言論の自由についてのメモ

自称愛国者が今日ヘイトスピーチをばらまく呼びかけをしていることに思う
昨日の続き
 の関連エントリです。
「自称愛国者が今日ヘイトスピーチをばらまく呼びかけをしていることに思う」でいただいたブクマの中にこんなのがあった。

munyuu これはひどい 言論統制をやりたがる人間は、すべてがヘイトスピーチに聞こえる。ということですね。

mimipann "他人を侮辱したい以上の何もないこれは「表現」の名に値しない"、自分にとって都合のいいときに都合よく「表現の自由」を狭めると、自分がデモしたいとき困ると思う。

 それから匿名ダイアリ「■「表現の自由」の定義をしていいのは、誰なんだ? 」では「そういう“感覚”を根幹に置いた議論で「表現の自由」を語るのは、やばいと思うんだけどなあ。」という指摘を受けた。


 一個目の引用コメントは、「あれがヘイトスピーチに聞こえないなら耳鼻科に行くと良いんじゃないか、そしてもし耳に異常がないなら脳みそが腐っているのではないかと俺には思われる(たぶんこれは俺はそう思うと言っているだけなので思想の自由だし、思うところを述べるのは表現の自由なんですよね、むにゅうさん基準的に)」で済ませばいいんだけど、他にも俺がスピーチコードを導入しろと言っているように感じる人がいるところから見て、どうも書き方がまずかったところもあったのかもしれないと考えた。


 だから改めて述べるけれども、自分は「表現の自由を守れ」という主張には賛成している。件のエントリでも「しかし法律を作ったら、それがどう運用されるのかという問題が出てくる(この運用という点で、俺は人権擁護法には賛成できない。やっぱり怖い)。なんつーかジレンマだ。」という部分の方が結論のつもりだったんだけども、伝わらなくて残念だ。


 その一方で最近は昔ほどにはこういう意見に頷けなくなった。

「○○を守るためならば、ある種の言論・表現は規制されるべきである。」*1というような意見には、とうてい賛同できない。

「悪しき言論」に対しては、自分の言論でもって立ち向かえばいい。法律を作って、権力に頼むのではなく、自分自身の言葉でもって、「悪」に立ち向かうのだ。

確かにそれは、しんどいことだ。警察が代わりに取り締まってくれるとしたら、どんなに楽なことだろうか。だがそれは、権力をますます増長させることになり、結局自分の首を絞めることになるのだ。

フランクリンが言ったように、わずかばかりの一時的な安全のために、自由を犠牲にしてはならない。

特定の言論を権力でもって規制すること - 同志の妄想放送局

「昔ほどには」と書いているところで分かってもらいたいんだけど、俺はこの主張が全面的に間違っているとは思わない。「「○○を守るためならば、ある種の言論・表現は規制されるべきである。」というような意見には、とうてい賛同できない。」という部分と「わずかばかりの一時的な安全のために、自由を犠牲にしてはならない。」という部分には賛同する。が、真ん中2パラグラフについては、すくなくとも「自分」に在日外国人なんかを代入する場合には、この意見は酷だ。カルデロンさん一家を例に取れば、口を開くだけで非難されるどころか、勧告受け入れて帰国するって言っているのに、「あいつらを追い出す抗議デモだ!」「おー!」なんて騒ぎになる。立ち向かうのが気に入らないではない。言うこと聞いてもなお気に入らないなのだ。


 その立場にいない俺たちが、自分自身の言葉で「悪」に立ち向かえと言うのは、決してフェアなことではないと俺には思われる。いわゆるマイノリティの人の立場で上の文章をパラフレーズすれば、「自分自身の言葉でもって、「悪」に立ち向かうのだ(俺たちは無関心を決め込むが)。確かにそれは、しんどいことだ。だが法律を作ったりすれば、俺たちの首を絞めることになるのだ。お前らのわずかばかりの一時的な安全のために、俺たちの自由を犠牲にはさせない。」となるだろう。


 ここでもう一度言っておく、俺は「言論の自由を守れ」という主張には賛成だ。上の引用に対しても同意している部分はある。というより、俺としては表現の自由にいささかなりとも規制はかけられたくない。


 だからこそ、他人を傷つけるためだけの言説の盾に「表現の自由」が持ちだされるときに、どうしたらいいのか考え込むわけだ。そういう、俺が思うにまるで屁理屈でしかないようなロジックに対してどう対処すりゃあいいのか悩むわけだ。


