キプリング  橋本 槙矩 訳 キプリング短篇集

「小説の技巧」(amazon)に「ミセス・バサースト」が紹介されていて、調べてみたらまだ短編集が生きていたので、全部読んでみた。冒頭人種を越えた恋愛の挫折を描いた「領分を越えて」のクライマックスにびっくりし、「モウロビー・ジュークスの不思議な旅」が安部公房の「砂の女」みたいだなあと思い出だし好調、「めえー、めえー、黒い羊さん」「交通の妨害者」「橋を造る者たち」「ブラッシュウッド・ボーイ」と、多彩な短篇が並んだあとで、いよいよ「ミセス・バサースト」だったのだが、これは思ったほどではなかった。
 しかし、そのあとに続く「メアリ・ポストゲイト」とラストを飾る「損なわれた青春」は掛け値なしに面白い。
「メアリ・ポストゲイト」はタイトルと同名の中年女中が主人公の物語。ミス・ファウラーという老女の家に住み込んで働いている。「物事をくよくよ考えたりしない」ことが彼女の信条だ。
 ミス・ファウラーには養子にしたウィンダムという甥がいる。彼は第一次世界大戦に従軍して、パイロットになるが、試験飛行中の事故で死んでしまう。物語が動き始めるのはここからだ。
 メアリもミス・ファウラーも涙一つ流さず、淡々と葬儀を行い、遺品の整理にかかる。その最中、メアリはパラフィンを買いに村まで出掛けて、ドイツの飛行機が落としていった爆弾で、9歳の女の子、エドナ・ゲリット(本文ではエドナ・ガレットとなっているが、これだとゲリット夫人が気絶する理由が分からないし、「母親」と表記されているので、おそらくガレットは誤植)が死ぬのを見た。ただし医者のコメントでは爆弾ではなく事故ということになっていて、実際はどうなのかハッキリしない。
 メアリはこの件も呑み込んで、淡々とウィンダムの遺品の消却にとりかかる。するとそのとき、月桂樹のうしろからうめき声が聞こえてきた。そいつはドイツの飛行兵だった。

明らかに、この男は木に落ちたのだ。飛行機から人間が落ちることがあるとウインが言っていた。墜落のショックを和らげるのに樹木が役立つと言っていた。しかしこの飛行士は骨折したに違いない。さもなければ、こんな奇妙な姿勢をしているはずがない。左右に動く醜い頭部以外は動かなかった。

 助けを求めるドイツ兵にメアリは言う。「ワタシ、シンダコドモ、ミタ*1
 普段読んでいるお話からこの先を予想すると、しかし哀れみが起こって、ドイツ兵を助ける展開になりそうだ。憎むべき敵が無力化して目の前にいるというのは、許しや若いを引き出すシチュエーションだし。
 でもメアリは許さない。助けない。和解しない。淡々と、淡々とウィンダムの遺品を燃やし続ける。ドイツ人の命乞いに対しては、
「ワタシ、シンダコドモ、ミタ」の一点張り。遺品が燃え尽きる頃、ドイツ人は死んでいた。
 メアリは家に戻ると風呂に入り、「とてもさっぱりしているわ」とミス・ファウラーに言われる。
 それでこの話は終わる。
 1915年に書かれているためなのか、キプリングの価値観なのかは分からないが、今にも人類愛が発動しそうで結局発動せず、しかも良心の疼きもなく、「さっぱりして」終わるこの話には、強さと同時に怖さも感じた。怒りに我を失うという表現ならまだしも、表面上はひたすら冷静で、自らは何もしないことで、他者の命を奪うという筋立ての底冷えするような感じは凄い。

「メアリ・ポストゲイト」が消極的な復讐の物語なら、「損なわれた青春」の方はチョーサーの失われた原稿の発見という状況の中、積極的な復讐が捻れておかしなことになっていく話で、中盤で伏線が収束し、ミステリーの解決篇のような気持ちよさを感じられる(半端だけど暗号も出てくる。仕込み方が現代的だった。)のだが、そこから突風が吹いて、思いもよらない着地点にたどり着いてしまう。ネタバレさせるのはもったいないので、できたら読んでみて欲しい。

 解説によれば、デビュー当時キプリングはスティーブンスンのライバルになると目されていたらしいが、なるほど確かにその評価も頷ける。またキプリングは「意味の多重性をめざして硬質な散文で作品を書いたので、作者の主観からの言葉の自立性、自己増殖性を重んじた」結果、ジョイスヘミングウェイにも影響を与えたのだとか。光文社の古典新訳でも作品が出ていたはずなので、そのうち読んでみようと思う。

キプリング短篇集 (岩波文庫)
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追記:本書のあとがきに「まだ未訳のまま」と言われていた代表作の「キム」。どうやらその後翻訳され、さらには絶版になっていたようだ。

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)
ノーベル賞作家キプリングの最高傑作!あるときは裏町のヒンドゥー小僧。あるときはエリートの英国少年。あるときは高徳のラマ僧の弟子―。あの子は、だれだ?前世紀末インド、英露のスパイ合戦を背景に、東西の英知が交錯する壮大な物語。

内容(「MARC」データベースより)
19世紀末インド。ある時はヒンドゥー小僧、ある時はエリートの英国少年、ある時は高徳のラマ僧の弟子。イギリスとロシアとの諜報合戦の中で、小さなスパイとして活躍。少年キムの冒険と成長を雄大なスケールで描き出す。

 なにげに面白そうだな。
少年キム
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*1:原文ではドイツ語表記のようだ