ニセ科学批判について

 こんな記事を読んだ。
ニセ科学批判は自己満足に近いのかも

ニセ科学批判してる連中と水からの伝言を信じてる連中とどっちと友達づきあいしたいかというと後者なんだよね。もちろん自分の価値観を無理やり押し付けてくる人はどっちであっても論外だけどね。

私は、「水からの伝言」は信じてません。

ニセ科学批判している連中って、私から見ると、テロのように見えるんですね。

 俺的まとめによると、「自分は信じてないけど、信じたい奴には信じる自由があるし、それにケチつけている連中は余計なお世話なんじゃね?」って話なんだけど、一読感じる疑問は、「友達づきあいがしたい」連中が、信じた結果被ったり生み出したりする不利益がある可能性を無視してないか、という点。
 俺の知り合いにもこの「水からの伝言」を信じている奴がいる。好人物である。個人的な印象に過ぎないが、ニセ科学を信じる人の心性はどちらかというと、攻撃的ではないという意味で穏やかで、傷つきやすいという意味で繊細な人が多いように思う。ニセ科学批判をする人々の語調の厳しさ(冷静な論調の人も結構いるんだけど、やっぱり声が大きい人の方が目立つからね)と、批判される人々を対比的に捉えると、酷いなと思う気持ちも理解できる。
 けれども、たとえば「水に言葉をかけると、結晶の形がその言葉に影響される」って話を信じるその人たちが、「ありがとうという言葉は水に向かって言うと綺麗な結晶ができる良い言葉」というフレーズを応用して「○○という言葉は綺麗な結晶ができない悪い言葉」と信じた場合、どんな結果が生じるだろう。
 たとえばの話ホゲタラ語を喋るホゲタラ人がいるとする。ホゲタラ語ではドンジャラルという語彙が日本語のありがとうに相当するとする。しかし水にドンジャラルと語りかけても水は綺麗な結晶を作らない。なぜならホゲタラ語が良くない言葉で、この事実からもホゲタラ人は悪人であることが分かるという理屈を「水は良い言葉を聞くと綺麗な結晶を作る」という主張は孕んでいる(この辺は「すすんでダマされる人たち(感想)」が詳しい。)。だから俺は「水からの伝言」は信じる・信じない以前に嫌いだし、友達づきあいしたい連中にそんなもんの片棒を担いでもらいたいとは思えない。いやエントリ書いた人だってそんなことを望んでないのは分かってるけど。ただ恐らくはニセ科学批判をする人も主旨としてはエントリ主とそれほど離れたところにはいないはずだ。というのは、「自分の価値観を無理やり押し付けてくる人はどっちであっても論外」と言っているのだから、ニセ科学批判者だろうが、代替科学の紹介者だろうが、単に「自分と考えが違う許さん」という人は除外して考えられるから。
 その上でテロのように見えるというのは、批判する人と焦点が違っていて、被害者をどこに見るかというところにズレがあるという話なんだろう。つまりあるブログが「やっぱり言葉って大事ですね」と書いたときに、情報の受け手が感想を述べていると思うか、それともニセ科学情報の再発信と見るかという点が違うんだろう。俺にはどちらかというと再発信に見えるので、テロ(というのはそれ自体に「やってはいけないこと」というイメージのついた言葉に思われる)というよりはお節介な忠告というようなものに感じられる。言い方に問題がある場合が散見されるのは分かるけど。
 しかし語りかけの方法に改善の余地があるからと言って、そのお節介自体まで否定されるべきではない。そのお節介がなくなったら、ニセ科学は科学の顔をしていられるし、それに縋った結果、取り返しのつかない結果になる場合もあるわけだから*1

 あと、ニセ科学批判なんてして効果があるのか? って主張がリンク先のリンク先に書いてあったけど、たとえば人相やら手相やら星占いなんかをネタ消費できるようになっているのも、批判者がたくさん出ている結果だし、手口が多様化するのも批判された結果なのではないだろうか。俺俺詐欺が知名度を上げた結果あれこれ別バージョンが出てきたみたいなもので。