江戸川乱歩「日本探偵小説の系譜」

『一人の芭蕉の問題(Amazon)』という乱歩の日本ミステリ論集をそろそろ手放そうかなあと思い、ここに入ってる収録作って青空文庫でどれくらい読めるんだろうと見にいってびっくりしたんだけど、あんなにたくさん(百本以上)公開作品並んでるのにエッセイに関してはほぼほぼ入ってないのね。
 で、ぱらぱらめくってたら、表題のエッセイが結構面白く読めたので99円で売ってみよっかなあと本文を抜いてみた。
 のだけども、その作業終わったところで、青空文庫に入っていないにせよ、乱歩ってば、電子版の全集もあったよななど思いつき、検索してみたら、本編所収の『続幻影城』はちゃんと電子版も出ていた。これ。

 となると、電子出す意義もねえかとなり、表紙作る気力がわいてこなかった。
 なんだけれども、青空文庫のラインナップ見ても、エッセイ全然収録されてないのってもったいないなあという気がどうしてもしてしまう。
 とかあれこれ考えているうち、ここに本文貼っておくから、これ叩き台にして誰か青空文庫にファイル提出しちゃって、みたいな放り出しもありではないかという気になってきた。ので以下に本文貼っておく。ほんとは最後のほうで言及されている木々高太郎の論も並べられたら面白いと思ったのだけど、没年見るとまだまだ著作権保護期間中なので果たせなかった。
 そんなわけで以下本文。

日本探偵小説の系譜

 大正末期、私たちが探偵小説を書きだした頃は、物めずらしげに「創作探偵小説」という肩書きをつけられたものである。では、それ以前に、日本には探偵小説がなかったのかというと、必ずしもそうではない。徳川時代には中国の「棠陰比事」の系統を引く西鶴の「桜陰比事」その他、「智嚢」の翻案である辻原元甫の「智恵鑑」、「杜騙新書」などの系統の団水の「昼夜用心記」その他があり、作者不明の板倉政談、大岡政談など、機智による謎解き小説というものはかなり広く行われていた。
 一方また広義の探偵小説にふくまれる犯罪小説というものは一層広く、「今昔物語」の悪行の巻、「古今著聞集」の偸盗の巻などから、徳川末期の「読本(よみほん)」「合巻(ごうかん)」の強悪無残の物語に至るまで連綿としてつづき、これが明治期の「五寸釘の寅吉」などの犯罪実話につながっている。
 南北、黙阿弥の悪党劇、泥棒伯円といわれた犯罪講釈の名人と、思いだしてくると、演劇、講談などにも、犯罪ものは非常に大きな領分を占めていた。明治期に入っては、こういう犯罪ものがつづいている一方、神田孝平訳の「和蘭美政録」、円朝の「松の操美人の生理」「黄薔薇」から饗庭篁村訳のポー「黒猫」「ルーモルグの人殺し」(ポーが本当に理解されたのは大正期であるが)、黒岩涙香ガボリオー、ボアゴベ、コリンズ、グリーンなどの翻訳と、西洋ものが従来からの犯罪実話を圧倒して入って来た。
涙香の人気は大したもので、涙香ものが載らぬと新聞が売れないという勢いであった。彼が創立した「万朝報」も半分は涙香探偵小説の力で読者を獲得したのである。坪内逍遥がグリーン女史の「XYZ」を訳して「贋金づかひ」を、幸田露伴が創作探偵小説「是は是は」「あやしやな」をそれぞれ新聞に書いたのも、また、紅葉門下の泉鏡花をはじめ硯友社同人が、春陽堂から「探偵小説」という二十六巻の叢書を出したのも、すべて涙香も流行の余勢であった。
 涙香時代の探偵小説翻訳家には丸亭素人、菊亭笑庸、南陽外史、不知火生、帰化英人の講釈師ブラックなどがあった(英人ブラックと探偵小説の関係はあまり顧みられていないようであるが、彼は外国の探偵作家の誰よりも早く、指紋を使った探偵小説を口演し、その速記が明治二十五年「幻燈」と題して出版されていることは注意すべきである)。また森田思軒のポーとユーゴー、原抱一庵のコリンズ「月珠」などの翻訳も忘れてはならない。
 演劇の方では、主として川上音二郎、高田実などの新派劇によって、探偵もの、犯罪ものが頻繁に演じられ、涙香の作品も無論しばしば上演された。「続々歌舞伎年代記」を繰って見ると、明治二十六年、鳥越座、川上一座により「巨魁来」、二十八年、春木座で沢村訥子一座により「人耶鬼耶」、三十年、深川座で水野好美一座により「捨小舟」、三十一年、歌舞伎座で五代目菊五郎一座により「捨小舟」、同年、歌舞伎座で、川上一座により「捨小舟」、三十五年真砂座で伊井蓉峰一座により「武士道」などが演ぜられたことを記録している。このほか関西その他の地方劇場で演じられたものを加えると、相当の上演数になると思う。殊に五代目菊五郎によって「捨小舟」が上演された時は、新聞雑誌の劇評もやかましく、非常に賑かであったが、試みに「続々歌舞伎年代記」の筆者、田村成義の感想文を引用して見る。
