梅棹忠夫 知的生産の技術

知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹 忠夫

4004150930
岩波書店 1969-07
売り上げランキング : 694
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見るasin:4004150930
by G-Tools

 最近メモをとるのが楽しくなってきて、メモやらノートやらの活用術で良い本ないかと探しているところで、アイディアマラソンってのがちょっと気になっていたんだけど、「思考の整理学」ちょろっと見てみたら、ほとんど同じようなことがすでに書かれていて、元祖に当たるのがいいのかねえと思ってるんだー、と話をしたところ、「なら知的生産の技術じゃね?」と言われ、そういえば、そんな名著もありましたね、と読んでみた。

 もとは1965年の4月から岩波書店の雑誌「図書」に「知的生産の技術について」という題で連載されたものと1968年10月から同じく「図書」で連載された「続・知的生産の技術について」。これに加筆集成してできたのが本書だと、まえがきにはあった。ちなみにタイトルに「技術」を使うヒントになったのは、「その話って技術の話なんじゃね?」という湯川秀樹の示唆があったからなんだとか。

 で、その技術については、情報はカード化しようね、とか、アイディアをまとめるのはこざね法がいいよ、とか、色々興味深いことが書いてあった。読んでいるうちに、情報カードといえば、ウンベルト・エーコも使ってるってなんかのインタビュー記事で読んだなあとか、こざね法ってたけくまメモで知った言葉だったっけとかそんなことも思い出した。で、梅棹氏が読書ノートに書くのは、

わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。なぜかといえば、著者の構成した文脈は、その本そのものであって、すでにそこに現物として存在しているからである。(中略)必要なら、その本をもういっぺんみたらいいではないか。

 ということなので、俺もそれに習って、自分的に面白かったところだけメモってみたい。紹介するのは「7 ペンからタイプライターへ」。理由はここだけ妙に浮いている気がするから。氏は高校時代からタイプライターを使っていて、それで日本語を打っていたのだそうだ。ようするにローマ字で日本文を書いていたということなんだけども、そうした個人史があるからか、やたらにローマ字国字論やカナモジ運動に肩入れしている。

日本語をタイプライターにのせるというのは、日本における知的生産の技術としては、もっともたいせつな問題であるといわなければならない。

 と、この章はまるまる、ローマ字国字論の伝統やら新字の創造者やら、カナモジ運動やらについて延々語るの。脱線も甚だしい。それだけ書かずにいられなかったということなんだろう。そして実際、なかなか面白い。

 印象に残ったのは、取りあげられる人々の狂いっぷり。たとえば動物生態学宮地伝三郎のエピソード。

 大学では、わたしの恩師、動物生態学宮地伝三郎先生が、わかいころからのローマ字がき日本語の実行者であった。先生は、六高の出身だが、六高のあった岡山という土地は、むかしから、ローマ字運動やエスペラント運動などがさかんで、その種の言語改良運動のアバンギャルドがたくさん輩出したところである。宮地先生も、おそらくその影響をうけられたのだろう。先生の、大学時代のノートというのが、全部ローマ字でかいてあるというから、そうとうの熱のいれかたであったにちがいない。

 よくそれで大学院入学認められたな。
 大正八年に出た「漢字に代はる新日本文字とその綴字法」*1の紹介も凄い。

 内容をみると、なるほどそうとう「革命」的である。日本語をかきあらわすために、あたらしい文字をつくった、というのだから。(中略)おどろいたことには、日本語の名詞に性と数の区別をもうけ、それをあらわすためのサイレントの文字をつくり、語尾につけたり、語のまえにおいたりするという。

 ちなみに梅棹氏が持っているのは上巻のみなので、下巻がどんな風に書かれ、その後どうなったのかは分からないそうな。作者である稲留(とうる)正吉に対しては、

序文によると、国字の改良と国語の整理をくわだてて二十余年、ついに一生の事業と覚悟をきめ、そのために妻帯もみあわせ、老母もまきぞえにし、職業もなげうち、「命がけで」この本を書いたというのである。よんでいるうちに、気味わるくなってくるような話である。

 と案外冷たい反応。個人的にはこの本、ちょっと気になるのでと学会とかがフォローしてたりしないかなと期待してみる。

 ほかにも新字考案者がいた。色盲検査表を発明した石原忍だ。1961年ころから、「あたらしい文字」という月刊誌を梅棹氏のところに贈っていたらしい。

(石原氏は)日本人の近視の研究をしているうちに、文字のよみやすさの問題から、国字問題に関心が発展し、とうとうこの「あたらしい文字」を発明するところまでいってしまったのである。
 雑誌はきちんと毎月とどいていたが、一九六三年一月号を最後として、こなくなった。その年の一月三日、石原先生はなくなられたのである。その後、この運動がどうなったのか、わたしはしらない。

 と、こちらにも冷淡。

新字の考案という仕事は、なにか、人間の情熱をあやしくもえあがらせる、ふしぎな魅力をもっているらしい。もともと、国語国字の問題に熱心な人には、ファナチックな傾向が見られるが、新字論者には、ずいぶんはげしくその創造にうちこんだ人がいたらしい。

 なーんて言っているが、ご本人も十分「ファナチック」であった時期があったそうで、手紙をすべてローマ字タイプで打っていたのだいうから、引用部分の距離感は、ひょっとするとのめり込まないためにあえてとっているスタンスなのかも知れない。
 そして、タイプライター使いの梅棹氏にとって、希望の光と思えたのは、新字ではなくてカナモジだった。このブログでも取りあげたことのある松坂忠則をたずね、「カナモジ運動の大先達である伊藤忠兵衛氏」とも会っている。これは伊藤忠商事、丸紅を打ち立てた人。ちなみにウィキペディアにも項目があって、それによれば、「昭和13年10月には財団法人カナ文字会の理事となる。忠兵衛の影響もあって、伊藤忠・丸紅両社では戦前から戦後にかけて正式な社内文書にはカタカナが使われていた。」のだとか。

先駆者山下芳太郎が、アメリカのタイプライター製造会社アンダーウッドに注文して、はじめてカナモジのタイプライターをつくらせた話などを、わたしは感動をもってきいた。

 ここまでのタイプライターはカタカナの話で、実はこのあとにひらがなタイプライターも出てくる。試作品は1955年ころにはあったそうだ。かなり早い段階での使用者として石原慎太郎の名前も挙がっている。へえ。
 読んでいると、著者のひらがなタイプライターへの期待の高さが窺われるのだけど、それというのも、「漢字かなまじり文を、そのままタイプする」という理想が当時としては不可能だったからに他ならない。だからこの当時の話としては今感じるほどの違和感はないのだと思う。不思議なのはこの人が2004年にも「ローマ字表記で国際化を」なんて本を出しているところで、なにゆえ宗旨替えをしなかったのだろう。

 それと面白かったのは、「10 原稿」の次のくだり、

わかい諸君の論文を原稿でよんで、手をいれる訳をひきうけることがおおいが、まったく信じられないくらいおそまつな例がいくらでもある。たとえば、行をかえるには、一字さげてかきはじめる、ということさえしらなかったりする。

 この若者ってのは四十年以上前の若者のことで、場所は京大なんだよな。ゆとり教育の話かと思った。しかしこの続きで「偉い先生もひどい原稿を書いてくる」と言っているところをみると、まともに原稿を書けるというのは希有なことのようだ。

*1:菊判220頁・文字の革命社発行