『石川淳長篇小説選』

石川淳長篇小説選―石川淳コレクション (ちくま文庫)
石川 淳 菅野 昭正

4480423028
筑摩書房 2007-02
売り上げランキング : 24239

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
「白描」*1「八幡縁起」*2「天馬賦」*3の三作品を収録。「八幡縁起」は「紫苑物語」(感想)に収録されていたので実際読んだのは二本。
 長いものになるとロマンが強くなるのか、どちらも笑えるところは少なく、「白描」であるなら芸術家の盛大介が、「天馬賦」ならオギと瓦大岳が、それぞれ作者のロマンを託した人物であるように思われた。
 もっとも笑えるから読んでいる身としては、これらの作品の書かれ方は何気に辛いものがあって、特に「白描」はどいつもこいつもロシア文学か(ロシア人も出てくるし)と思うほど、どいつもこいつも何を言っているのやら分からず、エピソード自体はそこそこ面白いものの、会話が電波にしか思えなくて、砂を噛むような気分だった。これはおそらく、作者の狙いが「たまたま同じ場所にいるだけでいずれは別々の方向へ歩き出す人々の邂逅」を描こうとしたが故で、分かりやすく落とし込むような構図がなく、たとえば推理小説などとは逆方向に表れたパズルのピースがバラバラになっていく課程が書かれているせいだろうと思う。ことクラウス博士*4が襲撃されたエピソードなどはその気になればピースを束ねるために使えそうだったのに、割と放り出されてしまっていて、読む方としてはとっかかりのはしごをはずされたような気分だった。
「白描」に較べると「天馬賦」の方は、まだ何を言ってるのか分かるという意味で面白く読むことができた。主要キャラクターが今だったらのきなみテロリスト呼ばわりされているようなタイプでありながら、当時はそれに悪ラベルが完全に貼られていなかった様子は知識としては聞いていた*5もののやはり不思議だ。
「天馬賦」では学生グループと元理論家の老学者@車椅子を軸に話は進む。学生グループのリーダーは学者の孫娘。
 はつらつと活動する孫に嫉妬を覚える祖父の描写が唯一の笑いどころであり、かつ状況をシンボライズしていた。

もはや孫ではなくて、はっきり赤の他人の、すべての陽根をふるい立たせるところの、一個の美しい生きものをそこに見た。現在の自己によくこれを犯すだけの力は……義足が嫉妬にふるえた。とたんに、義足の憤怒を持って、陽根が立った。立って、どうなるのか。
 ひとりぼっちの陽根であった。

 ラストに至るまで、この老学者は話の展開に追いつけない。しかしこの人物が事件に目を注ぐことによって読者の視点を確保しているのは、非常に重要だ。いま思いついただけだけど「白描」の曖昧とした感じはこの観察者の不在によるところが大きい。だから「天馬賦」のラストで老学者が見ることを止めるのはまったくふさわしい幕切れだったと言える。これが最後に位置していてくれたから、読み終わって徒労感だけしか残らないという事態は避けられた。
 しかし正直、短編集の方が面白いかもしれない。さらに長い「狂風記」でも読めばこの印象はまた変わるだろうか……。

*1:初出1939(昭和14)年雑誌「長篇文庫」(三笠書房)連載。翌年同社より「現代小説選集」の一冊として刊行。

*2:初出1958(昭和33)年、雑誌「中央公論」に掲載。同年同社刊行の「修羅」に収録

*3:初出1969(昭和44)年雑誌「海」(中央公論社)に連載。同年同社刊行の「天馬賦」に収録

*4:モデルはブルーノ・タウト

*5:一九七二―「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」(感想)などに書いてあったような。