なぜマスメディアは現場主義に流れるか

 こんな記事を読んだ。
雇用問題を的確に扱えないマスメディアの現場主義

マスメディアの大きな問題は、目の前に見ている「現場」に気をとられ、ブーム的に現象を取り上げ、何かをスケープゴートにして、忘れ去ることだ。このブームとリセットのスパイラルが、雇用問題での本質的な議論を遠ざけている。
(中略)
 現場主義の典型的なパターンは、派遣村に取材に行き、集まった人々に同情し、社会的な義憤を感じて記事を書く。「派遣村を社会全体の問題として捉えなければならない」などと書きながら、次の現場が発生すると目移りして派遣村を忘れ去る。

 なぜ、冒頭で中谷氏の著書を紹介したのか。新自由主義が注目されれば構造改革の旗を振り、貧困や格差が問題になれば昔が良かったと憂いてみせる、このような社会の空気を読んだ風見鶏ぶり(と薄っぺらさ)が、マスメディアにそっくりだからだ。どのようなシステムや理論も完璧ではなく、良いところもあれば課題もある。「どうしてこのような問題が起きているのか」を見つめ、プラスとマイナスを加味してこそ、次の手が打てる。リセットでは何の前進もない。

 日比谷公園に集まった人々は「派遣村ご一行様」と書いたバスに乗って都内各地へ散った。既に、人々の注目が失われつつあり、またもや問題は先送りされそうだ。現場に目を奪われ、ブームとリセットのスパイラルで脊髄反射的な記事を書くのではなく、テーマをもち、「なぜ」にこだわり、目の前に見えている事象の奥に潜む問題を掘り起こすのがジャーナリストの仕事ではないだろうか。

テクノロジー : 日経電子版

 主張と批判の内容はもっともであるのだが、既視感が拭えないこのような主張は、「なにゆえにそれは繰り返されなければならないのか」という観点から見る必要があるように思う。もちろん繰り返される理由のひとつには「このような主張がなされたあと、それでもマスメディアが変わらないからだ」というものがあるだろう。
 しかし、もうひとつには主張の仕方が効果的でないからだという見方もなりたつように思われるし、マスメディアが変わらないという結果が、主張の方法に間違いを孕んでいることを裏書きするようにも思われる。
 なぜそうなるのかと考えてみた。先に言っておくけれど、引用した記事はあくまでも具体例であって、この記事あるいは記事を書いた人への批判というわけではない。「リセットとも言える、その極端な変節こそが問題」ってところや、「どのようなシステムや理論も完璧ではなく、良いところもあれば課題もある」というところには激しく納得したし、「資本主義はなぜ自壊したのか」のレビューの、「次世代リーダーを育成している人物が、このように薄っぺらいことこそが、最も深刻な現代ニッポンの社会問題ではないでしょうか」という部分にも「まったくだ」と思った。だからこそ読み終えたあとに違和感を抱えることになった。このエントリは、最近考えていたことと記事への違和感とを出発点としている。ちなみに俺はメディア業界の仕組みやら常識やらはまったく知らないので、以下は本当に考えただけのことであり、批判は明後日かもしれず、提案は無意味かもしれない。その上無駄に長い。

 で、本題。何故にこの手のマスメディア批判は有効に機能せず、繰り返し繰り返し現れなくてはならないのか、それはここで批判されるマスメディアの大きな問題「目の前に見ている『現場』に気をとられ、ブーム的に現象を取り上げ、何かをスケープゴートにして、忘れ去ることだ」の中にすでに現れている。人がこのように主張するとき、マスメディアはスケープゴートにされている。あいつらが現場主義でテーマを持っていないのが悪いと。
 しかし本当に現場主義なのは誰かといえば、それを受容するわれわれなのだ。新聞社やテレビ局は広告主がいなければ立ちゆかない。広告主が金を出しそうな紙面作り番組作りに汲々としているとはよく言われる話だ。どんな紙面や番組なら広告を出向してもらえるのかと言えば、当然「多くの人が見てくれるようなもの」になる。メディアはそれを喜びそうな人が多いものを報道する*1
 つまりどういうことか、メディアが持っているデータ(統計資料から経験則に至るまで)による、われわれの見たいもの、知りたいことへの深さと興味の持続への反映が、メディアの姿として現れてきているということだ。これも今まで何度も繰り返されてきた言葉だろうと思うが、メディアによるメディア批判の言葉が出るとき、必ず免罪扱いになるのはその記事を読む者、あるいは見る者だ。引用した記事においては、最後の部分「テーマをもち、『なぜ』にこだわり、目の前に見えている事象の奥に潜む問題を掘り起こすのがジャーナリストの仕事ではないだろうか。」という言葉がその機能を果たしている。それを読んでいるわれわれはジャーナリストでないから、この記事が批判するような脊髄反射とリセットが許されるというメッセージと、「ジャーナリストの仕事」なのだから、あくまで問題はジャーナリストの取り組み方なのであるというメッセージによって。そして仕事である以上、集客できなければ採算が取れないという下世話な話はスルーされるし、読む方は「やっぱりマスゴミ*2」と言うかあるいは、この記事は棚に上げて「そんなのを喜ぶ視聴者もアホだ」と言って溜飲を下げる。
 結局、この手の批判の構図はマスメディアの構図と同じく「ブーム的に現象を取り上げ、何かをスケープゴートにして、忘れ去る」結果に終わる。おそらくはマスメディアの成立からずっと、こうしたマスメディア批判も「ブームとリセットのスパイラル」として演じられ続けて来たのだろう。(とか偉そうに言ってみるけど、なんも知らないので外れてたらごめん。本当かなと思った人がいたら、調べてみてね)



