夏目漱石 こころ

 今更シリーズ第X弾。高校の時、先生の遺書パートだけ教科書で読んで、さほど面白くないと思い、通読せずに来ていたが、これが読んでみると凄い。っていうか面白い。何が面白いってこれは解決編を宙づりにしたミステリーだった。まさか列車に乗るところで話が終わるとは。

 これまで聞いていたあらすじはこんな感じ。

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品。鎌倉の海岸で出会った“先生”という主人公の不思議な魅力にとりつかれた学生の眼から間接的に主人公が描かれる前半と、後半の主人公の告白体との対照が効果的で、“我執”の主題を抑制された透明な文体で展開した後期三部作の終局をなす秀作である。

 んで教科書に載っていたのが、ラストの遺書だったもんだから、すっかり「そういう話」と思っていたのだけど、このあらすじ自体間違い(にした方が面白い)。
 というのは、こいつが、長すぎたから打ち切った未完作品*1で、最終行は決して構想上のラストセンテンスになっていない上に、途中で止めたせいで、話が大きく変わった節が見受けられるのだ。
 現行前半の「先生」という謎に対して、「遺書」によって謎解きがなされるという形式は、確かに遺書が真実に見える効果をあげるけれども、実際問題遺書の作者である先生はかなり疑わしい語り手だった。
 たとえば、遺書の「二」はこんな風に書き出される。

私はそれからこの手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に対する私のこの義務を放擲するところでした。然しいくら止そうと思って筆を擱いても、何にもなりませんでした。

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 つまりこの部分は遺書の前書きとして、最後に加えられたパートということになる。この遺書は決して一直線に書かれたものではない。
 Kとの絡みにおいても同様で、先生はあれやこれやと言い訳をして、自分の行動を正当化しようと試みる。あげくKを出し抜いて、三角関係の勝者となり、親友が自殺したのちの部分ではこんなことを書く。

私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為でもありましょうが、私の観察は寧ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向かって見ると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました。

 失恋、理想と現実の衝突、寂しさと並び立てる先生の筆は、決して自らの裏切りをそこに並べない。

 本編の構造は、観察が大外れということの繰り返しだ。語り手の「私」の観察は遺書によって否定される。遺書の中であれこれと観察されたKも結局のところ、思われたほどの強さを持っていない。すべての観察は外れていく。と、するならば、書かれなかった後半は、先生の私への観察(自分の良き理解者)が外れるという話にならねばならない。書き出しの「余所余所しい頭文字などはとても使う気にならない」というのは、そのための伏線なのだろう。解説の三好行雄は「こころ」の語り手が語り始めたとき、

明らかに、打ち明けるべき聞き手としての他者が想定されている。先生の秘密を、〈奥さんは今でもそれを知らずにいる〉(上−十二)状態をかたわらにおいて、はその秘密について語っているのである。先生に対する重大な背信行為ではないか、と問うのはむろん無意味である。

 と言っているが、無意味どころか、この語りだしが背信行為であるからこそ、「先生」の告白が打破されるものであることが証明されているのだ。
 「私」がどのような疑問を先生の遺書に認め、どのように行動するか、そこを読んでみたかった。そして、妻の静が、このあとどんな相貌を現すのかにも、興味が湧いた。恐らくはこの女も一筋縄ではいかない玉だったはずだ。

 ついでに先生の長々しい遺書を読むあいだ、ずっと考えていたのだが、何もないところに疑惑を見てしまい、それが打ち消せないまま悲劇に至るっていう後半のストーリー展開は、「ひぐらしの鳴く頃に」みたいだった*2
 なお、バージョンにこだわらなければ、青空文庫で本文は読める。
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関連書籍:『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)
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 サクサクっと読めてそれなりに面白い。襖を象徴として読むところが良かった。ただページ数が薄いせいもあって、先生とKの闘争が、先生と私とのあいだでも戦われたところには、まるで頓着がないように見えるのが残念。
 先生がわざわざ私を留守番にして友達と飯を食いに行く場面があったのだが、あれは静を試すためになされた行動だと思うのだけど、そこをどう読み解いたのかが知りたかった。
 同じ著者に「漱石と三人の読者」という本もあったけれど、そっちに書いてあったっけか?
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 第一章が「こころ」の分析に当てられている。血と回転=空転のモチーフに着目して論じていて、なかなか面白かった。
 作品を読む気はないんだけど、どんなもんか知りたいという向きには、こんな本もある。
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 よく言えばオーソドックス。悪く言えば退屈なあらすじ紹介本。下手に過激なことを書けない読書感想文なんかの参考に使うには良いかもしれない。ただし物語のその後については作者の想像であって、「こうだった」とは書かれていないので、勘違いしないように気をつけよう。
 

*1:『心』自序(青空文庫)によれば、「当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積(〔つもり〕)だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈(〔だけ〕)を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。」とある。

*2:ちなみに遺書における先生は、Kの心理を探る探偵でもあり、日常をKによって脅かされる被害者でもあり、完全犯罪の露見を恐れる犯人でもある。これは先生自身の「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです」という台詞に対応する役回りだ。