「当時(当今の意)我国の小説壇は黒岩涙香子の一人舞台にして、探偵小説の流行すること殆んど頂上に達し、他の恋愛小説を圧倒する計(ばか)りの勢なるに、常に流行に遅れざらんことを注意し居る坂野積善、これを歌舞伎の舞台に上せなば、必ず好評を博するものならんと、梅幸(註、五代目菊五郎)に図り、河竹(註、新七)に命じてものされたるが即ちこの捨小舟なりき、然れども市蔵の古武石大佐、秀調の小浪嬢など多少出色のものにて、見物の感興を引きたれど、肝腎の菊五郎の皮林も常盤男爵も例の世話物とは勝手が違い、好評とまでは行かず、概して失敗に終りたり」
 五代目菊五郎が涙香ものを主演したなどは、ちょっと意外に思う人が多いであろう。その頃、歌舞伎座の立作者は福地桜痴になっていて、河竹新七は引退していたのだが、この「捨小舟」の脚色を頼まれたのが機縁となって、新七はまた歌舞伎座にもどり、その後十篇ほどの新作を残して、明治三十四年に没している。
 川上、高田、伊井などの新派劇が演じた探偵もの、犯罪ものは非常に多く、とてもここに書ききれないが、涙香もののほかに、森田思軒、須藤南翠などの作品も上演しているし、円朝の翻案講談「松の操美人の生理」もしばしば演じられている。また、明治十四年司法省から翻訳出版された有名な「情供証拠誤判録」の中の実例が脚色上演されていることは注意すべきである。しかし、概していえば、そういう西洋種の探偵ものよりは、当時の新聞記事から取材した犯罪実話ものが多く上演された。試みにその題名のごく一部を挙げて見ると、明治裁判弁護の誉、書生実話山田実玄、蒲鉾屋殺し、探偵実話鼬小僧、明治天一坊、五寸釘の寅吉、清水定吉、生首正太郎、海賊房次郎、自転車お玉、当り屋おきん、閻魔の彦、邯鄲返し、蝮のお政のたぐいである。
 これらの大部分は「都新聞」その他の新聞に連載された探偵実話を脚色したもので、当時涙香などの翻訳小説と並んで、探偵実話がいかに流行したかを語るものである。伊原青々園半井桃水など著名の作家も、探偵実話にしばしば筆を染めている。
 新派劇が演じたこの種の探偵ものの内、最も世評の高かったのは、相馬事件に取材して岩崎葬花が書いた「意外」「又意外」「又々意外」であった。中にも「又意外」が好評で、繰返し上演された。私は小学校にも行かぬ幼い時、名古屋で高田実の「又意外」(明治三十三、四年頃)を見たが、舞台前一杯に紗を張った、雪中の捕物の「夢」の場面が非常に印象的で、今でも目に浮かぶようである。
 私は明治二十七年に生まれたのだが、芝居の方の探偵物全盛期は、ちょうど私の生まれる前後から三十年代の前半迄で、私が物心ついた頃には、やや下火になっていた。しかし、余勢はまだ充分残っていたので、上記の「又意外」のほかにも、新派劇では犯罪ものをたびたび見ている。当時の新派劇はきまったように、終りに法廷の場面があり、全体に秘密性と犯罪味が濃厚で、新派劇は怖いものだという印象を強く受けていた。
 私の探偵小説乃至(ないし)犯罪小説への興味は、当時さかんであった貸本屋と新派劇によって養われたといっていい。それは何か我々の日常とは違った、秘密に満ちた薄気味の悪い世界で、しかし人間というものは、心の底にそういう薄気味の悪いものを持っているのだ、そこに上べの生活とは違った真実があるのだ、というような興味であった。この興味は結局ギリシャ悲劇やシェークスピアの犯罪劇に当時の観衆が抱いた興味と、根本的に違ったものではないようである。
 涙香ものは小学時代に、その頃までに出た数十冊を全部読んでいた。私の母が涙香好きで、よく貸本(当時の貸本屋は今とは比べものにならないほど完備した堂々たるものであった)を読んでいたので、字の読めない頃から、あの薄気味の悪い挿絵によって、涙香というものをよく知っていた。私をして後年探偵作家たらしめた最初の機縁は、この母の涙香好きと、祖母の芝居好き(旧劇ばかりでなく、新派劇にもよく連れて行かれた)と、私自身の少年時代の涙香耽読にあったように思われる。

 涙香を中心とする翻訳探偵小説、諸新聞連載の探偵実話の最盛期は、明治三十年代の半ば頃までであって、それから大正の中期までは、これに代る新らしい西洋探偵小説時代の育成期ともいうべく、それが大きな流行となったのは大正後半期のことであった。
 南陽外史によってドイルのシャーロック・ホームズが初めて翻訳されたのが明治三十二年、三津木春影がフリーマンとルブランを輸入したのが明治末から大正の初め、この三人の新らしい作家の輸入は探偵小説史上、非常に大きい意味を持っていた。ドイルは原抱一庵、岡本綺堂押川春浪、本間久四郎、郡山経堂というような人々がつぎつぎに翻訳し、また三津木春影はフリーマンとドイルの短篇を「呉田博士」という少年読物叢書として出版するなど、新探偵小説流行の下拵えがだんだんできているところへ、大正七、八年の頃には福岡雄川、保篠龍緒などのルパン叢書が出はじめ、大正九年には「新青年」の創刊、森下雨村の力による同誌の探偵雑誌への転向、つづいて博文館探偵叢書の出版と、ようやく新探偵小説が読書界の表面に現われて来たのである。その頃翻訳陣にも、保篠龍緒のほかに田中早苗、妹尾アキ夫、浅野玄府、延原謙などの優秀な人々が擡頭して来た。
