川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ6


 この本の読書メモ。
 前回。
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第二章 戦争の長期化 第三節 忠誠と不敬の間

 『特高月報』昭和18年1月分で紹介された不敬罪を犯した男性の話が紹介されている。この男性、靖国神社を訪れた天皇皇后夫妻の報道写真を見て、国母陛下が英国式洋装をしているのはけしからんと考え、その旨特高の視察員(民間人監視するスパイみたいなものらしい)に伝えて御用となった。去年だか一昨年だかに「天皇反日」というツイートを見て頭がクラクラしたのだが、戦時中にも「天皇は非国民」みたいな発言があったんだな。ただ、著者によると後者は前者ほどデタラメでもないらしい。

皇室批判にのみ問題を限れば、この男は「不敬」であろう。しかし、「皇后陛下の御洋装こそ戦時下に有間敷(あるまじ)き米英思想の表現にして国内思想悪化の根本原因」であるとのこの男の指摘は、当時の英米の文化・思想の排撃という脈絡からすれば、実は“非常に正しい”のである。
(中略)
明治日本が欧化の結果できたものであるとすれば、実は「米英排撃」は自己否定をも含んでしまう。この自己否定の結果が、先に見た「皇后陛下の御洋装」への批判であった。

 このあと、話は西洋文明の克服という話題に流れる。このテーマは戦後にも繰り返される「伝統」だと著者は言う。

大東亜戦争」肯定史観もつまるところ、この戦中より持続されてきた対欧米文明史観の延長上にあった。したがって、アジアの解放といった時、そこには、西洋文明の先進性を克服するという意識が底流にあった。

 が、現代(執筆当時)と戦中では大きな違いがあって、それは「戦中のそれ」が「天皇制を中心とした排他的かつ、教条的な公定イデオロギーとして思想と言論の自由を抑圧していた」点だと著者は言う。で、当時の公定イデオロギーを紹介するため、『国体の本義』(1937年)と『臣民の道』(1941年)を紹介している。キーワードは「醇化(じゅんか)」。

「醇化」とは日本民族の先進性と優秀性を示す概念であり、「西欧的」な「近代化」という世界史的展開への対抗概念として「日本的な醇化」が位置づけられたのである。『国体の本義』における日本文化の史的展開は外来文化の国体による「摂取醇化」の連続として描かれている。この図式によれば、日本文化は過去に中国大陸の文化を摂取醇化した後に新たな「和魂漢才」という新文化を創造し、明治の文明開化においては西洋文化を摂取し「和魂洋才」による新文化の創造を行ってきたということになる。このように様々な外国文化の伝来にもかかわらず「よく我が国独特のものを生むに至ったことは、全く我が国特殊の偉大なる力」であるとして日本文化の優越性を主張するのである。

 で、これと目下西洋文明は「崩壊の一途を辿り」つつあるという認識が相俟って「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造」すべきであるという主張がなされた。これは「我が国にして初めて道義的世界建設の使命を果たし得る」という世界システムへの状況対応から状況創出への宣言となる。このくだりを読んだときには、「道義的」って言葉に目が止まった。
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これを思い出したためである。

 で、この特殊性・優越性を強調した論法は

「人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道に則り臣民の道を行ずる」(『臣民』)ものであるという独善主義に陥るのである。ここには自らの民族性を尊重するからこそ、他国の民族性も尊重するという相互性が見られない。これはアジア・ナショナリズムからの決別であり、日本本位の「八紘一宇」によるアジア主義なのである。

 この冒頭のトチ狂った人間定義は十人中九人がトチ狂ってると思う(ことを期待する)。のだが、今であってもなんか残酷な犯罪とかが起きると「日本人じゃない」ってフレーズを口走る人結構多い(頭の悪いレイシスト以外でも使う人がいるんだよね。文脈から考えると「人間じゃない」って意味で使ってるの)ので、この独善性ってのは連綿と受け継がれている気がしてならない。
 が、このような精神のために、「国家建設は近代的に、国民統合は伝統的に」という二重標準的な近代化が余儀なくされた。「皇后陛下の御洋装」への批判は、まさにこの点から生じたのである。やがてこうした論理の綻びは戦争末期に至り、銃後の民衆の生活の随所に不条理として現れることになるが、この段階で、『国体の本義』『臣民の道』が国民に要請していたのは、「総力戦体制の完遂とその効率化についてのみ合理的にものを考え、政治や社会については非合理的に、極端に『伝統的』にものを考えること――それはもはやものを考えるなという次元に達している――」ということである。現代の世論調査を見ると、大抵の場合、あらゆる政策で反対が、疑惑の説明に関しては不十分が多数派でありながら、内閣支持率は高いという不思議な現象をよく見るが、あれも戦時から続く伝統なのかもしれない。(世論調査の結果については捏造だという人も一定数いるが、その思考も基本的には非合理だと自分は考える。捏造できるならあんな不思議な結果にする必要はなく賛成やら説明は十分果たされたって意見を多数派にしてしまえばいい。)だから、ここで言われてる和魂洋才ってのは、全然滅ばずにずっと蔓延っていたんじゃないかという気がしてならない。清沢洌の『暗黒日記』(感想)を読むと批判の内容はそのまま現代に当てはめることができるし。今回紹介されている『臣民の道』、それから同時期に出された『戦陣訓』が規範にされた超監視社会を生き残る処世術が三猿主義だったのは、すでに書いた。敗戦でシステムは破綻したわけだけども、兵士にされた人たち同様、銃後も社会復帰カウンセリング的なものを受けられなかった。となれば、規範と処世術はデリートされなかったことになる。結果が現代である。俳優が役作りの話をしたら炎上する現代である。もうすぐ憲法は変えられてしまいそうな雰囲気だけども、自民党憲法草案(PDF)には緊急事態条項が含まれている(第九十八条、九十九条)。そうなると、我々の人権は制限され、参政権は停止する(九十九条四項はそういう意味だ)。一瞬でこの本の世界が出現するわけである。これは軽く見ちゃいけない話だ。なぜって、上でも引いたように閣僚を務めた議員がその答弁で「道議国家」なる戦中ワードを発し(もっと小物で八紘一宇を称えた議員もいた)、国会議員が北方領土は戦争して取り返すしかないと口走る、そんな世の中にわれわれが暮らしているからだ。威勢のよさがアピールポイントだと学習してしまった三流どもが権力を握り、アホがその威勢のよさに喝采を贈っているうちに、どんどん悪いほうに事態は転がっているからだ。戦時中の民衆がトチ狂ったお上に唯々諾々と従ったことについては、制度・情報その他があったから仕方なかったと言えるかもしれない。けれども、後世が現代の状況、そして悲惨なシナリオで進んでしまった場合のこれから十年くらいを見たとき、彼らはわれわれにどんな言い訳を許してくれるのだろうか。