あいつらどーせ変わらないが隠すもの

 昨日の続き。
 もうちょっと考えて見るとは言ってみたものの、どっから考え始めればいいのやら、はっきりしないまま手探りであれこれおつむの中身(軽い)を転がしてみたら、なんとなく浮かんできたものがあったので書いてみる。ただなんとなく浮かんできただけで、説得力がどの程度あるかは不明。妄想かもしれない。
 絶望してない俺が、この件を考えるとなると、絶望している人の原因を探って云々というのは、無理がある。なのでとっかかりは昨日書いた文の中の、この部分から行ってみようと思う。

 絶望している人が絶望していると言うのは、世界に対する異議申し立てなのかもしれない。

いまある希望に乗れなければ好きで絶望してるのか? - U´Å`U


「なんで希望があるのを教えてやってるのに、言うこときかねえんだよ、要するにおまえ、好きで絶望してるんだろ」というのは、ハッパをかけるつもりで言っているとしても、そのハッパは機能していないとは昨日も書いた。
ついでにその言葉が、「『お前たちが何と言おうとおれは絶望しているんだ!』と叫ぶひと」をその世界に閉じこめる手伝いをしていることになるとも書いた。なぜかと言えば、ハッパとして機能しない上のような言葉は、自分のことを誰も分かってくれないと考える人の世界観を肯定するからだ。叫んだ人は思う。「やっぱり」と。それによって自分の考える世界観=誰も自分を分かってくれないという考えをますます強くする。


 これが残念だと思うのは、「なんで言うこときかねえんだ!」が、この台詞を言う人の二言目である場合が多いからで、「なんで言うこときかねえんだ!」という以上、その前になんらかの提案があるのが普通かと思われる。それを提案した人は、善意でそれを言い、それを拒絶されたから「なんで〜」の台詞が出てくることになる。ここには「せっかくいいこと教えてやったのに」という気分がどうしても入り込むだろう。


 と、書くと、「感謝されくて提案した偽善者」みたいなことを言うのかと思われそうだが、そうではない。というよりも、以前「薄っぺらい言葉を吐く勇気」というエントリでも述べたのだけれども、無力感に負けず、何か言ってあげたいという気持ちを表現するのは、凄いことだと考えているし、たとえ感謝されたら嬉しいという気持ちがあったとして、なんでそれを責められなくちゃいけないのかとも考えている。ちなみに俺もついつい人に対して意見を言ってしまうし、そういうときに、感謝されたらもちろん嬉しい。そしてそれを不純だとは考えていない。そんなこと考えても窮屈になるばかりだからだ。
 ここで言いたいのは「なんで〜」というフレーズを引き出す原因として、こういう「善意の拒絶感」があるんだろうと言っているだけだ。


 ところで、この善意で言われる一言目について考えてみたいのだが、具体的な言葉としては「甘えるな」とか「自信を持て」とか「失敗しても良いから何か始めろ」とか「勇気がないだけだ、踏み出せ」とか「○○なんかにこだわるな」とか「医者に行け」とか、種々様々にあるんだろうけれど、一番ひとくくりにしたフレーズに落とし込むなら「おまえ、変われ」なんじゃないかという気がする。具体例はそのメッセージをそれぞれの人が自分は上手くいったパターンとしてパラフレーズしたものと考えられる。
 で、この提案が受け入れられないと「変わらないのは好きで絶望しているからだ」と言いたくなるのだろう。そこで「違う、変われないのは、変わることが怖いからだ」と言っても、提案した側は耳を貸さない。絶望が最悪の状態であるなら、どう転んだってそれ以上悪くなるはずがないのに、なぜ変わろうとしないのか理解できないからではないかと推察する、というか、俺が同じシチュエーションで「なんで〜」を言うとすれば、バックにこういう考えをたぶん持つ。


 しかし最悪という言葉は「最も悪い」という意味でだけしか使わないのだろうか。辞書(新明解)にはその意味しか出ていないのだけど、たとえば英語のmostという「最も○○な」という意味を表す単語には、very(とっても)の強意表限の用法がある。個人的な語感としては「最悪」の「最」にも同じ用法が存在するように思われる。とするなら、変わった結果、最悪が超最悪とでも言うしかない事態が出現するのを恐れて、動けず、変われというメッセージはそれを無理強いするものと相手がとったとしても、一方的に非難できるようなことではないだろう。変化に伴ってもたらされるダメージの基準単位が違うなら、それを実行するのに必要な勇気の量も違ってくるわけだから。


