『石川淳短篇小説選』

石川淳短篇小説選―石川淳コレクション (ちくま文庫)
石川 淳 菅野 昭正

石川淳短篇小説選
筑摩書房 2007-01
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 収録作品は「マルスの歌」「黄金伝説」「無尽燈」「焼跡のイエス」「かよい小町」「雪のイブ」「影ふたつ」「灰色のマント」「まぼろし車」「裸婦変相」「喜寿童女」「金鶏」「ゆう女始末」「鸚鵡石」「鏡の中」の16本。
 以下、印象に残った話を適当に。
「雪のイブ」:靴磨きもするパンパンとお酒を飲んで雪の中散歩しましたというだけの話。そこに原罪モチーフが被せられて、ちょっと寓話っぽくなってはいるものの、それよりも印象的なのは、一緒に風呂にはいることを妄想する描写。

小さい湯舟のふちに、あつい湯がふくれ上がって、ざあとあふれこぼれるけしきが、横溢した湯の量がふっと目さきに浮かんだ。そして、そのもうもうたる湯気の中に、湯気を充実させるようなぐあいに、はだかの女のゆたかな肉体しか見えなかった。

 湯気の温度まで感じられるような気がした。
 それと、主人公と女の掛け合いも堪らない。

「墨がついてるぞ。」
「どこに……嘗めてよ。」
「そっとしておけ。狐の化けそこない、靴磨きじつはO・Kの、尻尾が出ていておもしろい。」
「なにいってんのさ。あんたなんか、どう見たって、ただの書生ぽうじゃないか。」
「本業はヤミ屋だ。」
「うそつき。そんな大したしろものじゃないよ。」
「貧棒書生は仮のすがた、じつは……」
「じつは、なにさ。」
「曾我の五郎。」
「え。」
 それは相手には通じなかった。ことばのつぎ穂を、風がさらって行った。

 滑ったあとの薄ら寒い空気が的確に写されていて、笑える。
「影ふたつ」:寓話? 女房になった女が自由でやって来た女は秩序。写真は自由の起源。それを自ら破壊して崩壊が始まる。深読みへの誘惑に満ちた作品。
「灰色のマント」:同じく寓話。こちらの方が図式が分かりやすい。ある日曜日、平凡な肩書きの平凡な男が目を醒ましたところに、軍服にマントを羽織ったみすぼらしい男がやってきて、過去を忘れたかと詰る。男は主人公のドッペルゲンガー。戦争中に行った犯罪を責める声である。しかし軍服の男は追い払われ、主人公は妻と温泉に。そこで過去の話をしようとするが「そんなことは錯覚だ」と相手にされない。そのうち主人公も犯罪が錯覚だったような気がしてくる。良心の痛みは表面上、歴史を越えていかない。目の前にある現実が過去のリアルを失わせる。しかしそれは消えたわけではなく、ふとしたはずみに現在へ攻め入ってくる。といった構図が読み取れる。「影ふたつ」ともども興味深い。本作が書かれたのは昭和31年、世間では戦争の体験が風化しつつあったのかもしれない。少なくとも石川淳はそう感じて、それに違和感を覚えていたのだろう。
まぼろし車」:家出少女千世は道端で出会った男の豪華な車(舶来の赤く塗った美しい大きな車の運転手付きのやつ)に乗せられお持ち帰りされる。その男は千世の友人一枝ともデキている。三角関係に発展するかと思いきや一枝は千世に男を殺すことを持ちかける。そこに男の車が現れて運転手がふたりに乗ることを促す。乗ると男はラジオからすでに自分は死んでいると告げる。運転手はおそらくは死神。男はふたりを道連れにする気になれず、運転手に命じてふたりを降ろしてやるが、ふたりの身体はすでに老婆のそれとなっていた。
 主人公千世が上京した翌日の描写が良い。

さっそく外に出て行って、盛り場のあちこち、デパートなんぞをあるきめぐっているうちに、ざっと一雨ふって来て、それが過ぎたのちの巷のけしきは薔薇色の水蒸気にけむるかと見えた。このけしきの中になにごとかがおこるとすれば、すべて幸運な事件にほかならないだろう。実際に、買物のシュミーズの包が一つ、すべり落ちたというささやかな事件がおこった。小さい包のほうでさいわいであった。もし大きい包のほうが落ちたとすれば、中みのアルマイトの台所用品が舗道にがらんがちゃんと鳴りひびいて、せっかくの薔薇色の霞をやぶったにちがいない。そして、今喫茶店のテイブルの上には、千世の気がつかないうちに、薔薇色を黒に変えてしまうような蛍光灯の光がいつしかしのび寄っていた。

 スマートな場面転換だ。
「金鶏」:火の鳥モチーフで舞台は宋代の中国。見れば氷柱と化して殺される金鶏を主人公は捕らえてみたいと思い、隙間のない竹のカゴを作って、金鶏の住む竹やぶに向かう。無論、見るなのタブーの話なので見てしまう。片目だけで。結果、主人公は下半身が氷付けになってしまう。
 ここまではどうでもいい話だったのだが、そのあとが凄い。

 呂生は斧をとってわが手で腰から下を断った。そして、その切口のところに竹の棒をあてて上体に附けたした。竹の棒は上体からしぜんに生え出たのとまったくおなじ効果をもって、格好もみにくからず、そこに一本足ができあがった。竹の棒の一本足でも立つことはできる。また飛ぶこともできる。しかし、残念ながら、駿馬が駆けるようには速く飛ぶことができない。呂生は砕け散った目なし籠のきれはしをあつめて、これを綯いあわせて、一条の竹の縄を作った。この縄をもって縄跳びして行けば、一本足の飛ぶことすこぶる速く、駿馬をしりめにかけて、空行く蒼鷹をもあざ笑った。

 噴いた。石川淳は真面目な顔をして馬鹿話を書く人だと思うが、これはあまりに馬鹿すぎて、一読馬鹿話であることに気付けなかった。少しやり過ぎか。しかし読み直すと味がある。