マザー・テレサの苦闘

 マザー・テレサ関連本がもうすぐ出るのと連動して、TIMEが内容紹介をしていたのはひょっとすると先週のことなのかもしれないが、ようやくと記事を読むことが出来たのでメモ。
 もう死んで十年になるので、知らない人がいるかもしれないから、ひとまずウィキペディアへリンクしておくことにする。

マザー・テレサ(Mother Teresa, 本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(Agnesë Gonxhe Bojaxhiu、花のつぼみの意)、1910年8月27日 - 1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者

マザーというのは指導的な修道女への敬称であり、テレサというのは修道名である。カトリック教会の福者コルカタカルカッタ)で始まったマザー・テレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され、1973年テンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5

 記事に拠れば、マザー・テレサはインドでの活動を始めたまさにその頃から、神の存在を感じられないことに苦しまされていたのだとか。

 沈黙と空虚はあまりにも重く、視ようとしても見えず、――聴こうしても聞こえず、舌は[祈りに]動くけれど、声は出ません……どうか私のために祈ってください――わたしが神を御心のままにさせておけるようにと。

 ノーベル賞受賞の頃の手紙には上のようなことが書かれていたらしい*1。これは決してその頃だけのことではなくて、先にも書いたように、インドでの活動の最初からつきまとっていた悩みだったようだ。1953年の手紙からは以下の部分が引用されている。

私の中には、ぞっとするような闇があって、まるですべてが死んでいるようです。それはは多かれ少なかれ、私が「仕事」を始めてからずっとこのような状態なのです。

教えてください、神父様、なぜ私の魂にはこんなにもたくさんの苦痛と闇があるのですか?

 次から次へと出てくるこれらの言葉を見ていると、聖者なんてこの世にはいないんだなあという気がしてくるが、それ以上に衝撃を覚えるのは、にもかかわらずマザー・テレサがなしとげたことの大きさだ。
 求めるものが与えられず、それでも進み続ける半世紀、あるいは不信を抱えながら、信じることを止めない半世紀。それはどんだけ長いのかと。あるいはこれは俗に言われる聖者以上に、般ピーからは遠い人生かもしれないし、もしかすると人間の我慢に対するとてつもない可能性を示しているのかもしれない。
 何がそれを支えたのかと考えると、やはり本人が言っているとおりなんだろう。

神は我々が送るほほえみの中に、そして我々が受け取るほほえみの中にいらっしゃいます。

 笑顔が人にどれだけの力を与えるか、あるいは笑顔から人がどれだけの力を受け取ることが出来るのか、マザー・テレサが証明するのは、神ではなく、人の力なのかもしれない。完全無欠な狂信者ではなくて、悩み挫けそうになりながら、なんとか世界をよくしようとあがき続けた彼女の生き方は、絶望しかけている人への処方箋とも、絶望しかけている人の周りにいる人への処方箋にもなり得るだろう。
 こと現状が芳しくなくて、かつ全部を投げるという対応をしたくない人なら、テレサの生き方は参考になるのではないだろうか。不信や虚しさは、何も神に対してだけ抱くものでもあるまいし。ノー・リアクションも神だけの行為ではない。思うにマザー・テレサの偉大さは神を感じられないという絶望に対して、希望のチャンネルを増やせたというところにあるのだろう。そしてそれを行うのに宗教心は必ずしも絶対条件ではない。
関連書籍:Mother Teresa: Come Be My Light
Mother Teresa Brian Kolodiejchuk

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*1:訳は適当な俺訳なので、間違っているかもしれない。以下引用文はすべて同じ。