田中啓文『ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺』

 なんで読もうと思ったかを説明するには、まずジャック・リッチーの傑作短編集「クライム・マシン (Amazon)」の話から始めねばならない。読んだ人にはいわずもがな、読んでない人には噓くささすら感じられるだろうが、この短編集は素晴らしい。言うなればシングル・ベストのアルバム。ついでに入れた作品がひとつもない面白さ。短い作品をひとつ読み終えるたびに、「あー面白かった、次は何してくれるんだろう」と読み進められる一冊である。マジで。俺は短編集を読んでるうちに目次に戻って「あと何本で読み終わる」とか数えて、読了を餌に読んでいったりしているのだけど、この本はもう次の一本が楽しみで楽しみで、一度も目次に戻らなかった。
 でその中のある一作を読み終えたときに、見事なオチで笑ってしまって、まるで落語みたいだと思ったのである。噺家がこれやったらウケるだろうなあ、誰かやらねえかなあと。っつーか、ミステリーのネタをやる落語家がいてもいいんじゃないかと考えは転がる。明治の昔に快楽亭ブラックとかいう外国人が高座でやった連続噺の速記が「明治探偵冒険小説集 (2) 快楽亭ブラック集 ちくま文庫(Amazon)」として出てたし、前例がないわけでもないだろう。いまいるのかどうかは知らないけど。
 そこでいっそそういう奴の出てくる小説でも書いたらどうじゃろうと思考が跳ねた。リッチーのあれを噺家がやるならきっと謎解噺って言うんだろう、おお、こんなんするると出てくるたあ、今日は冴えているじゃねえか、んでこれを喋る奴は謎解亭(なぞ、ときてー)なんとかだな。きっと。リッチーのあれのラストから始めて、そのあとどっかで休んでるところに誰かきて、妙な事件があったと告げる。謎解亭なんとかが解決に乗り出して……うんにゃ、実は犯人って方が面白いだろたぶん。それじゃタイトルは「謎解亭最後の事件」とかでいいわな。ふふふん。←俺はこういうことを考えているとき、きわめてすこぶる上機嫌なのだ。
 でそこまでふふふんと妄想が転がっていったところで「ん、そういや落語ミステリーって、円紫シリーズ以外でなんかちょっと前に話題になったのがなかったっけ」と思い出した。まさか落語家がミステリーのネタを話したりしないだろうな。あれなんていったっけ、そうそうハナシがなんちゃらってシリーズだったよ。
 と本屋を彷徨って、やっと見つけたのが本書「ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺」。まあなんだ、ひとつ謎が解けた。するると出てきた「謎解噺」って単語は頭が冴えていたわけではなく、ネットでこの文字列を見ていたから出てきただけだったのだ。分かってななかったんだから、むしろ冴えてねえじゃねえか。まさか中身までどっかで見たあらすじをパクったんじゃなかろうな。とどきどきしつつ、とにかく読んで見なければとページを捲った。
 ……。
 ……。
 ……。
 なんじゃこりゃ! 面白えじゃねえか!
 早くに両親を亡くした星祭竜二は高校中退後、バンドでプロになるという夢を抱きつつ、バイトなどしているが、何かと警察のやっかいになることの多い暮らしぶり。それを見かねた高校時代の担任古谷吉太郎は竜二をある場所に連れて行く。それは自分がかつて内弟子を務めていた噺家笑酔亭梅寿の家であった。
 この梅寿もうかなりの高齢でありながら、すごいバイタリティで暴れるわ、のんだくれるわ、なかば無理矢理に弟子入りさせられた竜二は、別に落語に興味もないし、師匠は滅茶苦茶だしで、なんとかして逃げるチャンスをうかがっていた。ところが、梅寿の高座を聞いて、その芸にしびれてしまい、噺家への道を歩み出す。
 で、そっから、お手伝い風景やら、噺家デビューやら新しい笑いと古典落語のあいだで揺れる葛藤やら、師匠から破門にされるやらといったエピソードとともに竜二の成長と、一門という擬似家族を手に入れたことによる家族の再生めいた絆の創出といったことを軸に、連作短編が紡がれていく。竜二にはふたつばかり才能がある。ひとつはなぜか落語が初手から非常に上手いこと。本人は気づいていないが回りには丸分かり。亡くなった両親のことは一切触れられていないが、そのうち実は落語に関係してましたってエピソードが出てくるんじゃないだろうかと思った。
 もう一つが、謎解き能力だ。各エピソードには色々な謎が現れる、竜二はなぜかさらりとそれを解いていく。ただしすべて梅寿が閃いたことの代弁という形を取って発表されるコナン式探偵術。これは第一話にはある程度必然があったように思ったが、そっからあとはお約束だから使われているような気もするが、まあとりあえず竜二はエピソードに掲げられた古典落語とパラレルになるような事件を解決していく。
 で、こうした設定と基本ストーリーが、エピソードを重ねるに連れて練られていっているような気がした。たぶん一話段階でのコンセプトは、

