川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ6


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第二章 戦争の長期化 第三節 忠誠と不敬の間

 『特高月報』昭和18年1月分で紹介された不敬罪を犯した男性の話が紹介されている。この男性、靖国神社を訪れた天皇皇后夫妻の報道写真を見て、国母陛下が英国式洋装をしているのはけしからんと考え、その旨特高の視察員(民間人監視するスパイみたいなものらしい)に伝えて御用となった。去年だか一昨年だかに「天皇反日」というツイートを見て頭がクラクラしたのだが、戦時中にも「天皇は非国民」みたいな発言があったんだな。ただ、著者によると後者は前者ほどデタラメでもないらしい。

皇室批判にのみ問題を限れば、この男は「不敬」であろう。しかし、「皇后陛下の御洋装こそ戦時下に有間敷(あるまじ)き米英思想の表現にして国内思想悪化の根本原因」であるとのこの男の指摘は、当時の英米の文化・思想の排撃という脈絡からすれば、実は“非常に正しい”のである。
(中略)
明治日本が欧化の結果できたものであるとすれば、実は「米英排撃」は自己否定をも含んでしまう。この自己否定の結果が、先に見た「皇后陛下の御洋装」への批判であった。

 このあと、話は西洋文明の克服という話題に流れる。このテーマは戦後にも繰り返される「伝統」だと著者は言う。

大東亜戦争」肯定史観もつまるところ、この戦中より持続されてきた対欧米文明史観の延長上にあった。したがって、アジアの解放といった時、そこには、西洋文明の先進性を克服するという意識が底流にあった。

 が、現代(執筆当時)と戦中では大きな違いがあって、それは「戦中のそれ」が「天皇制を中心とした排他的かつ、教条的な公定イデオロギーとして思想と言論の自由を抑圧していた」点だと著者は言う。で、当時の公定イデオロギーを紹介するため、『国体の本義』(1937年)と『臣民の道』(1941年)を紹介している。キーワードは「醇化(じゅんか)」。

「醇化」とは日本民族の先進性と優秀性を示す概念であり、「西欧的」な「近代化」という世界史的展開への対抗概念として「日本的な醇化」が位置づけられたのである。『国体の本義』における日本文化の史的展開は外来文化の国体による「摂取醇化」の連続として描かれている。この図式によれば、日本文化は過去に中国大陸の文化を摂取醇化した後に新たな「和魂漢才」という新文化を創造し、明治の文明開化においては西洋文化を摂取し「和魂洋才」による新文化の創造を行ってきたということになる。このように様々な外国文化の伝来にもかかわらず「よく我が国独特のものを生むに至ったことは、全く我が国特殊の偉大なる力」であるとして日本文化の優越性を主張するのである。

 で、これと目下西洋文明は「崩壊の一途を辿り」つつあるという認識が相俟って「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造」すべきであるという主張がなされた。これは「我が国にして初めて道義的世界建設の使命を果たし得る」という世界システムへの状況対応から状況創出への宣言となる。このくだりを読んだときには、「道義的」って言葉に目が止まった。
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これを思い出したためである。

 で、この特殊性・優越性を強調した論法は

「人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道に則り臣民の道を行ずる」(『臣民』)ものであるという独善主義に陥るのである。ここには自らの民族性を尊重するからこそ、他国の民族性も尊重するという相互性が見られない。これはアジア・ナショナリズムからの決別であり、日本本位の「八紘一宇」によるアジア主義なのである。

