川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ4


 この本の読書メモ。
 前回。
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第二章 戦争の長期化 第一節 戦争熱の冷却

 フランス人特派員のロベール・ギランは「一九四二年四月。三ヶ月にわたる絶え間ない勝利によって巻起こされた熱狂の波は、急速に引いた」と『日本人と戦争』で述べた。今から考えると意外にも思うが、勝ち馴れしたらしい。そうすると、前面に出てくるのは生活苦。一般的に「ひもじい思い」ってのは戦争末期の話と考えられているが、それは誤りで、「銃後は『開戦』間もない頃から食糧不足に瀕していた」のである。1942年3月横浜の大岡警察署管内で行われた調査では配給米の食い込み(次の配給日までに配給米を食べ尽くしてしまうこと)に陥った家庭は63.3パーセントにのぼっている。配給日の3日前までに米びつが空になったという家も5.3パーセント。1938年には2.46キログラムだった児童の体重増化の平均は1.4キロまで落ち込んでいた。そんな世相を反映してか、「買い出しの米を巡査に取りあげられて首を吊って死んだ者の話とか、一椀の飯を争って兄が弟を殺してしまった」といった流言が記録されている。『特高月報』昭和17年6月分には、

内乱だ 革命だ 東條必殺だ 国民学校生徒弁当紛失事故頻々たる何と見るか。

 との、「不良投書」が記録されている。清沢洌の『暗黒日記』にも昭和18年頃には革命の予想が出てくる。リアルタイムだと「こんな状況では革命不可避だろう」という実感があったんだろうね。なんでそうならなかったのか、という疑問を懐く資格は、史上最低の政権を懐いたまま、退陣に追い込む世論すら形成できずにいる今の我々にはない。
 この頃すでに生活必需品のほとんどが配給制となっていた。

 制度の運用は著しく公正・平等を欠き、むしろ自由販売が統制配給となったことは流通機構を不透明にし、不正が横行する結果となった。

 配給店の態度がガラリと尊大になって問題化したらしい。目の前の奴の「態度」に焦点があたっているところとか、リアルだ。もういっこリアルなのは、

物不足は買いだめをあおり、買いだめが物不足を生むという悪循環に加え、販売時間の制限は行列をますます長くした。ところが、当局はこの行列の時間を時間の空費であるとしてその取り締まりに乗り出した。

 3.11のあとのことを思い出しちゃったよ。取り締まりってのを官憲がやるんじゃなくてメディアにやらせてたけどさ。あとプッシュ型支援とかいって物資をコンビニで買わせようとしたのも思い出した。まあそんなに同一性ないだろと言われればそのとおりだけど、そうせざるを得ない事情を無視して「全体のことを考えて我慢しろ」って発想は同じじゃなかろうか、これ。で、食料難の憤懣は農家に向かい、都市部の人間は農村に強い反感を懐いたらしいのだが、農村のほうも都市部の住民に反感を持っていたのだそうだ。

その理由は主に農産物の低価格政策と供出の二点にある。食料の低価格政策は「小麦一俵とスフのズボン一着の交換では百姓が嫌になる」という不平を農民に広げた。

 「スフ」ってのはステープル・ファイバー(木綿・絹などの不足を補う代替品の化学繊維、ひどく耐久性に欠け、農作業に不向きだった)のこと。また、衣料切符制でも都市部が優遇されたことも不満の一因だった。「遊んで居る都会人が沢山食べて我々が腹を減らして居てよいのか」というのが農村部の認識だった。もちろん、応召・徴用のせいで労働力は不足している。しかし、これも我々には親しい展開なのだけど、

民衆は政治体制の矛盾を指摘するよりは、むしろ民衆同士がいがみ合うという悪循環を拡大していた。そこには聖戦意識という理想があり、その裏では窮乏化した民衆の相克があり、そして、その底流に民衆の慟哭(どうこく)があった。この理想と底流が表裏一体となり、戦中意識を構成していた。

 しかし、

言論報道機関は挙げて戦争熱をあおり、紙面にはその「高尚」な知識を持っているはずの「識者」や「知識人」たちが、日本の聖戦や必勝についての「哲学」やら「思想」とかを延々と披瀝(ひれき)していたのである。

 子どもの戦死通知を受け取った親が「幾ら国家の為とは云え親の身として之が泣かずに居られるものか」と嘆いたために特高警察に送検される(本書に掲げられたエピソードである)ような統制状況で、メディアがこんなもん垂れ流してれば、憤懣は庶民間でぶつけ合うしかないよな、そりゃ。

 また、マスコミは戦死者の「軍神」化、「勇士」化をあおる。そのため、遺家族は「その慟哭とはかけ離れた規範を要求されるのであった」。子どもが三人戦死して表彰された親は読売新聞の取材に