 と、ここまでは前提(長いね、ごめん。でもまだ続くんだ。)


 この前提に立ってもまだ、「いや変わるなんてそんな難しくねーよ。変わろうとしないあいつらは云々」という人もいるだろう。そういう人々はきっとなんらかの努力によって変化を掴み取った人であるに違いない。だから「変わる」なんて大したことじゃないし、その結果得られるものは多いと思っているんじゃないかという気がする。俺はそれを真実だと思う。人は変われるし、その結果得られるものは多い。
 そんな我々が、誰かの「変われなさ」に出会ったとき、馬鹿の一つ覚えで「変われ」としか言えないこの「変われなさ」は、いったいどうしたことだろう。考えてみると、これは不思議なことである。善意で「変われるんだから変われ」というメッセージを発信してしまう我々が、馬鹿の一つ覚えみたいに「変われ」しか言わないということがだ。そのやり方ではうまく行かないと知っていながら、通じもしないメッセージを投げて、受け取らないことが悪いと言うことがだ。


 まるで「変わろうとしないあいつらが悪い」と言うことで、「変われ」以外のメッセージを発しようとしない自分たちの変わらなさから目を背けているみたいじゃないか。


 誤解しないでもらいたいのは、それを非難しているわけではないということだ。昨日も書いたことだけど、絶望の声を減らしていけるようなメッセージを生むということは難問だし、ひとりひとりが「解決策だしてね」なんて言われる筋合いのあることじゃない。それを非難したら「じゃあ何もしないのが良いんだね」という結論にしかならない。そうではなくて、「なんで希望があるのを教えてやってるのに、言うこときかねえんだよ、要するにおまえ、好きで絶望してるんだろ」と言う二言目を発して、世界を固めない方が良いと言いたいだけなのだ。そのために、自分たちにも「変えていない」ところがあるのを自覚したいよねと言うつもりで、ここまでは論を進めてきた。


 我々はたぶん、絶望している人よりも、人は変われるし、その結果得られるものは多いと知っている。だから、世界の見方を変えろ、自己イメージを変えろ、行動を変えろ、価値基準を変えろと言えるのだと思う。
 世界の見方を変えたり自己イメージを変えたりするのに較べたら、「絶望している奴は好きで絶望しているんだ」と思わなくなる程度に、いやせめてそれを発言しない程度に自分を変えるなんて、難しくはないんじゃなかろうか。


 昨日、俺は「『(いまある)希望があるのに、それに乗ろうとしない。であるなら、お前は絶望好きなだけである』という判断基準は、考えてみれば、人間がこれから新しい夢や希望を生み出す可能性への侮辱である。」「たとえ自分には新しいメッセージのひとつも捻り出せなくても、解決が自分の手に余っても、好きで持っているわけじゃない重りを捨てられる物語や夢が誰にでも、どこかに存在しうるということの可能性だけはどうしても抱えておきたい。」と書いた。
 この可能性が具体化するためには、最低限「あいつらは好きで絶望している」と考える人が減る必要がある。そこで止まらない人の数が増えることが今までに現れていないメッセージを生み出す大前提になるからだ。


 俺は一言目のメッセージを送れる人を支持する。そういうことは迷わずやって良いと思う。ただそれが上手くいかなかったときに、メッセージを受け止められなかった人が持つ、誰も自分を分かってくれないという世界像を強化するような反応をしないで欲しいと思う。そのメッセージが上手く機能しなかったのは、送信した人の無能も受信し損ねた人が「変われない」のが事実であることも証明していない。ただマッチングが上手くいかなかっただけなのだ。我々は誰も万能でない以上、なんらかの失敗によって「絶対」を認められるはずがない。そして、変化が起こせることを知っている我々の方が、「どーせ、あいつらは変わらない」と言ってしまったら、それは本当になってしまう。そのとき、変われないのは絶望している人たちだけでない。我々もまた、自分たちの変化の可能性を摘んでいるのだ。まったく自覚もなく、「変われないあいつら」に優越感なんて持ったりしながら。


 で、話は続いて「なぜ『なんとかしてやりたい』と思った人が送るメッセージはハッパをかけるようなものになりがちなのか」(実は考えていたのはこっちなんだけども、ここまでが、こんなに長くなるとは思ってなかった。)という方向へ向かうんだけれども、いい加減長いので、それはまたの機会に。この稿続く。

 続きのエントリを書いてみました。よかったら読んでみてください。なぜ我々は強く言うのが「良い」と思うのだろうか