 この冒頭のトチ狂った人間定義は十人中九人がトチ狂ってると思う(ことを期待する)。のだが、今であってもなんか残酷な犯罪とかが起きると「日本人じゃない」ってフレーズを口走る人結構多い(頭の悪いレイシスト以外でも使う人がいるんだよね。文脈から考えると「人間じゃない」って意味で使ってるの)ので、この独善性ってのは連綿と受け継がれている気がしてならない。
 が、このような精神のために、「国家建設は近代的に、国民統合は伝統的に」という二重標準的な近代化が余儀なくされた。「皇后陛下の御洋装」への批判は、まさにこの点から生じたのである。やがてこうした論理の綻びは戦争末期に至り、銃後の民衆の生活の随所に不条理として現れることになるが、この段階で、『国体の本義』『臣民の道』が国民に要請していたのは、「総力戦体制の完遂とその効率化についてのみ合理的にものを考え、政治や社会については非合理的に、極端に『伝統的』にものを考えること――それはもはやものを考えるなという次元に達している――」ということである。現代の世論調査を見ると、大抵の場合、あらゆる政策で反対が、疑惑の説明に関しては不十分が多数派でありながら、内閣支持率は高いという不思議な現象をよく見るが、あれも戦時から続く伝統なのかもしれない。(世論調査の結果については捏造だという人も一定数いるが、その思考も基本的には非合理だと自分は考える。捏造できるならあんな不思議な結果にする必要はなく賛成やら説明は十分果たされたって意見を多数派にしてしまえばいい。)だから、ここで言われてる和魂洋才ってのは、全然滅ばずにずっと蔓延っていたんじゃないかという気がしてならない。清沢洌の『暗黒日記』(感想)を読むと批判の内容はそのまま現代に当てはめることができるし。今回紹介されている『臣民の道』、それから同時期に出された『戦陣訓』が規範にされた超監視社会を生き残る処世術が三猿主義だったのは、すでに書いた。敗戦でシステムは破綻したわけだけども、兵士にされた人たち同様、銃後も社会復帰カウンセリング的なものを受けられなかった。となれば、規範と処世術はデリートされなかったことになる。結果が現代である。俳優が役作りの話をしたら炎上する現代である。もうすぐ憲法は変えられてしまいそうな雰囲気だけども、自民党憲法草案(PDF)には緊急事態条項が含まれている(第九十八条、九十九条)。そうなると、我々の人権は制限され、参政権は停止する(九十九条四項はそういう意味だ)。一瞬でこの本の世界が出現するわけである。これは軽く見ちゃいけない話だ。なぜって、上でも引いたように閣僚を務めた議員がその答弁で「道議国家」なる戦中ワードを発し(もっと小物で八紘一宇を称えた議員もいた)、国会議員が北方領土は戦争して取り返すしかないと口走る、そんな世の中にわれわれが暮らしているからだ。威勢のよさがアピールポイントだと学習してしまった三流どもが権力を握り、アホがその威勢のよさに喝采を贈っているうちに、どんどん悪いほうに事態は転がっているからだ。戦時中の民衆がトチ狂ったお上に唯々諾々と従ったことについては、制度・情報その他があったから仕方なかったと言えるかもしれない。けれども、後世が現代の状況、そして悲惨なシナリオで進んでしまった場合のこれから十年くらいを見たとき、彼らはわれわれにどんな言い訳を許してくれるのだろうか。

川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ5


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第二章 戦争の長期化 第二節 ガダルカナル「転進」と「大本営発表

 開戦後半年くらいから徐々に戦況が悪化する。それはまた同時に「大本営発表」の虚報の始まりでもあった。ということで、ありもしない戦果をでっちあげたり戦略的な敗北を大戦果と言ってみたりしつつ1943年2月9日にはガダルカナル、ブナからの「転進」という発表がなされる。粉飾された戦果をメディアもそのまま垂れ流しているのだから、国民が気づけるはずもないと思いきや、この頃から報道に対する不信が警察への匿名投書の形で観察されるようになったのだとか。
 そうした事柄を背景にしつつ、筆者の筆は当時の労働状況に進む。大量招集で熟練労働者が職場から前線に奪われ、労働現場に混乱を招いたため労働力の確保そのものが大きな課題となっていた。

 労働力の確保について、その埋め合わせとして、当時「徴用(ちょうよう)」という制度があった。(略)これは日中戦争のさなか一九三九年七月に公布された国民徴用令により、国家権力が重点産業に労働力確保のために一方的に民衆を招集する制度のことである。兵隊の召集令状がその色から俗に赤紙と言われたのに対し、徴用は、その令状の色から白紙召集と呼ばれた。今日ふうに言えば、強制的な転職であるが、ほとんどの場合、待遇・賃金ともに以前の職業よりも低下していた。名誉の白紙召集などと称されていたが、精神面ばかりが強調され、その見返りははるかに少なかった。
(中略)
 この徴用行員に加え、当時の工場には転業者と呼ばれる人々がいた。軍需産業に重点をおく経済統制の強化により、当時、戦争経済に不要不急とされる業界は規制、廃業、転業を余儀なくされていた。

 待遇・賃金ともに以前の職業よりも低下しているの一例として、1942年6月から7月の調査が引かれている。それによると転業者の収入は「最高一三〇円余、最低四三円余、平均七七円」である一方、ほかの一般労務者は「最高二九八円余、最低九七円余」だったという。つまり、転業者の平均収入はそれ以外の一般労務者の最低賃金を下回っていたわけだ。上の引用を見ればわかるように、これは本人たちが希望した転職ですらないわけで、やってられなかっただろうな。実際、転業、徴用といった人々は、好条件の求人があるとさっさとそっちに行ってしまうことも多かったのか、1942年11月の『特高月報』には三菱神戸造船所で欠勤率30%を川崎艦船工場では63%を記録したとある。しかし、当局には状況を改善するような策もなく、労力不足の対策として捕虜の子葉と徴用の延期に踏み切る。なお、捕虜の就労は戦時における国際法違反だった。なんかこれまた今も昔もな話だと思いません? もちろん、これで生産効率が上がるはずがない。
 徴用期間の延期は「心理的動揺を来し、勤労意欲の低下に依る生産減退を生ずる懸念ある」状況だったが、じゃあどんな対策をしたかといえば、