 夜中にふっと眼をさまし一晩中眠れなかったこともよくありました、忘れよう〳〵と努めても思いだすのはいつも元気な姿や良い記憶ばかりなので忘れ切れませんでした。そのうちに三人ともまだ生きて働いているような気がしてきました。そう、三人とも生きている、生きていると思えば、なァに二町歩位の田畑の世話は苦にならない、残った三人が召されて征(い)って、そしてよし三人とも死んで跡とり息子が無くなってもわしらには国が残る。

 と述べ、読売は最後の言葉を使い「倅(せがれ)はみな死んでもわしらには国が残る」という見出しを打ったそうである。「忘れ切れませんでした」で終わっていれば、この発言も検挙の対象となりかねなかったと著者は述べている。しかし96~97年頃にこれを書いた著者は10年足らずで、イスラムテロ組織に息子を殺された親御さんが「ごめいわくをかけて申し訳ありませんでした」とカメラの前で謝る時代が来るとは思ってなかっただろうな。子どもを失って嘆くことが当然ではないという規範は残念ながら死に絶えていない。治安維持法がなくても政府が自己責任といいマスコミがそれに追従していれば、法律の罰則がなくても同じ役割をリンチの予感が受けもつわけで。もちろん、法律の存在は社会からそうした規範への葛藤を抑圧する機能があるので同日に語ることはできないにせよ、ここで引用したような醜悪さは過去のものではない。『永続敗戦論』からの孫引きをするなら、「私らは侮辱のなかに生きている」。昔も今も。「仕方ない」がそれを考えないようにするためのおまじないだ。

 本節の後半のトピックは1942年4月18日、米軍による日本本土初空襲となった「ドゥーリトル空襲」である。被害を矮小化するメディア、敵愾心を紅葉させる民衆の反応を紹介したあと、自作自演説が語られたことをが述べられている。9.11かよ。面白いと思ったのはその解釈。

 アメリカによる空爆とは信じないという点は、逆にみれば自国の勝利を疑わないからであり、この限りでみれば戦意は高いと言えた。

 つまり、勝つことは疑わないけども政府の施策に根強い不信が民心にあった。「要するに、国民はその必勝信念ほどに東条内閣を信頼していなかったということになろう。」とまとめられていて、一瞬よくわからなかったのだけど、あれなのね、たぶん、勝利は政策云々とは関係なく現人神の力でもたらされると考えていたってことだよね。まだ現在の世論調査結果(政策トピックには反対のほうが多いのに、支持率だけは高いってあれ)よりは筋道が通っているのかも。今なんてまとめちゃうと「やろうとする政策は全然賛同できないけど安倍しかいない」って意見がおかしいと思われていない節あるもんね。現人神教育施されていなくてもこんななんだから、天皇陛下は神様ですって叩き込まれていたら、政府信じられなくても戦争には勝つと確信するのも不思議ではないと思う。っていうか、今のほうが謎が深い。で、当時の選挙は無効票が増えていて、投票用紙に批判の文言が書いてあったりしたようなのだけど、ここで槍玉に挙げられているのが安倍の祖父の岸信介

新らしい共産主義者岸信介(きしのぶすけ)を打ち殺せ
官吏極楽商工地獄せめてなりたや守衛さん
スターリン岸大臣覚悟あれ
中小工業者は犬猫にあらず殺されてたまるか

 たぶん一行につき執筆者ひとり。中小企業経営者層からの岸信介の評価は極めて悪かったそうだ。にしても、この例に出てくるのって「○○は共産主義のスパイ」「公務員は優遇されていてズルい」「中小企業の労働者は人間扱いされていない」で、批判の形式に馴染みありすぎて嫌になるね。おまけにこの岸が戦後は総理大臣になって、その七光りで孫まで総理になっているわけだからさ……。健忘症か? とか思いたくもなるけれど、三猿主義が処世術だった時代のくぐり抜けて、新しい処世術へ移行する誘因を持たなかった人はもともとの規範を使い続けただろうから、政治的意見を持つのは危険という意識が当時の権力者の温存に役立ったんだろうななどと適当なことを考えた。
 大きく変わったと考えられるのは、上のような岸批判は報道されなかったんじゃないかということくらいかな。数年まえ、トイレに安倍首相の悪口が書いてあったというニュースを見て、「これがニュースになるのか」と薄ら寒い気分を味わったんだけど、口に出すと憲兵やってくるから投票用紙に書くしかない状況と、便所の落書きがニュース報道されるのと、どっちがマシかって問いが成立する程度にしか差はないように思う。もちろんこれは往事を矮小化したくて言っているわけではない。