 西洋の謎解きの興味を主とするいわゆる本格探偵小説には二つの大きな潮流がある。その一つはポーを始祖とし、ドイル、チェスタトンから、長篇ではベントリー、クリスティ、ヴァン・ダイン、クイーン、カーとつづくトリック派であり、今一つはディケンズ、その親友であったコリンズ、アメリカのグリーン女史、濠洲のヒュームなどの系統のトリックよりもプロットの曲折を主とする作風で、フランスのボアゴベもそうだし、ガボリオーにもその傾向があった。これが後年のフレッチャーなどのいわゆる非ゲーム派探偵小説に脈を引いている。
 ところで、明治の涙香時代に翻訳されたものはボアゴベ、ガボリオー、コリンズ、グリーンなど、プロット派の作品ばかりであったのに反し、大正期の翻訳ものはドイル、フリーマン、チェスタトン、ルルウなどのトリック派、つまりポーの系統の手品文学に属するものが主流をなしていた。ここに第二期翻訳隆盛時代の特徴があったのである。
 私は少年期に涙香を読みつくして、旧式のプロット型の探偵小説にはもう飽きていたのだが、中学上級から早稲田大学予科の時代にかけて、ポー、ドイルなどのトリック型の作品に初めて接し、その新鮮味にうたれ、私の探偵趣味は勃然として再発したのである。貧乏な苦学書生であったから、丸善に本を注文する余裕はなかったが、古本屋をあさってドイル、フリーマンなどを読みふけった。私がこういう新探偵小説に興味を持ちはじめたのは、学校の教科書にボーやドイルが入っていた関係もあって、大正七、八年以後の翻訳隆盛期よりは四、五年早く、その頃はやっと三津木春影の「呉田博士」などが出ているばかりだったので、乏しい語学力で原本をあさるほかはなかったのである。そしてポーの「黄金虫」やドイルの「舞踏人形」などから、暗号そのものに興味を持ち、図書館に通って西洋暗号史を調べたりしたものである。その頃のノートが今も残っているが、それによると、大学に進んでからも探偵小説に夢中であったことがわかる。ドイルの短篇をいくつか翻訳した原稿も残っている。
 ボー、ドイルなどの西洋探偵小説の影響だけからでも、私は探偵小説を書く気になったかも知れないが、実際はそのほかにもう一つ別の大きな刺激があった。それは明治末から大正期にかけて、自然主義に反抗して起こった新文学、谷崎潤一郎芥川龍之介菊池寛久米正雄佐藤春夫などの作品であった。これらの作家の初期短篇小説には、ポーの系統の探偵小説と一脈の通ずるものがあった。殊に谷崎、芥川、佐藤三氏は明らかにポーに傾倒した時期を持っていた。
 こういう文壇の傾向が最高潮に達し、一つの具体的な形となって私の目の前に現われたのが大正七年七月の「中央公論」特別号「秘密と開放号」であった。名編集長と謳われた滝田樗蔭の企画で、同号の創作欄には「芸術的新探偵小説」と銘うって、谷崎潤一郎「二人の芸術家の話」、佐藤春夫「指紋」芥川龍之介「開化の殺人」、里見弴「刑事の家」が並び、更に「秘密を取扱える戯曲」の題下に、中村吉蔵、久米正雄田山花袋正宗白鳥の脚本が掲載せられたのである。
 従来、日本探偵小説発生史が語られる場合、西洋探偵小説の影響のみに重点がおかれ、この大正文壇の探偵小説的傾向についてはあまりいわれていなかったのであるが、私の経験からすると、日本文壇の刺戟は外国探偵小説と匹敵するほどの力を持っていた。私ばかりではない、甲賀三郎大下宇陀児、構溝正史、水谷準城昌幸なども、多かれ少なかれ、この文壇の傾向に動かされていたのである。私だけについていうと、このほかに宇野浩二の影響を受けている。今では、私小説の大家宇野さんと探偵小説とはまったく無縁のように思われるが、初期には宇野さんの小説にも、探偵作家を刺載するような秘密と機智とお伽噺の要素を、多分にふくんでいたのである。
 しかし、この大正文壇の探偵小説味ともいうべきものは、横光利一川端康成片岡鉄兵などの新感覚派時代までで終りをつげ、プロレタリア文学の隆盛と共に、これらの作家もそれぞれ他の傾向に転じて行ったが、横光利一の初期の作品には推理の要素が多く、これが、後に記す探偵小説第二期の作家、小栗虫太郎に影響しているのである。利一と虫太郎とどこが似ているかといわれそうだが、表面に現われていなくても、何らかの形で影響していることはたしかで、或る時小栗君が私にむかって「あなた方の時代は谷崎、佐藤の影響を受けたが、僕たちの時代は横光利一ですよ」といったことを覚えている。

     3

 上記の西洋の新探偵小説と、日本文壇の探偵小説的傾向を母体として、いわゆる創作探偵小説が生まれたわけであるが、その中心はいうまでもなく森下雨村の「新青年」であった。私の処女作「二銭銅貨」が同誌に発表されたのが大正十二年、つづいて甲賀三郎小酒井不木大下宇陀児城昌幸などが書きはじめ、また私よりも早く「新青年」の懸賞に当選していた横溝正史水谷準角田喜久雄なども初期の仲間であった。大正末期から昭和八年頃までは、これらの作家と、少しおくれて擡頭した夢野久作浜尾四郎海野十三などそれぞれに特徴のある有力な作家が加わって、日本探偵小説の第一期を形成したのである。