 この「特別の措置」として、当局は精神主義でこれを埋め合わせようとした。例えば、陸軍航空本部では関係工場の模範徴用工員を表彰した。(略)特別の措置とは、精神主義による国民の犠牲に名誉を与えることであった。国民の側で、これを名誉と受けとめている限り、それは最も効率的な支配に過ぎないのである。

 なんかあんまり関係ないが、最近(数年以内)も少子化対策とかいって子ども何人か産んだ人を表彰してはどうかってアホなこと言った議員がいたと思うが、発想は戦時中と同じだね。

 能率、意欲の低下は農村でも起きた。理由は(1)軍需中心の産業政策の結果、肥料・農機具の入手が困難となり、さらにその品質が悪化していた。(2)大量召集による労働力不足の深刻化。(3)米価引き上げの見送りとのことで、この節読んでると、いったい誰得でこの戦争は遂行されていたのかという気がしてくるわけだが、「始めてしまったものをやめたら面子に関わる」(アベノミクスみたいに)ってだけだったのではないかという気も強くする節だった。転業のせいで数代続いていた店畳まなきゃいけなくなった人物から「天皇なんか殺せ」という投書もあったらしいが、そりゃそうだろうなあ。

 

川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ4


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第二章 戦争の長期化 第一節 戦争熱の冷却

 フランス人特派員のロベール・ギランは「一九四二年四月。三ヶ月にわたる絶え間ない勝利によって巻起こされた熱狂の波は、急速に引いた」と『日本人と戦争』で述べた。今から考えると意外にも思うが、勝ち馴れしたらしい。そうすると、前面に出てくるのは生活苦。一般的に「ひもじい思い」ってのは戦争末期の話と考えられているが、それは誤りで、「銃後は『開戦』間もない頃から食糧不足に瀕していた」のである。1942年3月横浜の大岡警察署管内で行われた調査では配給米の食い込み(次の配給日までに配給米を食べ尽くしてしまうこと)に陥った家庭は63.3パーセントにのぼっている。配給日の3日前までに米びつが空になったという家も5.3パーセント。1938年には2.46キログラムだった児童の体重増化の平均は1.4キロまで落ち込んでいた。そんな世相を反映してか、「買い出しの米を巡査に取りあげられて首を吊って死んだ者の話とか、一椀の飯を争って兄が弟を殺してしまった」といった流言が記録されている。『特高月報』昭和17年6月分には、

内乱だ 革命だ 東條必殺だ 国民学校生徒弁当紛失事故頻々たる何と見るか。

 との、「不良投書」が記録されている。清沢洌の『暗黒日記』にも昭和18年頃には革命の予想が出てくる。リアルタイムだと「こんな状況では革命不可避だろう」という実感があったんだろうね。なんでそうならなかったのか、という疑問を懐く資格は、史上最低の政権を懐いたまま、退陣に追い込む世論すら形成できずにいる今の我々にはない。
 この頃すでに生活必需品のほとんどが配給制となっていた。

 制度の運用は著しく公正・平等を欠き、むしろ自由販売が統制配給となったことは流通機構を不透明にし、不正が横行する結果となった。

 配給店の態度がガラリと尊大になって問題化したらしい。目の前の奴の「態度」に焦点があたっているところとか、リアルだ。もういっこリアルなのは、

物不足は買いだめをあおり、買いだめが物不足を生むという悪循環に加え、販売時間の制限は行列をますます長くした。ところが、当局はこの行列の時間を時間の空費であるとしてその取り締まりに乗り出した。

 3.11のあとのことを思い出しちゃったよ。取り締まりってのを官憲がやるんじゃなくてメディアにやらせてたけどさ。あとプッシュ型支援とかいって物資をコンビニで買わせようとしたのも思い出した。まあそんなに同一性ないだろと言われればそのとおりだけど、そうせざるを得ない事情を無視して「全体のことを考えて我慢しろ」って発想は同じじゃなかろうか、これ。で、食料難の憤懣は農家に向かい、都市部の人間は農村に強い反感を懐いたらしいのだが、農村のほうも都市部の住民に反感を持っていたのだそうだ。

その理由は主に農産物の低価格政策と供出の二点にある。食料の低価格政策は「小麦一俵とスフのズボン一着の交換では百姓が嫌になる」という不平を農民に広げた。

 「スフ」ってのはステープル・ファイバー(木綿・絹などの不足を補う代替品の化学繊維、ひどく耐久性に欠け、農作業に不向きだった)のこと。また、衣料切符制でも都市部が優遇されたことも不満の一因だった。「遊んで居る都会人が沢山食べて我々が腹を減らして居てよいのか」というのが農村部の認識だった。もちろん、応召・徴用のせいで労働力は不足している。しかし、これも我々には親しい展開なのだけど、

民衆は政治体制の矛盾を指摘するよりは、むしろ民衆同士がいがみ合うという悪循環を拡大していた。そこには聖戦意識という理想があり、その裏では窮乏化した民衆の相克があり、そして、その底流に民衆の慟哭(どうこく)があった。この理想と底流が表裏一体となり、戦中意識を構成していた。

