである。こうすると自分では何もできない。これで阿弥陀如来に対して無抵抗で縋ることを示すのである*1。この先、みなさま通夜や葬儀に出ることもあるだろうからしっかり覚えておくように。そんな主旨の話が、風がびゅーびゅー吹く中続けられた。ちなみにこういうディテールは宗派ごとに異なっているので、参列した葬儀で焼香三回のやり方をしている場合は、それに合わせるのがよい。しかし西本願寺は一回なのだ。戒名とは言わず、法名と呼ぶのだ。
 この有難い説教が終わって解放されたとき、俺が一番感じていたのはムカつきだった。
 恐らくお坊さんは三回ずつパラパラやる俺たちに「ちょっと待って、それ違うから!」と言いたかったんだけど、読経を止めるわけにもいかずヤキモキしていたのだろう。その気持ちは分かる。この人はそれで食ってるんだし、仏様の教えって奴に人生を捧げているんだろうし、向こうから見れば、宗徒である以上、それくらいは知っておいてくれないと困るんだろう。
 しかしだ。風がびゅーびゅー吹く中、八十越えてる祖母を立たせたまま、喋る内容が「焼香の回数が間違っていることについて」ってのは、なんなんだよ。せめて屋根があるときにしてくれ。風邪引かせたりしたら命取りになるかもしれないんだぜ? あんた、阿弥陀如来は平等に魂を救うとか言ってるじゃねえか。なら、パラパラ何回でも構わないんじゃねーの? 場を支配する流儀が三回ならそれに合わせろって言ってるじゃねえか。なら、パラパラ何回でも構わないんじゃねーの? いや、誰もそんなこと気にも止めてなかったのは申し訳なかったけど、あの寒さの中でどうしても主張しなきゃいけないことなわけ? それが?
 たぶん向こう的には主張しなければならなかったんだろう。宗教的に大ピンチだったんだろう。ロシア文学の大学院生が教授に「ドストエフスキーって誰ですか?」って聞くレベルで。わざわざ事細かに説明してくれたのも、ムカついたから説教してやる、なんてことではなくて、親切心だったんだろうと思う。しかしこちら側から言わせてもらえば、優先順位が間違っているのだ。俺たちは納骨の法要を切っ掛けにもう一人倒れるかもしれない*2リスク背負ってまで、そんな細かい知識は欲しくないのだ。なんつーか、悲しいすれ違いだ。祖母が体調を崩すこともなく帰宅できたので、とりあえずそんな風に結論した。

 もし仏教関係者の人がこれを読む機会があったら是非お願いしたいことがある。法要を始める前にステップの説明をしてくれ。特にパラパラ三回じゃない場合には。ローカルルールを知っているのが当然と考えるのは、宗派にも檀家にも損だと思うよ。葬式のときには浄土真宗って話は共通了解だったけど、それが何派であるのかなんてことは確認してなかった*3。お坊さんはこちらが当然知っているって前提でやって来たから、次から次へと三回パラパラするのに肝を潰したんだろう。それがどれくらい悲しいことなのか、あるいは一回パラパラがどれくらい大事なことなのか、俺には理解できないが、なあなあにできないんだったら、先に説明しておく保険をかけてくれれば、こんなことにはならないし、それは大した労力でもないだろうと思う。
 とりあえずこちら側も次回以降こうした法要に参加するときは、宗派の確認をして西本願寺派なら先に遺影に礼、パラパラ一回、すこし下がって頭を下げる。数珠に両手を入れて手を合わせるというステップを取ろうと思うし、それ以外の宗派だったら、やり方の確認をしようと思う。別にお坊さんを嘆かせたいわけはないし。なんかの役に立つ知識かなと思って記事にした。もしも「それやり方違う」なんて場合には教えてもらえたらと思う*4
 

*1:ここの説明は確かこんなだったと思うが、そのあと酒を飲んだもんでハッキリと思い出せない。

*2:祖父が本当にあっけなく逝ったもんだから、ナーバスになっている部分はあると思う。

*3:この辺もひょっとしたら段取りミスがあったんじゃないかと個人的には思っている。

*4:昔から聞いた話が勝手に変わっているということも多々あったので、俺はこう聞いたように思うが、ひょっとするとどこか間違っているかもしれないので。