 この第一期の作家たちに影響をあたえた西洋探偵小説は、前にも記すとおり、一応はポー、ドイル、フリーマン、チェスタトンなどであったが、それと並んで、あるいはそれよりも強く、仏のルヴェール、英のビーストンが愛好せられ、小酒井不木夢野久作はポーの怪奇小説とルヴェールに傾倒し、城昌幸はポーとリラダンを愛し、大下宇陀児モーパッサン、オ・ヘンリーに心酔し、私と横溝正史はボーの怪奇味と江戸の残虐草双紙を混ぜ合せたような好みに偏し、あくまでドイル系統の探偵小説に執着していたのは甲賀三郎浜尾四郎の二人だけであった。当時、この後者を本格派と称し、小酒井、横溝、夢野、私などは変格派といわれたものである。
 西洋ではボーの怪奇小説や、リラダンビアス、ルヴェールのようなものを探偵小説とはいわない。殊に一九三〇年代の半ば頃までは、今のようにハードボイルドや心理的スリラーが有力とならず、純探偵小説一本槍で、探偵評論家は、本格探偵小説以外のものを取り上げていなかった。これにくらべると日本の探偵小説は初期からして非常に範囲が広く、怪奇小説、怪談、空想科学小説などをふくむ、というよりも、そういうものがむしろ主流をなすありさまであった。私はこれを日本探偵小説の多様性と称して弁護したが、甲賀三郎浜尾四郎は、もっと探偵小説プロパーが尊重されなくてはいけないと、強く本格主義を唱えたものである。
 欧米の探偵小説史を顧みると、元祖のポーは短篇作家であったが、それからドイルが現われるまでの五十年間は、コリンズ、ガボリオー、ボアゴベ、グリーン、ヒュームなどのプロット派長篇探偵小説時代であった。これが涙香を中心とする明治期翻訳時代の種本となったのである。
 ドイルから第一次大戦の直前あたりまでの約三十年は、フリーマン、チェスタトンフットレル、オルツィ、ポーストなどのトリック派短篇主流時代で、これが日本では大正期翻訳時代の種本となり、そして、われわれの第一期創作探偵小説は、この短篇時代の影響を受けて出発したのである。
 つづいて、第一次大戦直前から現在までの西洋探偵小説は、再転して長篇時代に入っている。前記ドイル以前の長篇時代は、プロットの曲折を主眼とし、恋愛などを多分に取り入れた物語的ミステリー小説であったが(涙香ものがそれ)今度の長篇時代はポー、ドイル、チェスタトン系統のトリックの創意を主眼とする、もっと理智的な、いわば手品小説の長篇化であった。
 この新長篇時代に先鞭をつけたのは、前イギリス探偵作家クラブ会長ベントリーの「トレント最後の事件」(一九一三年)とされている。それから一九三〇年代の半ば頃までを、欧米の探偵小説史家は長篇小説の「黄金時代」と称しているが、ベントリー以後に現われた、そういう長篇作家のごく主なものを年代順に記すと、クリスティ、クロフツ、フィルポッツ、ミルン、セイヤーズ、ノックス、ヴァン・ダイン、クイーン、カーという順になる。しかし、日本にはこの順序では入って来なかった。クリスティは早くから訳されていたが、日本の作家に影響を与えるというほどではなく、その次に、クロフツ、フィルポッツ、セイヤーズなどの古いところを飛ばして、突然入って来たのがヴァン・ダインで、これが日本の作家に最も大きな影響を与えたのである。
 ヴァン・ダインが「グリーン家殺人事件」を単行本として発表したのは一九二八年(昭和三年)であるが、それが昭和四年には早くも「新青年」に翻訳連載されている。しかし、この画期的作品も、旧来の日本作家にはほとんど影響をあたえなかった。本格派の甲賀三郎は無論関心を持ったと思うが、ただちにそれが作品の上に現われるというほどではなかったし、その他の作家は一応本格ものに飽きて、普通文学に接近する方向を取っていたので、ドイルを長篇化したようなヴァン・ダインに殊更ら驚異を感じることもなかった。
 それともう一つ、日本の小説界には、いくら優れた長篇が輸入されても、それをただちに取り入れないような別の事情があった。西洋では書きおろし長篇の単行本出版が本筋になっているのに反して、日本では長篇は新聞雑誌の掲載でなくては、経済的に成り立たず、西洋流の本格探偵小説は連載に不向きであること、また、連載を依頼される作家はごく限られた少数の人々にすぎないこと、したがって、ほんとうの意味の長篇が生まれることが非常に困難であり、大多数の作家は毎月数篇の短篇を書かなければ生活ができないという、西洋作家には思いも及ばないような短篇労働が日本の現状であること、だから本格ものの短篇ばかりが毎月数篇も書けるわけはなく、自然純探偵小説でない類縁の小説に趨(はし)らざるを得なかったこと、こういう経済的事情からして、日本探偵小説の多様性が生まれ、それが一つの特徴ともなったのであるが、反面には、純探偵小説、殊に本格長篇の不振という弱点となっているのである。