 確かに人を傷つけてでもしなくちゃいけない表現(読み間違えないで欲しいんだが、これは決して「人を傷つけるための表現」ではない。)というものも、この世には存在する。一方で誰もむかつかせない、あるいは傷つけない表現は存在しない。そんなつもりはなくても、誰かを傷つけていることもある。何かを書いたり言ったりするということは必然的にそういう結果を孕んでいる。それでも書くべきことは書くべきだし、言うべきことは言うべきだと俺は思う。誰も傷つけないを目標にするなら、発言も表現も最終的には不可能になるだろうと考えるからだ。


 その一方で、この権利には義務が生じるだろうとも考える。そこが自分とgenosseさんに代表してもらっている意見の違うところになるのだが、「悪しき言論」に対しては、自分の言論でもって立ち向かえばいいとは、自分は考えない。それは結局スピーチコードを導入するしかないという帰結を呼び込むことになる。デカい声の前にかき消される小さな声を守るのは、民主主義の大前提だろうから。かき消される声量しか持たない人に「声が小さいのがいけない」なんて責任の押しつけがいつまでも許されるとは思えない。


 だから言論の自由を尊重する人間は、かき消される声の側に立つ義務がある。どっちもどっちだよね、というポジションを取るのは、言論の自由にとって緩慢な自殺行為だ。俺はそう考える。

 だからgenosseさんの意見は俺のバージョンではこうなる。

「「悪しき言論」に対しては、法律を作って、権力に頼むのではなく、みんなの言葉でもって、「悪」に立ち向かうのだ。」
 自分に関係ないから相手にしないのではなく、関係なくとも眉をひそめるような意見表明には反論すること。言論規制に反対するなら取るべきスタンスはおそらくこれが正解だろうと、現時点では考える。


 ヘイトスピーチをする権利なんてものがあるんだとしたら(俺はあると思っていないが仮定法)、それは奪わせない。ヘイトスピーチの定義次第でどこまで規制されるか分からないから。
 しかし我々はヘイトスピーチを故意に行うような人間がうっとりするよりもげんなりするぐらい自分たちの言論の自由を行使しなければならない。スルーなんてしちゃ駄目なんだ。これがたぶん言論の自由に伴う義務なんである。全員に課せられた義務ではなく、言論の自由に価値を置く人間の。


 で、「ヘイトスピーチをヘイトするのは良いの?」という意見があったけども、上のように考える以上、個人的見解では当然「良い」ということになる。言論規制を避けるためには、法律を使わずにヘイトスピーチを黙らせる必要があるからだ。誰かのヘイトスピーチをする自由なんかを尊重することで、巡り巡って俺や俺がまともなこと言ってるなあと思う人たちの言論の自由が奪われてたまるか。他人の意見を尊重しろとか自分の好き嫌いでダブスタとか言われることを織り込んで、ヘイトスピーチをヘイトするのは、言論の自由を手放さないための基本的対応だ。繰り返すがヘイトスピーチを組み込んだ言論の自由言論の自由だと言うなら、それは早晩規制されることになるだろう。だからこそ、そんなもんは法律で規制する前に黙らせる方がベターなのだ。


 同時にヘイトスピーカー連中が誰の目にもあさましい人間であるのが分かるような対処法を模索していく必要があるんだろう。難しくはあるし処世に過ぎないのかもしれないけれど、ヘイトスピーチを「どっちもどっち」で容認させるのは、結局ヘイトスピーカーの勝ちなんだろうと思う(勝ち負けじゃないって意見はもちろんそうなんだけど、他に上手い言い回しが浮かばないのでひとまずこれで)。ヘイトスピーチ恥ずかしいって合意を取れるような対応方法があればいいんだけどね。


 この件に関しては、人権第一の人たちとは意見が違うだろうとは思うが、自分的には「なんでも言っていいわけじゃない」と主張するよりも「理不尽なヘイトスピーチを聞き流すな」と主張する方が理にかなっているし、ヘイトスピーチを受ける人たちが殴るところまで追いつめられないうちに、それを黙らせる世間様ってのを作っていくアプローチをする方が好ましいと現時点では考える。


 最後に、ケチをつけているみたいな引用になってしまったgenosseさんに対しては失礼を謝っておきたい。
 俺の解釈が本意でないことは理解しているけれども、そう読みうるということと、目に止まった中では一番コンパクトにまとまった意見だったので引用させてもらった。ご理解願いたい。
 それから、このエントリはgenosseさんのエントリに触発されて考えていたことがまとまった部分が大きい。おかげでもやもやしてたところに筋道を立てることができた。感謝。

追記:090413
 ブコメでこんな意見を頂いた。

sharou だから「マイノリティを守るため」を強調すると、どうしても「多数派への弊害が大きいから、人口 1% 未満のマイノリティはちょっと我慢しとけ」となるんだって。代理戦争してほしいわけじゃない。

 なんで「だから」なんだ? と思ってリンクを辿ってみたら、この方はこのエントリを書いた人だった。
社労士 李怜香の多事多端な日常 - マイノリティがかわいそう、じゃなくて#p01
 だからは以下の部分を受けているようだ。

表現の自由への侵害、ということだけでなく、規制が権力の側の都合のいいように使われる、ということへの恐れを語る人が多いのも、わかる。わたしのように、現実的に自分が被害を受ける可能性のない人が、そこで止まってしまうのも、わからないではない。

でも、ヘイトスピーチの被害を受けるのは、そのターゲットにされている、マイノリティだけなんだろうか。民族的対立をあおることは、社会の治安に対する大きな脅威なんじゃないの? 

なにかを規制するということは、当然弊害も伴う。だがそれも、野放しにしておいたときに、どういう事態が起こるか、という判断とのバランスの問題だし、弊害をどれほど押さえ込むか、という知恵の問題だろう。

マイノリティがかわいそう、という人間的共感はそれは大事だけれど、それだけでは、多数派が迫害される可能性を増やすのなら、少数派はちょっとがまんしとけ、という「現実的な判断」には対抗できないように思う。

http://www.yhlee.org/diary/?date=20090412#p01

 なにかまた誤解を与えてしまったようだけれども、俺が強調したいのは「マイノリティを守るため」ではない。当然「代理戦争」に名乗りをあげたつもりもない。俺には引用したエントリは「規制が権力の側の都合のいいように使われるのを押さえ込む知恵を盛り込んで法規制すべき」という意見に読めたんだけど、その知恵が信じられないから、規制なんて話が現実化しないためにはどうしたらいいか、という風に考えている。俺にとってレイシスト的発言を表現の自由とか言論の自由とかを旗印にばらまく人々は、俺の自由の敵である。
 もし自分にとって「マイノリティを守れ」が至上命題なんだったら、「規制しろ」と言えば済むので、このエントリみたいな窮屈なことを考えない。しかしマジョリティである自分にとって、法規制は問題の解決とはなっていない。


 こうした意見は、「現実的に自分が被害を受ける可能性のない人」のお気楽な発言なのだろうと自分でも思う。結局、マジョリティの方が大事なんじゃねーかと言われたら、返す言葉はない。さらに言うと俺の考えの弱点はマイノリティを罵る言説に対して即効性がまったくないところにあるのに対して、法規制は即効性を持つだろうと言うところだ。タバコの路上喫煙防止条例のときに結構ショックだったのは、マナーという縛りはほとんど有効性を持たなかったのに、罰金制度にしたら道路から吸い殻が消滅したことだった。「マイノリティを守れ」というテーゼの実現に関して、法規制は他の何より有効であろうということには、自分も同意せざるを得ない。


 しかし俺が守りたいのはマイノリティだけではないのだ。だからこうやって益体もないことをグダグダ述べているし、どうしようもない発言に考えて込んでいる。


 これで納得していただけるとは思わないし、見苦しい人が表現の自由を盾にしてひどい偏見を垂れ流す現状が変わらなければ、将来的には法規制やむなしという風に意見を変えるかもしれないが、いまのところ自分に思いつくのは、ヘイトスピーチは見苦しいというのに躊躇しない、そんなもんに直接加担したり、積極的に支持するのは卑しい行為だという価値観が広まる努力をするというスタンスを取りたいと思う。

 この追記は反論ではなく、補足のつもりで書いた。李さんの立場と問題意識からすれば、その意見は完全に正しいと思うし、俺のようなマジョリティは何を主張するにしても、こういう意見を噛みしめておく必要があると思う。コメントに感謝したい。