 しかし、

言論報道機関は挙げて戦争熱をあおり、紙面にはその「高尚」な知識を持っているはずの「識者」や「知識人」たちが、日本の聖戦や必勝についての「哲学」やら「思想」とかを延々と披瀝(ひれき)していたのである。

 子どもの戦死通知を受け取った親が「幾ら国家の為とは云え親の身として之が泣かずに居られるものか」と嘆いたために特高警察に送検される(本書に掲げられたエピソードである)ような統制状況で、メディアがこんなもん垂れ流してれば、憤懣は庶民間でぶつけ合うしかないよな、そりゃ。

 また、マスコミは戦死者の「軍神」化、「勇士」化をあおる。そのため、遺家族は「その慟哭とはかけ離れた規範を要求されるのであった」。子どもが三人戦死して表彰された親は読売新聞の取材に

 夜中にふっと眼をさまし一晩中眠れなかったこともよくありました、忘れよう〳〵と努めても思いだすのはいつも元気な姿や良い記憶ばかりなので忘れ切れませんでした。そのうちに三人ともまだ生きて働いているような気がしてきました。そう、三人とも生きている、生きていると思えば、なァに二町歩位の田畑の世話は苦にならない、残った三人が召されて征(い)って、そしてよし三人とも死んで跡とり息子が無くなってもわしらには国が残る。

 と述べ、読売は最後の言葉を使い「倅(せがれ)はみな死んでもわしらには国が残る」という見出しを打ったそうである。「忘れ切れませんでした」で終わっていれば、この発言も検挙の対象となりかねなかったと著者は述べている。しかし96~97年頃にこれを書いた著者は10年足らずで、イスラムテロ組織に息子を殺された親御さんが「ごめいわくをかけて申し訳ありませんでした」とカメラの前で謝る時代が来るとは思ってなかっただろうな。子どもを失って嘆くことが当然ではないという規範は残念ながら死に絶えていない。治安維持法がなくても政府が自己責任といいマスコミがそれに追従していれば、法律の罰則がなくても同じ役割をリンチの予感が受けもつわけで。もちろん、法律の存在は社会からそうした規範への葛藤を抑圧する機能があるので同日に語ることはできないにせよ、ここで引用したような醜悪さは過去のものではない。『永続敗戦論』からの孫引きをするなら、「私らは侮辱のなかに生きている」。昔も今も。「仕方ない」がそれを考えないようにするためのおまじないだ。

 本節の後半のトピックは1942年4月18日、米軍による日本本土初空襲となった「ドゥーリトル空襲」である。被害を矮小化するメディア、敵愾心を紅葉させる民衆の反応を紹介したあと、自作自演説が語られたことをが述べられている。9.11かよ。面白いと思ったのはその解釈。

 アメリカによる空爆とは信じないという点は、逆にみれば自国の勝利を疑わないからであり、この限りでみれば戦意は高いと言えた。

 つまり、勝つことは疑わないけども政府の施策に根強い不信が民心にあった。「要するに、国民はその必勝信念ほどに東条内閣を信頼していなかったということになろう。」とまとめられていて、一瞬よくわからなかったのだけど、あれなのね、たぶん、勝利は政策云々とは関係なく現人神の力でもたらされると考えていたってことだよね。まだ現在の世論調査結果(政策トピックには反対のほうが多いのに、支持率だけは高いってあれ)よりは筋道が通っているのかも。今なんてまとめちゃうと「やろうとする政策は全然賛同できないけど安倍しかいない」って意見がおかしいと思われていない節あるもんね。現人神教育施されていなくてもこんななんだから、天皇陛下は神様ですって叩き込まれていたら、政府信じられなくても戦争には勝つと確信するのも不思議ではないと思う。っていうか、今のほうが謎が深い。で、当時の選挙は無効票が増えていて、投票用紙に批判の文言が書いてあったりしたようなのだけど、ここで槍玉に挙げられているのが安倍の祖父の岸信介

新らしい共産主義者岸信介(きしのぶすけ)を打ち殺せ
官吏極楽商工地獄せめてなりたや守衛さん
スターリン岸大臣覚悟あれ
中小工業者は犬猫にあらず殺されてたまるか

 たぶん一行につき執筆者ひとり。中小企業経営者層からの岸信介の評価は極めて悪かったそうだ。にしても、この例に出てくるのって「○○は共産主義のスパイ」「公務員は優遇されていてズルい」「中小企業の労働者は人間扱いされていない」で、批判の形式に馴染みありすぎて嫌になるね。おまけにこの岸が戦後は総理大臣になって、その七光りで孫まで総理になっているわけだからさ……。健忘症か? とか思いたくもなるけれど、三猿主義が処世術だった時代のくぐり抜けて、新しい処世術へ移行する誘因を持たなかった人はもともとの規範を使い続けただろうから、政治的意見を持つのは危険という意識が当時の権力者の温存に役立ったんだろうななどと適当なことを考えた。
 大きく変わったと考えられるのは、上のような岸批判は報道されなかったんじゃないかということくらいかな。数年まえ、トイレに安倍首相の悪口が書いてあったというニュースを見て、「これがニュースになるのか」と薄ら寒い気分を味わったんだけど、口に出すと憲兵やってくるから投票用紙に書くしかない状況と、便所の落書きがニュース報道されるのと、どっちがマシかって問いが成立する程度にしか差はないように思う。もちろんこれは往事を矮小化したくて言っているわけではない。

川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ3


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 第一章第二節 緊張から熱狂へ

 大詔が出た結果、献金が殺到した。12月17日には第七十八臨時会議で「大東亜戦争目的貫徹決議案」が満場一致で採決された。これに先駆け全国の地方議会でも、同様の決議文が続々と採決された。
 また、東京では十日午後一時から新聞社八社の共同主催で「米英撃滅国民大会」が小石川後楽園で催され、数万の観衆がこれに詰めかけた。演説者は、徳富蘇峰緒方竹虎正力松太郎三木武吉など。これは相当な盛り上がりで、「戦争熱は短期間で国民統合を強化していた」と評されている。戦況を早く知りたくてラジオを購入する人が増えたともあり、カラーテレビの普及の話など思い出した。

メディアは戦争のたびに大きく発展するものである。日露戦争の時には農村地帯で新聞購読者が増えた。その後の、新聞は戦争のたびに戦況報道を競い、購読者を増やしてきた。日中戦争期にはラジオによる戦地からの中継放送が行われ、これにより聴取者を増大させていった。しかし、メディアは民衆統制の有効な手段であり、ラジオが地方・全国レベルでの統制を、回覧板が地域の統制メディアとして活用された。

 戦地からのラジオ中継があったというのは知らなかった。あと世界地図がよく売れたんだって。逆に映画館はアメリカ映画の上映をしないと業者が申し合わせたため、客足が激減したそうだ。料亭も閑古鳥が鳴いたとある。

こうした傾向は個人主義的傾向の払拭(ふっしょく)ということで歓迎された。「最も顕著なことは物資不足を訴える不平不満が市民生活から消滅し」、「これまで自分の利害ばかりを中心に『某店では抱き合わせでないと売ってくれない』だの『私の家では家族一同イカの夢ばかり見ている』といった不平不満がなくなり建設的試案が投書の形で書き綴られ始めた」として、新聞もこの傾向を評価した(『神奈川新聞』十二月十日)。

 なんか戦争起きたらSNSにどんな書き込みが溢れるか予想する一助になりそうな話だ。労働争議にも変化が出た。次の引用の出典は『特高月報』。

 労働争議の発生は更に著減し、また係争中のものもその早急解決に拍車を加え、其他出勤率向上、欠勤、早退、遅刻の現象、作業能率増大等の好現象となりて現われ、就中(なかんずく)従来職場に於て見受けられたる階級的観念または待遇上の不満に基く各種の不穏落書は其跡を絶ち、これに代わりて聖戦完遂の意気を高調せるものを散見せらるゝ実情。

 こういうご時世だから団体交渉とかしてる場合ではないって感じだったのかね。勝てそうな予感ってのはすごい力があるもんだ。
 で、これも十日に『決戦生活訓五訓』というものが発表になる。

一、強くあれ、日本は国運を賭している。沈着平静職場を守れ
二、流言に迷うな、何事も当局の指導に従って行動せよ
三、不要の預金引出し、買溜めは国家への反逆と知れ
四、防空防火は隣組の協力で死守せよ
五、華々しい戦果に酔うことなく、この重大決戦を最後まで頑張れ

 これを要約すると、①職分奉公、②防諜、③貯蓄奨励、④防空、⑤長期戦の覚悟――の五点である。この五点は敗戦まで民衆統制の原則として繰り返し強調されていった。

 著者は特に防諜を取りあげ「防諜とは国民自身による相互監視システムにほからなからなかった」と言い、川越警察の防諜に関する指導方針をまとめた「防諜概説要綱」(1941年5月)を引く。

一、自己の持場を厳重に守ること
二、各々自己の言葉を慎むこと
三、自己の持ち物に注意すること
四、他人の言葉や記事等に軽々しく迷わされぬこと
五、自分の行いを慎み、つけ入られる隙を作らぬこと

と、常時の緊張を国民に強いるのである。防諜の真の狙いは、スパイという「非国民」が魑魅魍魎(ちみもうりょう)のごとく暗躍している印象を与え、相互監視のシステムを作ることで国民を強力に統制することにあった。
 同要綱の「結び」にそのことがよく現れている。「結び」は「要は真の日本、真の日本人となること」という言葉で始まり、さらに、

 防諜の根本は日本国民が至誠奉公の念に燃える真の日本人になること……外来思想、即ち自由主義個人主義思想も徹底的に排除して真の日本人に立還らねばならない……日本が本当の日本、自首独往の日本となり日本人が真の日本人となって、はじめて真の防諜が出来る。

と、「真の日本人」を繰り返す。(中略)「真の日本人」と「非国民」は背中合わせなのである。開戦後はこれに罰則の強化がつけ加えられる。

 新聞等でも防諜特集が多く組まれたが、対策としては「“軍の事は知らぬ”これぞ国民の合言葉に」という『三猿主義』が決まって持ち出されたとある。「真の日本人」とは「見ざる、聞かざる、言わざる」者ということなのであると著者はまとめている。なんかこれって、戦後も「軍」を「政治」に替えた処世術としてずっと生きていたんじゃないかという気がする。
 あと知らなくて意外なところに名前が出てきたと思ったのは、今和次郎考現学という単語とセットで覚えていた名前だったのだけど、アメリカニズムの一掃を掲げて、「いまだ残存する“アメリカ臭”風物の記録撮影」し、「銀座に見る敵性ぶりはまだ相当なもの、〈中略〉これでも戦争している銃後かと疑われる」という批判を行った興亜写真報国会の指導役だったんだって。「欲しがりません勝つまでは」を世に送り出した花森安治や、戦意高揚詩を書いたことへの反省文を全詩集あとがきに延々と書かなきゃいけなかったまどみちおなんかのことを連想した。しかし、この「銀座に見る敵性ぶりは~」って難癖の付け方も、今でもありそうだよな。非国民ってことばは反日に入れ替えれば「ああ、こういう感じね」と思うし。このあと、緒戦の勝利に大はしゃぎする新聞の見出しが引用されているんだけど、「大統領、一時は失神状態 国務省も蜂の巣!」「敗報相次げど施す術なし 狂わん許(ばか)りのルーズヴェルト」など、見てきたようななんとやらで記事を書いているのが読売新聞なのも現代に通じている気がする。『太平洋戦争と新聞』(amazon)という本の冒頭で、朝日と毎日は社員が突き上げやって経営陣を入れ替えたって話が紹介されているんだけど、読売なんて上の「米英撃滅国民大会」で演説してる正力松太郎が『巨人の星』の時代になってもまだふんぞり返っていたいて、原水爆禁止運動への反動キャンペーンも打ってるし、ここはほんと戦前から今に至るまで連綿と受け継がれた価値観みたいのがあるんだろうなと思う。今ウヨ的な言説で目立つ新聞と言えば、そりゃもちろん産経だけどさ、どっちも戦前戦中を温存してるわな。
 そんなことも、と思ったのは、灯火管制やら自粛やらの結果、昭和16年の大晦日には除夜の鐘が鳴らなかったという記述。楽観ムードのときすでにこうなのかって感じがした。

川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ2


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 第一章第一節「臨時ニュースを申し上げます」
 は1941年12月8日の真珠湾速報から稿を起こしている。朝に臨時ニュースのラジオ放送があって、その日だけで16回のニュース放送が流れた。昼前に宣戦布告の大詔(たいしょう)が発せられ、正午には君が代が流れて詔書が読み上げられたとある。戦況の発表は午後一時。この時点では戦果報告なし。夕刊は競って読まれたようで、こんな回想が引用されている。

「有楽町のホームでひとつの新聞を読み、もうふたつをオーバーのポケットにはさんでおきました。夕刊を読んでいるうちに、私もすっかり興奮してしまい、ポケットからふたつの新聞が盗まれてしまったのもまったく知りませんでした」(保坂正康「日本人がいちばん熱狂した日 ドキュメント・昭和十六年十二月八日」『潮』一九八三年一月)

 まあこんな感じだったのかね。

 で、午後六時になると首相官邸が政府の発表は「政府が全責任を負い、率直に、正確に、申し上げるものでありますから、必ずこれを信頼して下さい」と呼びかけた。読んだときに内藤剛志の顔が浮かんだのでなんでだろうと思ったら、昔懐かし『家なき子』で内藤演じる主人公すずの父親が「自分を信頼しろというやつを信じちゃ駄目だ」と言っていたのを思い出したからだった。で、わかりやすく保阪尚希が「相沢、先生を信頼するんだぞ」と言って……話がずれた。
 で、開戦の報に爽快感や開放感(もやもやしていたものが一挙に吹き飛んだ」とか)、歓喜を感じた人が多かったという話はなんとなく知っていたので、あまり驚きもない。筆者はここで、

この「もやもやしたもの」とは戦争目的への疑問にほかならない。アジアを欧米から解放すると言いながら、その欧米とは直接戦闘することなく、すでに中国と四年も戦争をしていたのである。しかも、戦線はいたずらに拡大し、この泥沼化した大陸の「事変」に対する目的意識の喪失と厭戦(えんせん)気分が国民の間に蓄積されていたのである。

 と説明している。開戦当時十歳だった人の、開戦の放送を聞いて思わず「うわーい、やった、やったあ!」という反応は、それまでどんなふうに報道がされていたのかをよく示しているように思った。
 このへんはイメージどおりだったのだけど、次に引用する伊藤整の日記は、やや意外というか趣が少々異なっている。

 バスの客少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のこと言わず。〈中略〉新宿駅の停留場まで来たが、少しも変わったことがない。そのとき車の前で五十ぐらいの男がにやにや笑っているのを見て、変に思った。誰も今日は笑わないのだ。

 また、当時、フランスの通信社の特派員として来日していたロベール・ギランは、「当日午前七時、東京・新橋で開戦を告げる号外に接した日本人の姿を次のように記録している」。

 人々は号外に目を通すと、「だれもが一言も発せずに遠ざかっていった」、新聞売子の周りにひしめき合う見知らぬ同国人たちに、進んで自分の感情を打明けようとする者はいなかった」。

 こうした様子をギランは次のように解釈した。

 彼らはなんとか無感動を装おうとしてはいたものの、びっくり仰天した表情を隠しかねていた。この戦争は、彼らが望んだものではあったが、それでいて一方では、彼らはそんなものを欲してはいなかった〈中略〉何だって! またしても戦争だって! このうえ、また戦争だって! というのは、この戦争は、三年半も続いている対中国戦争に加わり、重なる形になったからである。それにこんどの敵は、なんとアメリカなのだ。アメリカといえば、六ヵ月足らず前には、大部分の新聞や指導者層が御機嫌を取結んでいた当の相手ではないか!(傍点筆者)(引用者註:この引用では傍点は斜体にした)

 要するに民衆は「事変」長期化の根本原因の解決を「望んでいた」のであって、戦争を「欲していた」わけではなかった、というのが筆者の解釈。
 ところが、午後一時半にギランはムードが一変していることに気がつく。なぜか。真珠湾攻撃の大戦果を知って安心したから、では、ない。まだ戦果報告はされていなかった。ムードを一変させたのは「宣戦の大詔」である。

それは、もはや、今日の日本人には理解しがたい心情であるが、国民の戦争に対する決意と戦争目的の確信を導いたのは「大戦果」ではなく、天皇の「大詔」だったのだ。

 大詔の内容は本書p.33~34で語られているけれども、長いので、ウィキソースで見つけた原文を代わりに貼っておく。そのうち気が向いたら写すかもしれない。
ja.wikisource.org
 で、次の引用のように解説がされているのだけど、知らなくて驚いたことがいくつかあったので太字にしてみた。

この詔書により日本人は「大東亜戦争」の戦争目的を理解したのである。このことは、逆に当時の日本人が、いかに自民族中心主義的にしか世界情勢を理解できていなかったかを如実に物語っている。
 若干の捕捉をすると、詔書に言う「与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦」とは、「ABCD包囲網」のことを指す。(略)この「包囲網」という表現には切迫した危機感があり、開戦前から盛んに言論・報道を通じて主張されていた。しかし、当時のヨーロッパ戦線の動向からしても、「ABCD包囲網」というのは、いかにもおかしい。独軍の包囲網により追いつめられた英仏軍がダンケルクから、奇跡的な撤退を始めたのが一九四〇年(昭和十五)五月末のことである。アメリカで武器貸与法が成立したのが一九四一年三月であり、これを受けイギリスが反攻の態勢をとれるようになるのは一九四二年中ごろからである。オランダはもはや亡国状態にあり、中国を包囲しているのは日本の方である。イギリスやオランダは欧州戦線に釘付けであり、とても「東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス」というような余裕はない。包囲網とは名ばかりで、要はアメリカなのである。また、この詔書では「大東亜戦争」がもっぱら中国をめぐる日本と英米間での問題として説明されている。しかし、それならば、なぜシンガポール、フィリピン、インドネシアといった南方にまで侵攻する必要があるのかということの説明には全くなっていない。
 さて、この「宣戦の大詔」について、最後にもう一点。「大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス」で始まるこの文章は、一読しておわかりのように天皇が国民に対し発した言葉である。(略)この宣戦布告の文章と目的語の関係に注目されたい。これは、明らかに日本国民に対する宣言であり、国際社会に向けた言葉ではない。つまり、宣戦布告といいながら、その文章には目的語に対戦国が登場してこないのである。この主語と目的語の関係は戦争の性格を象徴している。(太字は引用者)

 宣戦布告の宣言が国際社会に向けられたものではなかったってのにも驚いたが、ABCD包囲網って、おれ、小学校のとき『まんが日本の歴史』で読んだ記憶あるんだけど、こんな胡散臭いワードだったわけ? という驚きで口が開いた。
 で、この宣言が戦闘開始報道のあとに出たことは特に誰も疑問に思わなかったらしいのだが、その理由を語るところにも知らなかったのでびっくりが。太字にしておく。

満州事変」、「支那事変」と宣戦布告のない「戦争」に慣らされていたこともあるだろう。また、実は日本軍は日清戦争のおりも、日露戦争のおりも宣戦布告なき先制攻撃の例があった。一八九四年(明治二十七)、日清戦争開戦時には、八月一日の宣戦の詔勅に先立つ七月二十三日に日本軍がソウル王宮を制圧しているし、一九〇四年(明治三十七)日露戦争開戦時の仁川沖海戦旅順港襲撃においても、二月十日の対露宣戦布告以前に戦闘が開始されていた。これは、一九〇七年、宣戦布告をせずに戦闘をすることを禁止した国際条約が調印される前のことである。条約調印後は、「事変」でごまかしてきたことになる。

 思い出したのはこれ。
 
mainichi.jp

現地の政府軍と反政府勢力の争いを「戦闘行為」と認めれば憲法9条に抵触しかねないので、表現を「武力衝突」と言い換える--。

 真珠湾自体は連絡の不備で云々ということが書いてあり、もし予定通りにいっていれば、「国際法上の違反とはならないが、要するにそういう形でしか緒戦の勝利を得る方法はなかった」わけで、この戦争そのものの無謀さを示していると著者は言う。もちろん、国民はそんなことは知らない。前述されたように開戦の報に爽快感や開放感、歓喜を感じた人が多かったし、それ以外の反応は「いよいよ来たるべきものが来た」という緊張感だったり、「進むべき道が示された」という納得だったりで、先行きの不安を感じたものはごくわずかだった(最も少ないのが日本の敗北を予感した者だったとも書かれている)。
 一方で、中島飛行機に勤めていた男性や外国の技術書を読んでいた技術者、海軍軍人の子弟が多く通う学校の生徒などは不安を感じたとある。
 また、翌十二月九日には国内で民族独立運動に関与している朝鮮人124名が一斉検挙され、忠誠の証を示す必要があったためか(どこの国でもしわ寄せはマイノリティーに来るんだよな……)、朝鮮人の国防献金は前月比五倍になったとか。翌年の1月東條が南方諸国の独立を認める声明を発表したときには、「朝鮮も当然独立さすべきである」という不満を表明する者が多く見られた。著者は、

こうした言動は日本のアジア解放という聖戦理念の虚構を、まさに衝(つ)くものであった。南方の諸民族が、建前であれ「独立、解放」の対象である一方で、本土の朝鮮人は、解放どころか検挙の対象だったのである。

 と評している。適切なコメントだと思う。
 一章一節の「抜いとこうかな」を気分のままにやったら大変な量になってしまった。以後やり方を考えたほうがいいかもしれない……。

川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』読書メモ1


 この本の読書メモ。読み終わったときの感想はもう書いてある。
gkmond.blogspot.com
のだけども、あんまりにもとりとめがないから、追記がてら。興味深かったところを抜いていこうかなと。
 本書はタイトルからわかるように太平洋戦争関連本で特徴は「銃後」つまり「戦時下の社会一般」に焦点を置いたこと。そして、その「銃後」が「当時、何を考え、何を感じていたのかという点」に重点を置いてある。そして、「これを、つとめて当時の人々の発言――流言や投書や日記――から構成し、物語としての「太平洋戦争」記にまとめることにした」と序にある。
 親本は読売新聞社から1997年に出た本で、この序を読んでいると何かへの反発があるなあというふうにも思えるし、2019年に読むと、

日本が侵略国であろうと、日本国民が戦争で甚大な被害を被ったことに変わりはない。「加害」というのも、被害の一環となる。誰も好き好んで加害者になったのではない。

などは危なっかしく見えもする(ほかにも割切った理解でいいのか、とか、現行の語り方で若者が耳を傾けるのかとか)のだけど、まだ97年当時の論調なので、こういったフレーズの意味も今とはまったく違うと思って読んだほうがよさそう。そのあとで、著者はこうも言っている。

 こう考えてみても、それでもなお、「今の日本は、もちろん、昔とは違うけれども、やはり当時だけの問題として、なぜ日本だけが悪いのか?」と反問される方もいるだろう。そういう方にはこう申し上げたい。そもそも、「日本だけが」と「だけ」を主張することに意味があるとは思えない。(略)民衆にとって、戦争体験とはそんなに単純な論法で割り切れるようなものではなかった。

 この最後のところも、(略)からうしろだけ読めば何を示唆しているのか不安になるけれども、そのまえの部分との兼ね合いで読むべきだろう。ほんとに時代は変わってしまったのである。
 意外とずしっとくる指摘は以下。

 当時、これら前線の悲劇を支え、戦争熱にかられ、兵士たちを戦場へと送り続けたのは、ほかでもない銃後である。戦場という極限状況は、銃後という(これとて異常な状況であることに変わりはないのだが)社会状況によって支えられていた。それはもう、一生懸命に、真面目な人ほど真摯に、戦争に協力したのである。

 今のご時世も半世紀経ったらこんなふうに言われそうな気がするね。入る単語は戦争じゃないにしても。まあとにかく、こんなスタンスで話は始まる。