森下雨村『謎の暗号』

 講談社少年倶楽部文庫の一冊。裏表紙のあらすじ紹介はこんなかんじ。

アメリカ育ち、外国語なら英語、ドイツ語、フランス語なんでもござれの東郷富士夫少年。おじさんの紹介で警視庁外事課の助手となり、玉村課長の片腕として、東京を舞台に暗躍するスパイの陰謀をずばりずばりと解決する。胸のすく推理小説の傑作。

 もともとは昭和8(1933)年1月〜昭和9年2月号まで「少年倶楽部」に連載された作品。作者の森下雨村は雑誌「新青年」の初代編集長で乱歩をデビューさせた人でもあった*1
 で、その目利きがどんな小説を書くのやらと手に取ってみたのだが、全5話のうち、暗号がからんでくるのは最初のふたつくらいで、しかも最初に暗号を提示するのではなく、主人公富士夫が解けたと言ってからどんな暗号なのか提示するという不手際で、現在の時点で読んで面白いかと言われるとかなり疑問。もっとも
 しかしこれまた時代の風物を保存した資料であるというつもりになって読むと、かなり興味深い。
 まず第一に、本作は戦後ではほぼ不可能であろうという設定がなされている。それは善玉の中に特高の刑事がいることで、そりゃ戦前であれば、特高も正義の味方扱いだったのだろうと読んでから思ったが、最初は驚いた。またそこかしこに見られる書きぶりも戦前という時代を感じさせる。書き出しからしてこうだ。

「なんといったって、日本が一等強いんですよ。これで、いざとなったら、日本は世界を相手に戦うでしょうが、ヨーロッパの諸国はもちろんのこと、アメリカにしたって、日本を相手に、いま、戦争しようなどという気は絶対にありませんからね」

 昭和7年末の段階で、少年ものの小説にこんな台詞が出てくるほど日米関係やばかったのかなあ、なんてことを考えながら読み進めていくと、「売国奴」だの「毛唐」だのが連発される。
 ある兵器の説明では、

「……これがいよいよ完成した暁には、水雷戦法にたけた日本の海軍は、鬼に金棒というわけで、事実上どこと戦争したって、負けっこはないんです」
「すてきだなあ! 本当に負けないんですか? どこと戦争しても?」
「負けるものか。日本の海軍は世界一強いんだもの――」
「えらいなあ! 日本海軍万歳だ!」

 と、アメリカ帰りの富士夫がなぜか大喜び。
 他の話では、

これは非常時日本の中心、大東京の空で、敵機襲撃に備える大防空演習がおこなわれようとしている一週間ばかり前のこと。

 と、この年行われた防空演習*2や前年の上海事変への言及が見られたりするが、それも戦後では不可能だろうと思うほど、華やかな記録として出現する。ここら辺は当時の社会がというよりもメディアがそれらをどう受け止めていたか、あるいは受け止めさせようとしていたかを示唆していて興味深い。もっとも作者自身は話を面白くする小道具くらいにしか、そういった要素を考えていないように見えるが。
 またあるエピソードでは、富士夫が仲間への通信のためにボタンを残しナイフか何かでその裏にメッセージを潜ませるという趣向があって、のちの少年探偵団シリーズで出てくるBDバッヂの原型はこの辺かもしれないと思った。
 でもちょっと怖えと思ったのは、「非常時日本」って言葉が出てくるこの本が書かれたのは昭和8年で日中戦争が始まるまでに4年、太平洋戦争までには8年の時間があるということで、連発される非常時って言葉に人々が麻痺していたんじゃないかという気もしなくもない。言葉の指す内容が変わっていくことに、当時のメディアはどれくらい敏感だったのだろうか。
 相変わらずまとまらないメモ書きだなあ。もっとまともな感想が読みたいと言う方には、UNCHARTED SPACE「謎の暗号」評などが参考になると思う。
 講談社少年倶楽部文庫の収録作品に興味を持たれた方は第一期収録作品で入手可能なものをリストにしてみたので、参照して欲しい。
リストマニア:講談社少年倶楽部文庫収録作品

*1:とはいえこれは乱歩のせっつきがなければ読まれなかった可能性もありそうだけど。とはいえ乱歩のデビュー作「二銭銅貨」が「新青年」大正十二年四月号に掲載されたるにあたっては、その前号に「日本にも外国の作品に劣らぬ探偵小説が出なくてはならぬ。私たちはこういっていたのである。が、果然、そうした立派な作品が現れた。真に外国の作品にも劣らない。いや、或る意味においては外国の作品よりもすぐれた長所を持った、純然たる創作が生れたのである。次号に発表する江戸川氏の作品がそれである。」(江戸川乱歩全集第1巻「屋根裏の散歩者」より引用)と最大級の賛辞を載せている。

*2:陸軍は東京市と連携し、1932年に市長の下に在郷軍人会、青年団などの諸団体を統合した「国民防空」団体=「防護団」を組織させ、1933年には東京を中心とする大規模な防空演習(関東防空演習)を実施した。以後、全国的に大規模な防空演習が行われるようになり、防護団も全国で結成されていく。東京での防空演習は1933年以降も毎年実施され、防護団の訓練から、更に進んで一般市民の訓練へと発達を遂げていった。http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=184