松山巖 うわさの遠近法

 うわさという言葉をキーワードに日本の近代史を総まくりしたような本。タイトルにふさわしく本書の巻頭を飾るのは、明治5(1872)年の春に、その年の7月25日に世界が泥海と化してしまうといううわさだ。それから興味深いエピソードが出て来るわ来るわの470ページ。

 いくつか忘れないようにメモ。

土佐の脂取一揆

『維新 農民蜂起譚』に書き留められた一揆のなかで、うわさが介在したことを典型的に示すものは、明治四年十二月に起きた「土佐の脂取一揆」である。
 この一揆は、四月に発布された戸籍法による戸籍調べから端を発した。
 戸籍調べの際には「屋敷番号を調べて門礼を打つ」。その一方、「徴兵令発布の準備として、兵務司よりの布達により男十八歳以上廿歳までの者も、戸長が調査して付出す」ことになって、次第に疑惑が語られるようになる。というのも、当時、高知にはじめて洋式の病院が建ち、種痘を行っていた。病室には鉄製のベッドが置かれた。このベッドがうわさの種になる。
 病室は、「異人の来て脂を取る所で、鉄製の寝台を鉄灸(魚を焼く鉄の網)と誤認し、患者は鉄灸の上で知らず知らず、脂を抜かれて、笑ひ笑ひ死ぬる」といううわさがもちあがる。
pp.22-23

コレラ事件

 明治十年十月、千葉の鴨川でコレラ患者が出た。漁師たちの町に、コレラが流行するのは小湊町の沼野玄昌医師と警察官が井戸に毒薬を入れ、避病院に隔離した患者の生き肝を投入しているためだといううわさが立った。そこへまた患者が発生し、沼野医師が隔離しようとすると、漁民は反対し彼を追いつめ、しかたなく沼野医師は川に飛び込んで逃げようとして溺死した。
p.34

ちょうど、コレラ騒ぎが新聞を賑わしていた頃である。鹿児島では、「西郷桐野篠原村田池上永山等の石碑へ参拝さへすれば此病は免るること得べしと市中は元より近在近郷まで……参拝人の絶え間なく」(「朝日新聞」明治十二年八月二十三日)ということが起きている。コレラ西郷どんのタタリだと思ったらしい。
pp.48-49

壮士募集広告

 明治二十二年の四月、「大阪朝日新聞」など大阪の新聞に奇妙な広告が載った。

  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学費を給し三名は同居を諾し学費を給す/北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締/菅野道親

 この壮士募集の公告には記者もおどろいたようで、「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有なるべし」(明治二十二年四月二十二日)と記事として紹介している。
pp.107-108

 これが「治安に妨害ありと認められ募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」と、今度は「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替え再び募集。しかしこれも「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害する趣内務大臣の訓令なりとて警察本部より差止めら」れたので、募集を取り消すという広告まで出たそうな。

記憶術のはじまり

宮武外骨によると、明治二十年ごろニューヨークのエイロイゼッティなる男が二十八ドルの伝授料を取って記憶術をおしえたことが流行の発端で、明治二十年、内田周平がこれを訳述して『記憶術』が出る。その後、二十六年には無名子による『実験記憶術』、二十七年渋江保『記憶術』、二十八年太田肇『記憶術』、島田伊兵衛『島田式記憶術』、和田守菊次郎『和田守式記憶法』などが次々に刊行された。失念術のほうも二十八年に外骨自身が『忘却術』を著し、円了の『失念術講義』の他に杉田藤二郎『新奇忘却法』などが出ている。
pp.156-158

国会議事堂炎上

 電灯が火事を起こすという話は、明治二十四年(一八九一)一月十九日、竣工して二カ月も経っていなかった国会議事堂が漏電で焼けたために立った。(中略)
 このうわさが消えるのは皮肉にも、その年の秋にもう一度、国会が火事を出し、その原因が暖炉と判明し、電灯がかならずしも火元とならないとなったためである。
pp.162-163

うわさの遠近法 (ちくま学芸文庫)
松山 巖

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