「やさぐれ日記暫定版」と「紙屋研究所」のレビューを「ARTIFACT −人工事実−」の記事経由で読んで、「ラブロマ」なるマンガを読んでみたくなった。
ぼくらは別に、女の子のおっぱいやパンチラが見たい訳じゃないのだ。ただ好きな娘と手をつないで、胸を張って歩きたいだけなんだ。
という男の子の気持ちを代弁するような作品らしい。どうしてこれがウケるかと言えば、進学校的男子高校生オクテ派が心密かに考えている、
自分が知的にエキセントリックであることを個性であると同一視し、その知性的なエキセントリズムを理解してくれる女性を待ち望む、というのは、ひそかな願望なのである。
という部分を充足してくれるからなんだそうで、これは実に実に素晴らしいんじゃなかろうかと妄想中。上を見ていると大槻ケンヂのエッセイ−自虐的下ネタみたいなマンガなのか? とか考えてしまうわけだけども、これは確かにひとつの夢だわなあ。なんて言うか切り捨てるべき絵本世界みたいな。
もっとも中西進の「いけないDAYDREAM」とかが大好きでもある俺がこれを読んでも、実際にはピンとこないかもしれない。むしろ「やさぐれ日記」の「ただ好きな娘と手をつないで、胸を張って歩きたいだけなんだ。」という一文に拍手しているだけなのかもしれないとも思うんだけど。
だって考えてみい? こんな台詞、なかなか言えませんよ。モテなければモテないほど言えない。多分「あー小倉優子を愛人にして〜」(某友達が眠くなると言う台詞)よりも「あー小倉優子と手を繋ぎ、胸を張って町を歩きたい」と言ったときの方が、バッシングは強烈だ。アホか! キモ! 風俗でも行け! と。思うにかつて「女には性欲がない」という偏見があったのと同じくらい「男には精神性だけを求めるような気持ちはない」という偏見があって、もう一方でよく言われる「淑女と娼婦」のダブルスタンダードが、男の方をも縛っているのだ。なんだか言っててわけわかんなくなってきた。こんなときに参照できる蓄積が非モテを極めるくらいモテない自分の過去しかないあたり、非常に心許ないのだけれども、その頼りないデータに基づいて話を進めれば、世の中に置いて、「好きな女の子と手を繋いで、胸を張って歩きたい」などと言えるのは、モテる人間だけなのである。モテない人間がこんなことを言えば、それは現実逃避であり、インポなのだ。「結局セックスする自信がないんでしょ? このいくじなし」と言われて、最後の五文字がマシンガンみたく心を突き刺しておしまい。だからモテない人間はこんな台詞を易々と口にできない。俺はこのフレーズを口にできる人で、かつ非モテな人間を尊敬する。ヤる相手がいないときにこんなことを口走るなんて、俺にはできなかった。これはひょっとすると現代に残る「男らしさ」の一例なのかもしれない。セックスから目をそらすな。強迫観念のようにまとわりついた命令文。んなことしたって世の中なんにも変わりゃしないのに、せいぜい「肌を合わせなくちゃ分からないこともあるよね」とか、気怠げに語る馬鹿女に反論できるようになるくらいしか特典ないのに、非モテ男はセックスしなきゃいけないと思うのである。ヤラなくちゃ後ろめたさを感じずにメルヘンを語れないのである。ああ、非モテ(俺)って悲しい。
そもそも相手がいないことが意志ではなく不可能だとみなされる社会がおかしいのだ! ←興奮してきました。
同性愛は嗜好だとみなされるのに、メルヘンは能力の欠如だとされるなんて、責任者出てこい! ←嫌なことがいっぱいあったようです。
非モテにだってメルヘンを語る権利をよこしやがれ! ……はあ、はあ、いかん。また何が言いたいのかわからなくなってきた。これも恋愛以外の社会規範がないのがいけない、ってまた泥沼に。
そんなわけで、抑圧されたメルヘン願望を満たしてくれるらしいこの作品、いつかのんびり読みたいと思います。読んでも誰にも言いません。 幸せは独り占めにするもんで共有するもんじゃないからです。
あーあ、最後まで意味不明なこと言ってるよ。
追記2/21やさぐれ日記暫定版さんからお返事が! うわ、こういうの初めて。びっくり。
2009年1月12日思うところあって再アップ。上にも書いたけど、このとき返事をもらえたのは凄く嬉しかった。