P.D.ジェイムズ&T.A.クリッチリー 森広雅子訳『ラトクリフ街道の殺人』

ラトクリフ街道の殺人 (クライム・ブックス)
P・D・ジェイムズ T・A・クリッチリー 森広 雅子

4336032920
国書刊行会 1991-08
売り上げランキング : 820623

Amazonで詳しく見る
by G-Toolsasin:4336032920
 ちょっとした必要から『トマス・ド・クインシー著作集(1)(Amazon)』の「藝術の一分野として見た殺人」を読んだら、そこの訳註で紹介されていたのでついでに読んだ。扱われている事件は1811年に発生したラトクリフ街道殺人事件。以下、ウィキペディアより抜粋。

ラトクリフ街道殺人事件(ラトクリフかいどうさつじんじけん)は、1811年12月にイギリス・ロンドンの幹線道路であるラトクリフ街道で起きた連続殺人事件。2家族計7人が惨殺され、当時のロンドン市民を恐怖に陥れ、19世紀のイギリスでは切り裂きジャックと並んで残虐と非道を象徴する事件とされた[1]。事件発生の同月に犯人が断定され、間もなくその者が自殺したことで事件は一応終息したが、後には当時の警察捜査の杜撰さが指摘されたことで、この犯人断定には疑問がもたれており、より近代的な警察組織の必要が論じられる契機にもなった。

事件の概要

1811年12月7日夜。ラトクリフ街道の洋品店で、店主夫婦、その息子である生後3か月の赤ん坊、そして店員の少年の計4人が惨殺された。店主の妻は頭部を叩き潰され、店員の少年も頭部を滅多打ちにされた上に飛び散った脳が散乱しており、赤ん坊は顔面が叩き潰された上に、首が胴から切断しそうなほど切り裂かれているという残虐さであった。この家の女中が買物に出かけている間の約20分間での犯行であった[2]。現場には凶器とみられる大きな鑿、槌などの工具類が残されており、店の裏には2組の足跡が残されていた。また、その日の夕方に2,3人の男が店外をうろついていたとの証言もあった[3]。
同月の12月19日夜、その洋品店の近所の酒場で、店主夫婦と使用人の少女の計3人が同様の手口で惨殺された。残虐さは前回同様であり、少女は頭蓋骨を激しく叩き砕かれた上、首が胴からほとんど切り離されていた[4][5]。今回は、同居していた店主夫婦の14歳の孫娘はかろうじて被害を逃れた[5][6]。目撃者の証言によれば、犯人は身長180センチメートルほどで、足の不自由そうな男とのことであった[3]。

犯人断定

ジョン・ウィリアムズ
同月の12月23日、ジョン・ウィリアムズ(John Williams)という27歳の船員が尋問を受けた[7]。彼は最初の事件現場である洋品店の店主とともに船に乗った経験を持つ上、2件目の現場である酒場を訪れたこともあった。2件目の事件の夜には、当時泊っていた宿から外出しており、帰宅時には姿を見られたくない素振りであり、外出前よりも多くの金を持っていた、といった事情から疑いを持たれたのである[3][7]。
ウィリアムズは容疑を否認したが、事件後に彼の服に血痕があった、事件翌朝に彼が泥だらけの靴下を洗っていたとの証言も上がった。ウィリアムズはそれらを事件とは無関係と弁明しており、「ウィリアムズが犯人だという確証はまだ揃っていない」と語る治安刑事もいたものの、彼の立場は不利になる一方だった[3]。
拘置からわずか4日後の12月27日、ウィリアムズは独房で首を吊って自殺した。周囲は彼が罪を認めたと解釈し、これにより本事件はウィリアムスの単独犯として終息した。12月31日、彼の遺体は凶器の工具類とともに荷馬車に乗せられて街中を引き回され、1万人もの群衆たちの前に晒し者にされた末[4]、穴の中へ放り込まれ、心臓に杭を打ちこまれて葬られた[3][8]。

 訳者あとがきによると、著者のP.D.ジェイムズは1968年から原書が出た71年まで内務省警察局に勤めていたそうで、この事件の「従来の解釈に疑問をいだき、上司であったクリッチリーと共同で、この事件関係の内務省の未公開文書を調べたことが、本書の共同執筆につながった」のだとか。
 本文の大部分は当時の史料を駆使したドキュメンタリーふうに進み、最後でウィリアムズ単独犯行説を伝説として退け、真犯人を指摘してみせる。
 なかなか面白かったのだけど、素朴な疑問として、ウィリアムズが犯人じゃなかったなら、どうして彼の自殺以後犯行が続かなかったのかという点は気になった。著者もいろいろ可能性を挙げているのだけども、いかんせん二百年前の話なので推測の裏づけなんてできるわけもなく、ちょっと残念。
 あ、そういえば、P.D.ジェイムズってはじめて読んだかも。