(……)噺家ゆうても、よその世界と何にも変わらへん。汚いもんや。

 というもので、第一話「たちきり線香」第二話「らくだ」は普通のミステリーだ。ところが第三話「時うどん」から暴かれるものが隠された悪意から隠された善意(?)に変更される。この微妙なマイナーチェンジで格段に印象的になった。あるいは謎解噺を超え始めたといっても良い。本書中、最大の読みどころと俺が思ったのは次に掲げるくだりだ。

 なぜ、落語はおおもしろいのか。繰り返し繰り返し稽古して、繰り返し繰り返し演じられるネタが、どうしてすりきれてしまうことなく、人の心を魅了しつづけるのか。
 それは、落語の根本が「情」だからである。人間が人間であるかぎり、「情」はどれほど繰り返されても滅びることはない。
 古典落語の舞台となっているのは、いわゆる「古き良き」時代の大阪である。海も空気も汚染されておらず、地球上のどこにも核兵器化学兵器などひとつとして存在していなかった頃の話である。出てくる人物は、喜六、清八、源兵衛、甚兵衛はんといったおなじみの連中にしても、「子は鎹」の酒飲みの親父っさん、お花、寅ちゃんたちにしても、根っからの悪人はひとりもいない。アホでのんきなやつらが、アホでのんきなことを今日も今日とてしでかすのだ。
 落語は笑うためだけに聴くのではない。一度目は笑えたくすぐりも、繰り返し聴くと飽きてしまう。それなのに、同じ落語を何度聴いてもおもしろいのはなぜだろう。それは、落語の世界では、時間がとまっているからだ。殺伐とした話題ばかりが先行する今の世の中、核兵器も公害もテロもなかった「あの頃」の「あの連中」に会うために、皆は落語を聴くのだ。うまい噺家の手にかかれば、そういった架空の大阪が、目のまえにいきいきと蘇ってき、客は一時、世の中の憂さを忘れて、落語の世界の住人になることができるのである。

 これは落語を語っているようでいて、本書の目指す先を暗示しているように見える。先の引用部分と較べると変更は明らかだし、本書中盤以降の読むという体験がどういうものかをもっとも雄弁に語る自作解説にもなっている。つまりどういうことか。本書は再読に耐えるように書かれているのだ。ジャンル的にはネタバレ厳禁のミステリーなのに、読み次がれることじゃなく何度も読まれることが目指されているように、読めるのである。まるで古典落語みたいに。そして知っているネタでありながらも、もう一回読みたくなるのである、「あの連中」に会うために。
 笑えるとか、ほろりとさせられるとかってクリシェはどうしたってある種の陳腐さと結びついて、わざわざ読もうとは思えなくさせる。だから「平林」のオチで爆笑したけど、笑えるとは言わないし、「子は鎹」は泣けたけれどもほろりとさせられるとは言わない。
 だから薦めるとしたら、「いいもん読んだと思えるぞ」と言うんじゃないかと思う。うん、俺はいいもん読んだんだ。

ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺 (笑酔亭梅寿謎解噺) (集英社文庫)
田中 啓文

4087460746
集英社 2006-08-18
売り上げランキング : 285298
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見る

asin:4087460746
by G-Tools

 ……で、これを読む前に転がしていた妄想は、一冊読み終わる頃にはすっかり廃棄されていましたとさ、めでたしめでたし。何気に「ああもう、なんでこんな面白いもんがすでにあるわけよ!」と地団太踏んでいたのはきみとぼくだけの秘密だよ!

追記:2010.11.17
 二冊目も読んだ。短編集なのに、一気に読んだ。個人的には珍しいことだ。謎解きの比重はやや落ちている印象。

ハナシにならん! 笑酔亭梅寿謎解噺 2 (笑酔亭梅寿謎解噺) (集英社文庫)
田中 啓文

4087462986
集英社 2008-05-20
売り上げランキング : 246988

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

追記2014/03/15
キンドル版が出ていた。確認時の価格は525円。
ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺 (集英社文庫)
田中啓文

B00IY2MEF0
集英社 2006-08-18
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools