ちくま日本文学全集 (011)
石川 淳
筑摩書房 1991-07
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タイトルの張柏端は仙人の名前。昭和十六年十月発表の短篇ということは太平洋戦争直前のはずなんだが、なんつーかやりたい放題の傑作。
張柏端ほどの仙術の達人でも、さあ出かけようというまぎわになって、たしかに玄関に置いてあったはずの沓が見えなくなっているにはちょっとこまった。さがしてみるまでもない、盗まれたにきまっている。しかもそれはたった一足しかない沓である。もちろん何品によらずかねて替りを用意しておくなどということがあるわけはない。そういう俗情を挟んでいたのではとても道はえがたいからである。
「もちろん」以下に石川淳らしいとぼけた風合いがあるものの、この書き出しであれば、普通に昔の中国の話が書かれると思うじゃん、普通。それがしばらく読み進めると、妙な風に話がねじれる。
履物がなくなるという事件は、似たようなはなしがあるもので、近頃の東京市中ではざらにおこっている。その証拠には、ついこのあいだ、わたしも玄関で靴を一足盗まれた。たった一足しかない靴で、何品によらず替りの用意をしておかないという点では張柏端同様である。まあわたしにも欲情がないせいだろうと思っておきたい。
なんの話ですか? と驚いていると、また中国の話に戻る。次に執筆時の現在が出てくるのは、ラストもラストで、
張柏端の沓はもどっても、わたしの靴の替りはまだ出来ない。今日、すくなくとも二十二円五十銭以下では、靴らしい靴はないそうである。したがって、今度どこかの本屋から、すくなくとも二十二円五十銭の為替を送ってくるまでは、わたしはおちおち外をあるくことができない。この機会にわたしは家にことって飛行の術を究め、今後ずっと靴をひきずって地べたをあるかなくてもすむくふうをしようと思っている。
これで「張柏端」という話は幕。いったいぜんたいなんの話だか。しかし、これが読んでいるあいだは、まったく不自然でもなく、興ざめにもならず、むしろ一行一行読むのが楽しくて堪らないのはさすが石川淳だ。ちくまの文庫版日本文学全集はいまリニューアル中だけれども、石川淳を入れなかったのは、残念なことだった。去年三冊文庫を出したからいいだろうという判断なのかもしれないけれど。
ただ、石川淳より読んで楽しい作家が国内に三十人もいるとは考えにくいので、やはり残念だ。