蕎麦の値段

 森銑三の「風俗往来(amazon)」所収の「閑々子雑記」を読んでいたら、こんな話が出てきた。元記事は明治25年12月7日の「東京朝日新聞」。

「袖すり合ふも他生の縁だと、お寺のお坊さんは説かしやつたが、この様な縁はなくもがなです。をとゝひの午後三時頃、小石川台町三丁目十三番地の田中亀五郎宅へ、どうも暫く、御無沙汰をいたしました、と訪ねて来た男は、亀五郎が三四年前、何座かの芝居を見に行つた時、懇意になつた、中村とかいふ始終格好の人物、その人のいへらく、けふはちよつと御近所まで用事があつてまゐつたので、御無沙汰のお詫かたがた、御見舞申しましたが、時に御主人、お喜び下さい。私は今席逓信省へ奉職することになりました。それは近頃おめでたうございます、と話なかばへ、台所の腰障子引きあけて、大日坂の蕎麦屋青柳から、盛り蕎麦十五個、へい、お待遠様と、かつぎ込みぬ。おい、内が違ひはしねえかえ、と聞くそばから、中村は、いや、これは私が誂へたのです。実は何かおみやげと存じたなれど、出先のことゆゑ、失礼ながら、との挨拶に、どうもこれでは痛み入ります、と謝辞を述べ、早速蕎麦を家内の者へふるまひ、更に酒肴取寄せて、中村をもてなし、世間話に笑ひ興じ、やがて主客も酩酊し、何れまた近日伺ひます、と中村は立帰りしに、しばらくして蕎麦屋の青柳から、入れ物を取りに来り、それよ、と蒸籠を渡すと、お代をどうぞ、といふので、代は今誂へた人が払つた筈だ、といへば、いえいえ、こちらの家から頂戴するのだ、とおつしやいました、と若い衆の動かぬに、人を馬鹿にしてゐる、とこぼしながら、大枚十五銭の払ひを済ませ、はて、面妖な、と家内を改めて見ると、箪笥の前へ置いた、まだ新しい博多の男帯一筋紛失してゐるに、一同はたヾアツとばかり」

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4122050081?ie=UTF8&tag=taidanakurashi-22&linkCode=xm2&creativeASIN=4122050081

 記事のタイトルは「蕎麦を食ひ帯を呑む」。なんだか落語めいた話だなあとほのぼのすれば良いのか、蕎麦喰え詐欺だとでも思えばいいのか、と思ったら森銑三が指摘したのは「かような記事も注意して読むと、盛り蕎麦を十五個持込まれて、十五銭払わせられたことが出ているから、明治二十五年の頃には、東京での蕎麦の値段は、盛りかけが一銭だったことが分かる」。なるほど。
 せっかくだからその周辺に出ていた蕎麦の値段をメモって置くことにする。

  • 明治20年7月7日めざまし新聞の雑報。「下谷区湯屋は、一回二三日前から大人一銭(三厘値下げ)小児八厘(二厘下げ)と改正になり、同区坂本町蕎麦屋は、是までもり八厘であつたを、二三日前から二厘づつ値上げ」
  • 明治27年4月21日東京朝日新聞の記事。「此程府下の蕎麦屋にてはもり・かけとも一銭の所は三厘づつの値上げしたるに、又もや京橋区内の蕎麦屋組合にて、一銭三厘を一銭五厘に値上げ」
    • 当時は何厘という穴明き銭が、まだ使われていたことが分かる(森銑三コメント)
  • 明治39年玉子とじ十銭(森銑三の思い出話)
  • 明治43年5月8日読売新聞の記事。「もりかけ三銭づつ」
  • 大正7年2月13日東京日日新聞の記事。「もりかけ三銭という時代が長らく続いていたのだったが、とうとうやり切れなくなって、四銭に値上げし、ついでまた五銭に値上げした。ところが小麦粉がまたまた上がる、醤油が上がる。鰹節が上がる。それに燃料も上がる。これではどうにもならない。五銭を七銭にしなくては息が継げない、といっている」
    • それから十日後の同紙は、もりかけ六銭ということで、一応落ちついたと報じている。

 ちなみに「漱石、ジャムを舐める(感想)」によれば天保の頃はかけもりは十六文だったそうだ。また同書には大正九年の山手線の初乗り料金が五銭と出ていた。

 ところで冒頭の引用記事でへえと思ったのは、値段よりもむしろ「盛り蕎麦十五個」という表記法。ずっと枚だと思っていたので、個でも良いの? と「数え方の辞典(amazon)」に当たってみたところ、やはり現在は枚と数えるようだ。当時は「個」と言っていたのか、それとも校正の見落としか。
 まあでもそんな細かいところは気にしないで、のほほんと読めば良いんだよね、たぶん。
 その他本書の蕎麦に関する記述でへえと思ったところはこっちに抜き書きしている。まだ増えるかもしれない。
 風俗往来