パトリック・ジュースキント著 池内紀訳 香水―ある人殺しの物語

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)
パトリック ジュースキント Patrick S¨uskind 池内 紀

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文藝春秋 2003-06
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 750人のセックスシーンが話題になった映画の原作。原書はドイツで1985年に出版され、日本での発売は1988年。

 あらすじはこんな感じ。

18世紀のパリ。孤児のグルヌイユは生まれながらに図抜けた嗅覚を与えられていた。異才はやがて香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。さらなる芳香を求めた男は、ある日、処女の体臭に我を忘れる。この匂いをわがものに……欲望のほむらが燃えあがる。

 帯には「羊たちの沈黙」を凌ぐ禁断の衝撃作とあるものの、これは決しておぞましいサイコ・スリラーではない。連続殺人が始まるのは物語も三分の二を越えた辺りからで、それまではひたすらグルヌイユの生育歴めいた話がつづられる。むしろ本書の眼目は匂いを文字に落とし込むことにあったようだ。冒頭、作者は読者の匂いへの記憶を呼び覚ますべく、当時のパリにあふれかえっていた臭気をこれでもかとばかりに並べ立てる。そこに描かれるパリは通りがゴミだらけで、中庭は小便の臭い、台所は腐った野菜と羊の臭い、部屋は埃っぽくてカビ臭く、ベッドはしめっていた。人間も口をあければ口臭がし、ゲップをすればタマネギの臭いがし、体臭は古チーズとすえたミルクと腐爛した腫れ物の臭いがした。

川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰といわずくさかった。王もまたくさかった。(中略)王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。冬も夏も臭気はさして変わらなかった。

 1738年7月17日、この悪臭に塗れた都にひとつの命が生まれ落ちるところから、物語は始まる。ジャン=バティスト・グルヌイユというのが主人公の名前。生まれ落ちた彼の個性は二つ。強靱な生命力とまったく体臭を持たないということだ。臭いを持たない彼はしかし、あるいはそれゆえに、臭いに対して誰よりも鋭敏だった。そして一度憶えた臭いは決して忘れなかった。
 ある日、グルヌイユは運命の匂いと出会う。ある少女の放っていたその匂いは乱暴に言えばフェロモンで、グルヌイユは夢中になって匂いを奪い取るため、少女を殺してしまう。ここら辺はさもありなんという筋立てではあるものの、グルヌイユの匂いフェチぶりがなかなか踏み込んでいるので、興ざめするということもない。
 ことにどれだけフェチなのかを示すためのエピソードがガラスの蒸留に始まる一連の失敗エピソードである。香水の成分と比率をピタリと当てる。それを簡単に再現すると言った天才を示すエピソードよりも、自分はこちらが印象的だった。
 匂いを捕らえるもっともシンプルな方法は、沸騰したお湯に素材を放り込む蒸留法と呼ばれるものである。沸騰したお湯は、素材から匂いの成分(精油)を引き出して空気中へ登る。これを冷却するとオイルと水の比重の違いから、分離して取り出すことが出来る。
 この方法を覚えたグルヌイユはなんの匂いでも蒸留できるのだと信じて、ガラスの匂いを蒸留しようとするのだ。

ふつうの人には到底ありえないことなのだが、彼の鼻はガラスの匂いを嗅ぎとった。すべすべしたガラスは、粘土のような冷やっこい匂いがする。彼は窓ガラスやガラス瓶を用意して、まずは大き目のからやってみた。次には砕いてみた。あるいは粉末にして蒸留にかけた――すべて無駄だった。
 彼はまた真鍮を蒸留した。陶器や革でも試みた。穀物や砂利、土、血液、材木、とりたての魚。自分の髪の毛をとって試みたこともある。遂には水を蒸留した。

 現代の知識からすれば、これらが無駄であることは当然なのだが(というのは精油が含まれていない素材を蒸留しても匂いを取り出せないから)、グルヌイユはこの事実を実感するために、何ヶ月もかけて失敗し続ける。
 わずか一ページにもみたないスペースで描かれた匂いに対するこの執念が、グルヌイユに命を吹き込んでいる。それがあればこそ、次のような人間観も、受け入れることが出来る。というよりも、匂いのメタファーで人の個性というものをキッチリ説明している(グルヌイユが)と感心さえする。

臭気それ自体の点でいえば、人間の匂いは単純なものだった。汗と脂でチーズのような酸っぱい匂い。どの人にも共通した匂いというのは、おぞましいたぐいのもので、その下に人それぞれ独自の体臭がひっそりとひとんでいる。
 ともあれ個人ひとりひとりにそなわった、まさしくその人独自の体臭というものは、すこぶる複雑にして精妙であって、大抵の人は気づかない。大抵の人はそんなものが自分にそなわっていることすら知らず、むしろ好んで衣服や流行の香水などなどで、せっかくの自分の匂いを消してしまう。そして誰にもおなじみのもの、例のムッとする悪臭だけに親しんで、その体臭がにおい立つたびに、それこそ自分の匂いだと思いこんで胸を詰まらせる。

 物語は淡々と前に進み続けていき、かなりとんでもに展開するが、グルヌイユのリアリティがとんでも展開をしっかり支えているので、安心して読んでいける。また出来事だけを見ると、サイコスリラーになってしまうはずなのに、グルヌイユの目的がひたすら匂いであるために、殺人の描写には陰惨さを感じさせることがなく、単なる工程というような印象を与えられるのも特徴的かもしれない。このストーリーでここを見せ場にしないという選択は、なかなかできるものではない。しかも、この悪魔的な天才を止める役割を担うキャラクターが出て来て、グルヌイユの嗅覚に対する視覚からのアプローチで勝負するという、これまた楽しげな構図を作りながら、それさえ見せ場にもってこないというのだから、肩すかしも甚だしい。にも関わらず、見せ場はとんでもないクライマックスのアイディアとして、またラストのアイディアとして用意されている。正直、唖然とした。
 しかし匂いというコンセプトで設計された物語であるなら、こうした展開はある種必然なのかもしれない。
 
 ところで、本書を読んでみようと思ったきっかけは、雑誌「aromatopia」*1のNo.82で言及されていたからだったのだが、香水というモチーフだけでなく、物語自体も、登場人物たちも、儚く消えていく香りめいているところが、専門家をして言及に及ばせたのではないかと、読後ちょっと思った。登場人物たちの物語からの退場の仕方がそう思わせるのかもしれないが、それはまた人間の運命であるのかもしれない。この本を読み終えた頭で考えると、遅かれ早かれ生きた痕跡さえもが消え去ってしまう大多数の人間は、結局香水の香りと似たり寄ったりの、儚い存在に過ぎないような気がしてくるから不思議だ。アクセスされなくなったデータや、図書館に死蔵される本や映像よりも、跡形もなく消え去る香りこそ、人の末路の似姿なのかもしれない。

*1:最近、アロマに興味があって、ちょっと読んでみた。