なぜ我々は強く言うのが「良い」と思うのだろうか

 前回まで。
いまある希望に乗れなければ好きで絶望してるのか?
あいつらどーせ変わらないが隠すもの
 ここまでの主張は、「『(いまある)希望があるのに、それに乗ろうとしない。であるなら、お前は絶望好きなだけである』という判断基準は、考えてみれば、人間がこれから新しい夢や希望を生み出す可能性への侮辱である」「たとえ自分には新しいメッセージのひとつも捻り出せなくても、解決が自分の手に余っても、好きで持っているわけじゃない重りを捨てられる物語や夢が誰にでも、どこかに存在しうるということの可能性だけはどうしても抱えておきたい。」
「我々(絶望していない人間)はたぶん、絶望している人よりも、人は変われるし、その結果得られるものは多いと知っている。だから、世界の見方を変えろ、自己イメージを変えろ、行動を変えろ、価値基準を変えろと言えるのだと思う。」「世界の見方を変えたり自己イメージを変えたりするのに較べたら、『絶望している奴は好きで絶望しているんだ』と思わなくなる程度に、いやせめてそれを発言しない程度に自分を変えるなんて、難しくはないんじゃなかろうか。」

 で、再びここへ戻る。

 絶望している人が絶望していると言うのは、世界に対する異議申し立てなのかもしれない。

いまある希望に乗れなければ好きで絶望してるのか? - U´Å`U


 あいつらどーせ変わらないが隠すものというエントリで「変わらない」のは、「変われ」というメッセージしか送ろうとしない我々も同じであるという話をした。「絶望してます」とか「何やっても駄目です」というメッセージを受けて、初手から罵る人間は置いておいて、「なんとかしてやりたい」と思った人、俺もリア充じゃないけど、なんとかやってるから、おまえだって楽になれるよ、と言ってやりたい人がメッセージは送るとき、なぜ機能しないハッパをかけるようなものになりがちなのか。ハッパの種類は表向き色々なバリエーションがあっても、どうしてそれがまとまると「変われ」にしかならないのか。
 どうすれば絶望している人に伝わる言葉になるのかという問いを考えるなら、まず考えなければならないのは、なぜ伝わりにくいのが見えている「変われ」メッセージを送ってしまうのかということを検討する必要がある。


 とはいえ、もともと他ブログの記事に刺激されて考え出したことなので、なんら用意が出来ているわけでもなく、見切り発車なので、書いてる本人自身どこから妄想なのかわからない。細部については今後の検討課題として、あるいは俺なんかより物知りで頭の良い誰かがより緻密な考察をいつかしてくれると願いつつ、この三日間考えたことを披露したい。


 まず俗説では「自分が抑えている嫌な部分を見せられた同族嫌悪」なんて考え方がある。あるいは「最初から上から目線で見下しているから、相手の気持ちを考えない」なんてのもある。これとは別に「だってあいつら甘えているだけだから」というのもある。


 これらはすべて、言った奴が変わらなくて良い相手への解釈として採用されていると俺には感じられる。
 ひとつめは、絶望してますという人と変われという人のあいだに起きたトラブルを見た第三者が、メッセージを発信する行為を貶めて「うかつにそんなことをしない方が良い」と訳知り顔で言うために使われがちだ(そうじゃない場合には「同族嫌悪かもしれないけど、見ていられない(から、罵るよ)」という使われ方になるかと思われる。
 ふたつめは絶望している人の側が別の絶望している人を擁護するのに使われることが多い気がする。みっつめはもちろんメッセージを送った人や、そういう人間を罵る人が使いがちなんじゃないかという印象を持つ。
 つまり、この三つはやりとりが上手くいかないスケープゴートを他者に帰して、自らの変わる必要を隠すという働きをする点で三つ子である。もっともどれもそれが納得のいく局面はあるし、どれも有効な分析だと俺も思う。


 けれどもあえてここでは三つとも根本的な原因としては採用しない。具体例を用いていないここまでの一連のエントリでは、どれかを採用すればそれなりに筋の通ったことは言えそうだけれども、それとは違う視点で考えてみたいし、それぞれの説には弱いところもある。まず同族嫌悪から行くと、それが発動するのは、メッセージが拒絶された段階だろうと思われる。最初の「こうしたらいいんじゃない?」と言うメッセージを送らせるのは、むしろ共感だろうと思う。一見最初から嫌悪感丸出しに見えるような場合であっても、それは違う相手とのあいだでのやりとりの失敗が、共感を駆逐して同族嫌悪だけを残していると考えた方が、筋が通るように俺には思われる。
 ふたつ目とみっつ目はどちらも主観的であり、さらに相互に影響し合う要素でもある。優しく言っても動き出さない(動き出せない)から、甘えていると思い、それなら強く言った方が良いと送信者側が考え、受信者側は強く言われたから上から目線で見下していると考える、この連鎖が何度か繰り返されるとふたつ目とみっつ目が同時に生まれてくることになる。卵が先かニワトリが先かというよりはコインの裏表だろう。