 そういうふうに、旧来の作家はほとんどヴァン・ダインの影響を受けなかったが、地方裁判所検事であった浜尾四郎は、ちょうどヴァン・ダインの輸入と相前後して探偵小説を書きはじめたので、この人だけはハッキリその影響を受けている。昭和五年、同君が名古屋新聞に連載した「殺人鬼」は、その構成がヴァン・ダインとそっくりで、当時までに日本人が書いた長篇では、英米の本格黄金時代の作風に属する唯一のものであった。しかし、第一期の作家には、浜尾君を除いてほとんど影響しなかったヴァン・ダインも、第二期の作家小栗虫太郎には不思議な形で作用したのであるが、その第二期の話に入る前に、私自身のことを少しつけ加えておきたい。
 探偵小説書誌学者ともいうべき中島河太郎君が、一九四九年版「探偵小説年鑑」の附録「日本探偵小説史」の昭和四年の項に、私のことをこう書いている。「乱歩の『孤島の鬼』(雑誌朝日)は長篇としてスリルと謎があり、心理描写も深く出色のものであるが、『蜘蛛男』(講談倶楽部)以後の通俗大衆物は何百万の新しい読者を吸収したと共に、これまでの一作毎に新境地を開拓した氏に瞠目していた昔からの読者から、烈しい非難を浴せられるに至った。狭い殻に閉じこもっていた探偵小説を汎く大衆に開放した功績と、今猶探偵小説に対する知識階級の偏見を生んだ一半の原因とを考え合せば」と書き、中島君はそれにつづけて「如何に氏の筆力が逞しかったかが察せられる」と逃げているが、実はここは「むしろ害毒の方が大きかったのである」と結ぶべきであろう。この中島君の批評は正しい見方であると思う。
 私は少年時代から探偵小説に心酔し、かなりの素質を持っていたはずであるが、いざ書き出して見ると、二、三年で息が切れてしまった。眼高手低の劣等意識に悩まされたのである。当時の文芸評論家平林初之輔は、或る評論で「江戸川君は一作毎に新境地を開こうとする尖鋭な意欲を示しているが、これは作家にとって危険である。もっと落ちついてほしい」というようなことを書いたが、この批評は急所を射当てていた。
 似通った材料は二度と使わないという潔癖、しかも興味の半径の極度に狭い性格、行きづまりが来るのは当然であった。生活を無視した純粋な気持からいえば、私は昭和二、三年頃に探偵作家を廃業すべきであった。実は一時は家内に下宿屋をやらせて、放浪の旅に出たりしたのだが、意志薄弱で、きっぱり廃業することもできなかった。そして、私の当初の気持とは逆に、原稿料のための仕事ばかりやるようになった。最も原稿料の高い、つまり読者の多い雑誌だけに、連載ものばかりを書いた。私はその頃から数年間、探偵作家仲間ともあまりつき合わなくなり、世を恥じて、家を外にしたり、または暗い部屋にとじこもったりしていた。しかし、私のそういう我儘勝手な気持は通らなかったのである。幸か不幸か、探偵小説界は私を見限るということをしないまま今日に及んでいる。

 昭和八年に小栗虫太郎が現われ、九年に木々高太郎が現われ、それぞれその作風に従来見られなかった強烈な特徴を持っていたので、探偵小説界は色めき立った。そして、主としてこの二人の力によって、第二の探偵小説隆盛期に入ったのである。
 小栗虫太郎ヴァン・ダイン浜尾四郎のような正常な形ではなくて、きわめて奇怪な形で受入れた。名探偵の性格や、謎の構成、ペダントリーに至るまで、一見ヴァン・ダインに似ていたが、よく見ると、それはまるで違ったものであった。ヴァン・ダインはあくまで合理主義者であったのに反し、虫太郎はすべてにおいて超合理主義であった。謎解きに狂人の論理が加味され、ペダントリーも超百科全書的であった。私が彼の作風を世界にも類例がないというのはここのことで、難解と超論理を最大の魅力とする「黒死館殺人事件」が信仰的な愛読者を得たのも、そのためであった。
 木々高太郎は最初精神分析探偵小説ともいうべき作風で出発したが、実際は英米流の探偵小説にはさして興味を持たず、ストリンドベリや鷗外、漱石などに私淑し、それらの作家が心理上の謎を取扱っているようなやり方で、探偵小説を書こうとした。そして理想としては本来の探偵小説とそういう純文学的なものを融合させるという意欲を持っていた。第一期作家がポー、ホフマン、リラダンビアス、ルヴェール、あるいはモーパッサン、オ・ヘンリーを敬愛したのよりも、更らに一歩乃至数歩を進めたものである。理想はそこにあるのだが、しかし実際生まれたものは、清新な思想と文体とで、大いに一般知識層の歓迎を受けたけれども、本来の探偵小説的な興味きわめて薄い作品が多く、今日までのところ、知識層と否とを問わず、本来の探偵小説を愛する読者を、充分満足させるには至っていないようである。
 第二期の作家としては、ほかに渡辺啓助、大阪圭吉、蘭郁二郎などを挙げ得るが、いずれもむしろ第一期型の作家であって、木々、小栗両君ほどの画期的な特徴を持たなかった。それよりも、作風はまったく違うけれども、第一期に属する海野十三(空想科学小説に優れていた)が小栗、木々とトリオをなして、機関誌「シュピオ」を発刊し、大いに新人の気勢をあげたことを記録すべきであろう。そして、昭和十二年、木々君の「人生の阿呆」が直木賞を獲得したのを記念して「シュピオ」増大号を発刊し、全探偵作家の代表作を掲載した頃が、第二期の最隆盛期であった。
 ヴァン・ダインは作風において日本探偵小説に影響を与えたばかりでなく、探偵小説本質論においても、大いにわれわれを刺激した。彼の主張するところは、純粋謎小説主義であって(私のいう最狭義の探偵小説)謎解きに関係のない雰囲気や性格の描写を排撃するという極端な考え方であったが、本格主義者の甲賀三郎はこれを取り入れて文学気取り排撃の論陣を張り、木々高太郎は探偵小説純文学論を掲げて、これと論争した。私は、本格探偵小説が探偵小説の本流であることはいうまでもないが、しかし、文学的手法は排撃するどころか、大いに取り入れなければならないという、いわば文学的本格論の立場を採った。
 この期にはそういう日本作家の論争や作風と無関係に、英米本格探偵小説黄金時代の長篇がつぎつぎと翻訳紹介され、昭和七年には米のクイーンが、十年には英のクロフツとフィルポッツ、仏のシムノンが大きく入って来た。この部面の最大の功労者は井上良夫君で、クロフツの「樽」、フィルポッツの「赤毛のレドメイン」「闇からの声」、クイーン(ロス)の「Yの悲劇」など、ベスト・テン級の作品の大部分は、非上君が着眼し、または翻訳したものであった。
 しかし、これらの作品は愛好者を喜ばせ、探偵評論を賑かにしたけれども、作家に対しては、ヴァン・ダインほどの影響を与えたものは一つもなかった。作家たちはこれらの西洋の新作品に対して、ほとんど風馬牛であった。ただ一人、蒼井雄が「船富家の惨劇」でクロフツの作風を模して注目されたけれども、作家として世に出ないままに終った。
 第一期の作家の大部分は英米流の本格作品を見向かず、浜尾四郎は病没し、甲賀三郎は本格作品を書いたけれども、オリジナリティーに乏しく、知識層読者には作風が通俗にすぎたし、第二期の小栗虫太郎は超合理、超本格であり、木々高太郎は謎解きに重点を置かない文学派であり、結局本来の探偵小説好きは日本の作品から離れて、翻訳ものに親しむこととなった。殊に知識層の本格好きは、原書や翻訳ものは読むけれども、創作には見向かないという人が多くなった。つまり日本の探偵小説界にはほんとうの探偵小説がないのだという、暗黙の批判を受けたのである。私が日本作家全体が、こんなに本来の探偵小説から遊離してしまっては困ると考え出したのは、この頃からであった。

 戦争のため探偵小説、怪奇小説がほとんど書けなくなったのは、日華事変の三年目、昭和十五年頃からであった。同盟国のイタリー、ドイツがアングロサクソン的な探偵小説を禁じたということが新聞にのり、日本でも情報局の指示によって、実際上は禁ぜられたも同様となり、「探偵小説全滅」の非運を嘆かなければならなかった。私は十六年度からまったくひまになったので、退屈しのぎに、せめて過去の記録を残しておこうと、「探偵小説回顧」と題する手製の本を作ったりしたものであるが、その本の中に、毛筆でこんなことが書いてある。
「(前略)昭和十五年に至り物資の欠乏著しく、同年日独伊三国同盟成るや、米国の日本向け輸出制限極点に達し、国内物資の不足は日常生活にも現われ来り、米、炭、其他のインフレーション防止のための価格統制、次いで切符制はじまり、店頭行列による買物今日常のこととなった。第二次近衛内閣によって提唱せられた新体制の標語街頭に溢れ、大は経済界の利潤統制より、小は年賀郵便の廃止に至るまで、新体制ならざるなく、文学美術の方面も全体主義一色となり、新体制遂行の全国民組織として生れたる大政翼賛会文化部には、岸田国士氏部長に聘せられ、文学美術諸団体統一運動起り、文士の政治的動きも活発となる。文学はひたすら忠君愛国、正義人道の宣伝機関たるべく、遊戯の分子は全く排除せらるるに至り、世の読物凡て新体制一色、殆んど面白味を失うに至る。探偵小説は犯罪を取扱う遊戯小説なるため、最も旧体制なれば、防課のスパイ小説のほかは、諸雑誌よりその影をひそめ、探偵作家はそれぞれ得意とする所に従い、別の小説分野、例えば科学小説、戦争小説、スパイ小説、冒険小説などに転ずるものが大部分であった」
 それから、昭和十四年「芋虫」が絶版を命ぜられたのを手はじめに、つぎつぎと多くの作品の一部削除を命ぜられたことを記し、その頃の私の収入源であった文庫や少年もの単行本すらも、全部絶版状態となったことを記録したあとに、
「私は元来大衆作家風な器用な腕があるわけでなく、心理の底を探ろうとする気質、論理好き、怪奇幻想の嗜好等、身についたものによって探偵小説、怪奇小説を志したのであるから、他の探偵作家の如く早急に別の分野に転ずることは、性格として出来ないのである。この種の身についたものがいけないとすると、唯沈黙している外はないのである」と嘆いている。
