『饗宴 ソクラテス最後の事件』

饗宴 ソクラテス最後の事件 (創元推理文庫)
柳 広司

4488463037
東京創元社 2007-01-30
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 親本は2001年、原書房より刊行。1891年にアリストテレス著「アテナイ人の国制」という書物の写本が含まれるパピルス文書群がエジプトで発見された。この時大英博物館が購入したものはそれだけではなく、他のパピルス文書の中に、「クリトン文書」が紛れ込んでいたと、語り手は話を始める。クリトンというのはギリシアの賢人ソクラテスが死刑にされる直前、脱走を勧めにやってくるソクラテスの友人である。*1
 クリトン文書の内容は、むろん殺人事件を扱っており、これまでシュリーマンダーウィンを探偵役に据えてきた作者が今回択んだ探偵は言うまでもなくソクラテス。クリトンの、ということはつまり作者の描くソクラテスは、

謎に満ちたこの世界に、ただ言葉(ロゴス)だけを携えて立ち向かう存在。

 であり、かつレスリングの達人でもある。そんな彼が解くことになる謎は本のあらすじ紹介を引用すればこんな具合。

ペロポネソス諸国との戦争をきっかけに、アテナイは衰微の暗雲に覆われつつあった。そんななか、奇妙な事件が連続して発生する。若き貴族が衆人環視下で不可解な死を遂げ、アクロポリスではばらばらに引きちぎられた異邦の青年の惨殺死体が発見されたのだ。すべては謎の<ピュタゴラス教団>の仕業なのか?

 多少ネタバレをすると、この事件を解決しようと乗り出すのはソクラテスだけではない。喜劇作家アリストパネスも独自の立場から事件を解こうと試みる。読みどころはふたりの探偵が辿り着く結論のぶつかり合いだ。これがなかなかに読ませるし、古代ギリシアを舞台にしながら、現代の世界への批評がしっかりと織り込まれている。これはここまでに読んだ著者の本とは一線を画しているように思われる。「黄金の灰(感想)」「贋作『坊っちゃん』殺人事件(感想)」「始まりの島(感想)」において現れたのは歴史の違う見方であった。本作において語り出されるのは、ソクラテスの死の原因であるが、その向こう、より普遍的な人間の業までもが、筆者の射程に入っている。上に述べた三作はどれも面白かったが、本作において、物語は面白いだけにとどまらない。*2
 さらに、この本の親本出版は2001年の10月で、執筆は確実に9.11の前であることを考えるとき、作者がミューズの尻尾を握りしめていたことさえ感じられて、魅力はいや増す。もしもあと一年執筆が遅ければ、石田衣良の「ブルー・タワー(感想)」のような「姿勢は評価できるけど……」的作品になりさがった可能性もあったはずだが、歴史を出し抜いたことで、偶然か必然か本書は見事に予言書としての側面さえ身につけることに成功していると言えば、話は大袈裟に過ぎるかも知れないが、自分は読書中、静かな熱狂とでもいえるような熱を感じることができた。「この世には探偵小説でしか語れない真実といふものがある」と言ったのは、「ミステリオペラ」の登場人物だったが、その言葉は本書にも十分当てはまると思う。
 改めて言うまでもなく、非常に面白く、かつ楽しめた。

*1:プラトンの書いた作品「クリトン」はこちらで読むことができるhttp://www.e-freetext.net/critoj.html。また訳本もこれだけ出ている

*2:正確に言えばこれまで取り上げたどの作品も普遍性を持つテーマを孕むのだけど、本書と較べると添え物以上になっていないように感じられるし、実際読んだときも「面白さ」の方が強かった。