 さて、昨日のエントリで俺は絶望していない人間の方が変わるのは簡単だし、世界の見方を変えたり自己イメージを変えたりするのに較べたら、「絶望している奴は好きで絶望しているんだ」と思わなくなる程度に、いやせめてそれを発言しない程度に自分を変えることの方が簡単だと言った。なのでここでも絶望している人への分析は置いておく。ちゃんとはできないし、絶望していない側の俺がそちらを考察すれば、結局「おまえら変われ」という話にしかならないからだ。


 では、愛すべき、お節介な送信者=我々の方で検討する必要がある部分は? と言えば、実はもうすでに書いておいた「甘えていると思い、それなら強く言った方が良い」という発想だ。我々は最終的な表現のバリエーションは違っても、これが真実だという前提で送り出すメッセージを考える。


 でも、どうしてだろう。


 とか言うと、「けっ!」って言われそうだけど、これは決して「優しくしてあげなくちゃ駄目だよね」と言うつもりで出した疑問じゃない。良いじゃないかそれがその人の個性なんだからという話でもない。苦しんでいると訴える人に「その苦しみはあなたの個性です」なんて言うのは、理解面した無関心だし、苦しんでる当人はそれが個性かどうかよりも、どうしたら折り合いがついていくのかを知りたいんだろうから、こんな「優しくしてあげなくちゃ」という主張はこの文脈においては無意味だ(優しさが必要になる場合だってもちろんあるだろうけれど)。


 いま言っているどうしてだろうは、なぜ我々は強く言うのが「良い」と思うのだろうか、という問いである。
 

 思うにこれは、我々に刷り込まれている「人を励ます型」というものが、我々にメッセージの送信方法を決定させているのではないかと思われる。
 なんでもいい。挫折から立ち直る物語というものを考えてみて欲しい。すると、そこにはふてくされた主人公をハッとさせるようなキツイ一言を言う名脇役の姿がないだろうか。何かガツンと言われた主人公が、それをきっかけにして、立ち直っていくようなストーリーラインだ。もちろん、他のパターンも存在する。たとえば主人公の異性の恋人が思いもかけぬ積極性を持って励ましてくれるとか、年長の肉親が諭したり死んだりするとか。
 ただ他のパターンはそれをできる人間が決まっている異性とか肉親とか。
 である以上、我々が誰かを積極的に励ましたいと思う場合、選べる選択肢は自分でオリジナルパターンを生み出せる希有な人間以外は、最初のパターンを採用するしかない。我々が引き受けられるのは、最初のパターンだけと言っても言いすぎではないだろう。そして、これは通用しないわけではないから連綿と物語に採用されてきたやり方でもある。


 ところが、この名脇役パターンのシナリオにも成立するのに条件がある。それはガツンと言ってくる相手が、言われる人間との間に信頼関係を築けていること、言い換えれば疑似家族的間柄であるということだ。名脇役の役割は物語上の主人公であるメッセージ受信者をハッとさせることと、映画などでは滅多に発動しないので、盲点になるところだけれども、行動に移ったメッセージ受信者が失敗したときのセーフティーネットを引き受けるという機能が割り振られている。その引き受け機能を担うことが担保になって、強い言葉がメッセージ受信者の行動を引き出していく。


 このふたつ目の条件をネットで整えることは難しい。たまたま「辛いよ」って言葉を見かけて反応した人間と、「辛いよ」と言っている人間のあいだには、なんの人間関係も存在していないのだから、これは当たり前だ。すでにやりとりがある人間同士のあいだであっても、モニター越しに疑似家族的な信頼関係などそうそう築けるものではない。この信頼関係が築けていない最初のメッセージが「おまえ、変われ」であるなら、それは叱咤激励ではなく、非難だと感じられるのは仕方ないことだ。


 ここで一昨日からの問いに対する仮説をひとつ提出する。問いは何度も繰り返しているこれ。

 絶望している人が絶望していると言うのは、世界に対する異議申し立てなのかもしれない。

いまある希望に乗れなければ好きで絶望してるのか? - U´Å`U

 ここで言うこの世界に対する意義申し立ての内容は何なのかという問いであり、それに対する仮説は、「まわりに名脇役を引き受けてくれる人のいない人が、ネットで悲鳴をあげた場合に、つながりがランダムなネットの人間関係でも有効な、励ましの文脈が存在していないことへの異議申し立てである」ということになる。


 ネット以前、我々は人間関係的に遠い人間を励ます機会すらほとんどなく、まして顔も知らない人間との関係を励ますことから始めるなんてことはまずない世界に生きていた。そしてガツンと言えるのは、それだけの信頼関係があるという前提があったし、たとえば「どう転んでも友達」みたいな形で、メッセージ受信者の変わることへの恐怖を軽くする機能を引き受けていた。むしろ引き受けられない人間が叱咤したりしないという前提があったのではないかと思う。恋の悩みでうじうじする場面で友人Aが「当たって砕けろ」というときには、「やけ酒くらい付き合うし、駄目でもおまえを見捨てるはずがない」という暗黙の了解があった。


 しかし、ネットの登場は励ます関係性を変えた。なのに、我々の手持ちの文脈はいまだネット以前だ。おそらく「変われ」型メッセージの不全の原因はここにある。


 信頼関係がないというのは最初の受信側のことだけではない。発信側が最初のメッセージの返事として「無理だ」と返されたときにも、また不全が起こる。相手の無理だがどう無理なのかを正確に把握することがまず不可能である以上、もっともシンプルな解釈「あいつは変わる気がない」を採用する誘惑が頭をもたげてくる。


 これは決してネットは駄目だという話をしているのではない。たとえば、ちょっと優しい言葉をかけてもらいたいだけのとき、「こんなことがあって悲しかった」とか「こんなことを決意した」とかそういう話を誰かに聞いてもらいたいとき、ネットは便利なツールだと思う。いま思い出したのは電車男とか、人生相談サイトとかだけど。ポジティブ・アクションをすることを決めたあとに後ろ盾を求めるなら、ネットは他の人間関係よりも有効に機能することもあり得る。たとえばこの記事は、昨日の記事についたブックマークが原動力になって書かれている。読んでくれる相手がいるのが見えなければ、書いていない。

 これはツールと持ち合わせた文脈の得手不得手の問題で、単純にネットは「変わりたいけど変われない」という人の尻に火を点けるのが現状苦手なツールだという話だ。この不便さを自覚するなら、自分の助言が受け入れられないことにすこしは寛容にも慣れる気がする。


 個人的な印象としては、というか昨日今日のエントリの最初の閃きと我ながら妄想かもと思った部分は、これは家族が大きくなって共同体になり、それが大きくなって国になる的な社会観の欠点なのではないかという気がしている。上のような人間関係であれば、叱咤激励は変わろうとする人間の挫折に対するセーフティーネットを引き受けることが前提になっている。地縁血縁を根拠にして。それが濃ければ濃い程、遠慮がなくなり、メッセージも強く出るに違いない。だがこの社会観では、家族枠から外れる、地縁血縁なき相手とどう話をつけていくかという論点が軽視される。俺の知る限りでは「○○はしないようにしましょう」みたいな自重によって、つまり積極的に関わることを止めることによって、摩擦を減らす程度の方法論しかないように思われる。
 だが今後すこしずつでも良いから作り出して(あるいは生成されて)いかなければならないのは、「家族」の外の人間と話し合うための方法論だ。絶望している人の叫びが報せる異議は、大きく捉えるなら、そういうものになってくるように思われる。
 共同体がいつから壊れていると言われているのかは知らないが、ここまで考えてきたことが妥当なら本当の問題は共同体の崩壊ではない。崩壊しているのにもかかわらず、我々がそれに変わる話法を生み出してこなかったことにある(逆から考えれば、共同体の崩壊なんてまだまだ復権を叫ぶ必要がない程度に過ぎないということだ。)。
 ネットが遠慮の要らないメディアとして問題になるたび、思いやりのマナーとか、そういう方向で話が出てくるけれど、それが遠慮を知れという方向にしか進まないのなら、絶望した人たちはずっと変われないままだろう。
 必要なのはマナーだけではなく、会話の方法だ。それは生まれるだろうか。生まれうると自分は信じる。


 先週発売のニューズウィークには1920年代のニューヨークで起きたテロ事件の記事が出ていた。この記事を書くヒントになったものなので紹介したい。記事の結論部分。

私たちは危険な時代に生きているが、危険な時代は過去にもあった。そして理性や知識は暴力に勝利したのだ――テロリストの価値観をたたきつぶすのではなく、進歩的な法律や労働組合の創設、賃上げ、市民の権利を制度化してうまく吸収しながら。

 もちろん絶望に苦しむ人々はテロリストではない。ここで言いたいのは、異議の声をたたきつぶすのではなく、それを吸収することで社会は生きやすい場所になってきたということだ。絶望していない我々が絶望している人たちの異議を吸収できたとき、我々は「強く言うしかない」という制限のある不自由な話法に支配されるのではなく、それを選択肢としてみなすことができるようになる。変わらないことに苛立ちや歯がゆさを感じる我々が、そういう方向を目指すのに、どんな不便があるというのだろうか。すくなくとも俺には、なんの不便も見当たらない。その第一歩は「あいつらどーせ変わらない」と言わないことだろうと思う。そして、一歩踏み出せばなんとかなる。我々はいつも変われないって人にそう言ってるはずだ。なら、それを信じてみようじゃないか。