 そして、私は敗戦までの五年間、ほとんど小説を書かなかったのであるが、では、その間何をしていたかというと、戦争が苛烈になるにつれて、やはり傍観していることができず、ひまにまかせて、町会や警防団の仕事を手伝い、最末端において真剣に働いたものであるが、そのあいだに、名古屋の井上良夫君から、英米黄金時代の長篇の目ぼしいものを送ってもらって、数十冊を読み、その都度、談後感を長い手紙にして、井上君に送り、いつかそれが探偵小説一般についての論争となり、相当の期間一回分が原稿紙何十枚という手紙のやりとりをつづけたものである(東京にはそういう相手がいなかった。探偵作家は誰も英米の探偵小説など読まないのである)。

 昭和二十年敗戦、アメリカ軍の進駐となり、軍人の読みすてたポケット本が露店などに出はじめ、その中に探偵小説がおびただしくふくまれているのに一驚を喫した。探偵小説なんか読むと戦争に負けるという日本人の考え方とは逆に、アメリカ人は塹壕の中で、ポケット本の探偵小説を読みながら戦っていたのである。西洋探偵小説の輸入が途絶したのは昭和十二、三年頃からで、七、八年も餓えていたのだから、私はこの読み古しのポケット本に飛びついて行った。また、アメリカ軍が開いてくれた公開図書館に通って、英米探偵小説界のその後の情況を知ろうとして夢中になった。
 やがて、アメリカ人の知り合いができたりして、新刊の本も時々は手に入るようになり、だんだん様子がわかって来たのだが、戦争中に現われたアメリカの探偵小説評論家ヘイクラフトの「探偵小説史」Murder for Pleasure (1941) と、同じ人が英米の著名文学者などの探偵小説論を集めた大冊 The Art of Mystery Story (1946) の二冊が手に入った時には、年甲斐もなく雀躍りしたものである。この二冊によって、戦争中の代表的な作品もわかり、その後それらの目ぼしいものは大方読むことができたので、英米の情況がほとんど明らかになったのである。私はそれらの知識を得るにしたがって探偵雑誌に発表して行った。
 先にも書いたように、翻訳探偵小説の読者が日本作家の作品に冷淡なのを見て、これではいけないと考えていた私は、戦後、探偵小説復興の機運に乗じて、日本の作家も、もっと本格探偵小説に興味を持たなければいけないということを、繰返し説いた。しかし、私は評論随筆でそれを唱えるばかりで、自ら作品を示すに至っていないけれども、横溝正史君が偶然私と同じ考えを抱き、戦前の彼の作風とはまったく違った本格探偵小説を指向した「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「獄門島」と、英米黄金時代の作風に属する長篇力作を、矢つぎ早に発表し、戦後探偵小説界の方向を定めるほどの勢いを示したのである。
 大正期、昭和期の探偵小説の苗床は「新青年」であり、それが戦前までつづいていたのであるが、戦後は新雑誌「宝石」がこれに取って代っていた。そして、戦前の「新青年」が第一期、第二期の作家を生んだように、「宝石」は戦後のおびただしい新作家群を生んだ。香山滋山田風太郎、島田一男、岩田賛、高木彬光(あきみつ)、大坪砂男、宮野叢(むら)子、岡田鯱彦その他かぞえ切れないほどの作家が世に出、または世に出ようとしている。これらの人々は日本探偵小説第三の隆盛期を代表する選手たちである。
 この第三期の特徴は、かつて前例のないほど多数の新人が輩出し、しかも彼等の多くが一応作家として自立し得たことであるが、しかし個々の作家の大きさ、あるいは個性の強さにおいて、今のところ、往年の木々、小栗両君擡頭期の感じには、まだ遠く及ばないようである。
 なお、戦後文壇の流行児坂口安吾君が玄人はだしの本格長篇「不連続殺人事件」を発表したことを書きもらすことはできない。文壇作家にして探偵小説を試したもの、大正期以来枚挙にいとまないのだが、初期の谷崎、佐藤両氏を除いては、探偵小説としての批判に堪え得るものがほとんどなかったのに反し、坂口君は英米本格探偵小説の骨髄を体した名篇を見せてくれたのである。
 さて、この第三期の新作家群は、二、三の例外を除いて、一応はみな本格作品を示したのであるが、先にも書いたとおり、出版界の需要が短篇に偏しているためもあって、それぞれの性格にしたがって、いわゆる広義の探偵小説に転じていること、第一期作家の場合とほとんど同様である。あくまで謎小説を固執しているのは高木彬光君(代表作「刺青殺人事件」)ぐらいのものである。横溝君の垂範によって、一応さかんにみえた本格熱も、何となく心細い感じである。これは日本人の好みがアングロサクソン的でないことにもよるのだろうし、もう一つはたびたびいうように書きおろし長篇の出版が経済的に成り立たないという、内外の理由によるものであろう。日本には一九二〇年代三〇年代の英米のような本格長篇黄金時代は、遂に来ないのかも知れない。〔後記、昭和三十二年ごろから日本にも長篇単行本時代が来た]
 英米はすでに本格黄金時代の絢爛たる開花期を通過して、現在では本格、ハードボイルド、心理的スリラー三派鼎立の新時代になっている。本格派では英のマイクル・イネス、ニコラス・ブレイク、マージュリ・アリンガム、ナイオ・マーシュ、それに旧人クリスティ、カー、米のクイーンが最も働いている。