 十五年前なら、我々はそのように溜飲を下げることくらいしかできることはなかった。メディアもアンケートやら投書やらの結果を見て、ウケるものを探すしかなかった。だから受容者を批判するのは当たらなかったと思う。
 しかし今や我々は自分がどんなものを読みたいか、どんなものを見たいかについての見解を、発信者に届けるツールを持っている。もちろんネットだ。メディア関係者がネットで情報収集しているという話もよくある。それは情報ソースとして使われているという意味で語られているが、記事の反響なども当然フォローしているだろう。その反応の結果「こんなスタンスがウケそう」という風に番組や記事は作られる。たとえば国籍法のときがそうだった。反応があるものにスペースや時間を与えるのが報道機関の基本ルールである以上、「ブーム的に現象を取り上げ、何かをスケープゴートにして、忘れ去る」のが不満なら、受容者である我々自身がマスメディアに対して読者イメージ・視聴者イメージを変える働きかけをしていく必要がある。そして「マスメディアの作るくだらない番組を見る層」というのが、この手のメディア批判に溜飲を下げる人たちが思い描くものと重なるのであれば、働きかけを受けて、その人たちの見たがるものも変わるだろう。

 昔ならそういう行動を起こし、継続するのには、結構な労力が必要だったし、チャンネルも限られていた。だが今はそうした状況が変わりつつある。番組批判の投書は握りつぶされるかもしれないが、ネット上に残された批判はリンクされブクマされコピペされ伝播していく。マスメディアは世論を誘導すると陰謀論的に言われることもあるが、不特定多数がアクセスできるメディアがマスメディアだとすれば、ネットの発言は本人の意図に関係なくマスメディアだ*3。名無しさんの書き捨てコメントやコメントなしのブックマーク、ニコニコ動画のコメント、すべては見知らぬ誰かを賛同者にする可能性を持ち続ける。その賛同者がどこかにそれを発言すれば、そこでさらに賛同者を得ることもある。その結果、引用元で言われているような仕事をジャーナリストができる環境が整っていくのではないかと俺は思う。我々はジャーナリストではない。しかし何を読みたいか、何を見たいかという意見を表明することで、求められるマスメディア像を実現する環境を生み出すことはできるはずだ*4。ここで言う環境には視聴者ニーズも含まれる。「1億人の知的水準の平均値は、当ブログの読者には想像もできないぐらい低いのだ」なんて物言いは、そのとき誰からも相手にされなくなるだろう(やや希望的観測)。



 なぜ現状ではそうならないのか。おそらくはケチをつける声の方が伝播力が強く、報道関係者の目に触れることが多いからだろう。彼らは我々が何を気に入らないか、何が期待はずれかは分かっていても、何を見たいかはまだ知らないのだ。
「目の前に見えている事象の奥に潜む問題を掘り起こす」ジャーナリストは、それ自体が何かの妄想でないとするなら*5、いつの時代にも、今であっても一定数確実に存在している。「世に伯楽あって、しかるが後に千里の馬あり」と言い「千里の馬は常に在れど伯楽は常には在らず」という。名馬も見出されなければ、名馬たりえない。現状の我々は駄馬を糾弾することに忙しいあまり、名馬探しをしていないように自分には思われる。もちろん「探し」という言葉から連想されるようなストイックな行動を取れる人は多くない。しかしこのイメージも恐らく変えることができる。気に入らない記事を集めて罵るのに使う時間の一部を気に入った記事を褒めるのに使うことさえできれば。あるいは人の罵倒コメントに同意のレスポンスをするのでなく、褒め言葉にレスポンスを送るように、ほんのすこしだけ意識してみれば。変化はゆっくりと訪れるだろう。しかしそれでも必ず変わっていくだろう。
 
 俺は引用した記事に同意する。その上で、もし本当に、大手マスメディアの体質を変えたいと思うなら、我々はまず伝播力のあるほめ方を研究する*6ところから始めなければならないということを提言したい。

補足記事090316:森達也リアル共同幻想論「なぜ彼はいつも作業着なのか」←前半部分が参考になる。最後の部分はリップマン「世論(感想)」の論と重なる。

*1:なんでもそれは「50代の専業主婦で高卒」あたりに設定されているらしいソース:http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/752be25ddb6c6ea45413d3cf1e81a546

*2:俺も言う

*3:という意味で、俺はデーモン小暮のブログを「マスメディア」と捉える見方に同意している。

*4:ネット関連本あるいはネット発○○の出版物が多い事実は、もしかするとこの話に多少のリアリティを与えてくれるかもしれない。

*5:もしも妄想であるなら、マスメディアへの期待のステレオタイプを修正するしかなくなるけれども。

*6:つまりそれは悪口以外で繋がるコミュニティの作り方ということでもある。