 ハードボイルドとはハメットを祖とするアメリカ独特の行動派探偵小説、チャンドラーが現役の代表選手である。心理的スリラーは英のフランシス・アイルズ、リチャード・ハル、エリザベス・ホールディング、エリック・アンブラー、米のドロシー・ヒューズ、ウイリアムアイリッシュなどが定評ある既成作家である。
 しかし、これらの作家はボツボツ翻訳されはじめたばかりで、まだ日本の探偵小説界に影響をあたえるには至っていない。上記の内ただ一人、ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン)は、戦後の横溝正史高木彬光の作風に大いに関係がある。カーはクイーンとほとんど同時に出発した古い作家なのだが、どういうわけか、戦前日本では問題にされなかった。それが、戦後ポケット本でおびただしく入って来たために、愛読するものが多く、私なども戦後になってカーというものをハッキリと認識したのだが、横溝君もこれを読んで大いに刺激を受けた。それについて横溝君は或る時、私にこういったことがある。
ヴァン・ダインやクイーンのように、犯罪現場へ検事や警察官がやって来て、関係者を一人一人訊問して行くという書き方は、どうも僕の性に合わない。ところが、カーを読むと、そういう型通りの本格ものでなくて、最初からおもしろい。こういう形のものなら書いてみたいと思った」というのである。つまり、カーの作を愛読したのが機縁となって、「本陣」が生まれ、「蝶々」が生まれたわけである。
 最後に戦後の木々高太郎君と私との論争について一言しておく。甲賀三郎と木々君の論争については先に触れたが、戦後はこれが一転して木々君と私との論争の形をとったのである。
 もともと、本格派と文学派の対立というものは、昔からあることで、第一期の大正から昭和の初めにかけては、「本格派」と「変格派」という名称によって、これが示されていた。本格派は甲賀、浜尾両君ぐらいのもので、あとの作家は全部変格派であったが、更らにもう一つの呼び名があって、甲賀君などは「健全派」に属し、私などは「不健全派」に属するということになっていた。しかし、どちらが文学的かというと、変格派、不健全派の方が文学的だったのである。
 昭和十年前後の第二期には、先にも記すとおり、本格派の甲賀君と純文学派の木々君とが対立した。本格派の方は変りないが、一方は従来の「やや文学味がある」という程度から、一躍して「純文学的」という表現に変った。木々君は探偵小説を最高の純文学にしなければならぬとさえ言ったものである。
 当時私はいずれにも賛しなかった。甲賀君の文学排撃論にはむろん不賛成だが、といって、木々君の純文学論にも同意できなかった。純文学、純文学と言っていると、いつの間にか探偵小説独特の面白味が消えて行きそうに思われたからである。殊に近代の純文学はリアリズムと同義語のようなものだから、探偵小説がその方向をとって、リアリズムに徹しようとすると、折角ポーが創設してくれた謎解き小説というものが滅亡してしまうからである。つまり私は探偵小説独特のおもしろさをこわさない範囲で、という条件つきの文学論者なのである。私は当初から、まったく不自然のない探偵小説なんて、ちっともおもしろくないと言っていたものだが、この考えは今も変らない。
 そういう木々君と私の考えの相違が、戦後第三期の二人の論争となって現われたのである。一口にいうと木々説は探偵小説本来のもの、すなわち謎や論理の興味がいかに優れていても、独創があっても、それが高度の純文学になっていなければ問題にならないというのに対し、私の考えは、無論文学を排撃するものではないが、いかに文学として優れていても、謎と論理の興味において水準を抜いていなければ、探偵小説としてはつまらないというので、同じことを違った角度から言っているように見えるけれども、実際問題となると相当の距離が生じ、論点も多岐にわたるのである。
 私はまだポーの創設した形式を認め、英米の代表的な作品に敬意を表しているのだが、木々君はポー以来現代までのすべての探偵小説を揚棄して、まったく新らしい純文学の探偵小説を作りたいというのである。その意気は壮とするけれども、実際問題となると、一人の芭蕉を要するほどの至難事である。無論まだ木々君自身もその見本を示したわけではない。
 したがって、今のところ、論争はまったくの抽象論なのだが、抽象論であるかぎり、いつまでやっていても、どちらかが兜を脱ぐはずもなく、これ以上議論をつづけていると、泥試合になりそうなところも見える。そこで抽象論はこの辺で打切りにして、私としては木々君のいわゆる純文学本格探偵小説が発表される日を待つことにしたい。

(昭和二十五年十一月号「中央公論」/早川書房「続・幻影城』、青蛙房「乱歩随筆』所収)

 最後に光文社版全集の非小説巻並べとく。これ読んで初めて乱歩の評論面白いなあと思った人は覗いてみるといいかも。全部キンドルアンリミテッドで読めるようになってるのは今知った。