某所のコメント欄にて「やりたいのはキャッチボールであって、ドッジボールではない」という言葉が書かれていた。お、上手いこと言うねと感心して、そもそもこの比喩はどこから出てきたんだろうとググって見た。
そしたらこんな記事に辿り着いた。
・「キャッチボール」と「ドッジボール」・・・
さて、時間があるとTVを見てしまうばかり・・・。普段見ていない分取り返してしまう勢いです。フジTVの再放送「結婚できない男」をだらだらと見てしまいました。
最終回の最後に近いシーンでなるほどと思うフレーズが。
夏川結衣さん演じる女医さん「あなたとキャッチボールしてみたいんです。あなたとはいつもドッジボールをしているみたい。相手にぶつけて終わり」
http://blogs.yahoo.co.jp/isaofactory/43436258.html
阿部寛さん演じる桑野さん「うまいこと言いますね」
女医さん「もうあなたにボールは投げました」・・・以下(略)
ウィキペディアの記事によると2006年7月4日から9月19日まで放映だったそう。脚本は尾崎将也(ウィキペディア)。良いフレーズ作るなあ。と、感心していたら、最終回よりも早い段階でキャッチボール:ドッジボールの対比をしているブログを見つけた。
・]「会話はキャッチボール」は空気嫁
さらにあちこち見ていたら、2006年どころか2004年には言われていたことが分かった。
・言葉のドッジボール(2004年2月22日)
「言葉のキャッチボール」の言い違いの一つに「言葉のドッジボール」があるらしい。そのことを知った時には思わず笑ってしまった。実際に「言葉のキャッチボール」ではなく「言葉のドッジボール」をしているように見えることがあるからである。
この段階で「言葉のドッジボール」なるフレーズはすでにあるものとしてみなされている。どうやらドラマがオリジナルではなくて、その前からなんとなく使われている言葉であるようだ。
ということで、さらにあちこち覗いていると、天機星の日々のつぶやき2001年12月7日に、
「○○さん(私)との会話って、『言葉のキャッチボール』じゃなくて『言葉のドッジボール』って感じがするんですよね」
わたくしはこの言葉を「お互い言葉のぶつけ合い」と解釈したのですが、発言者氏の真意は「こっちが投げた言葉ボールをひらりかわして別のボールを投げてくる」の意らしいです。なるほどこいつはうまい!
という記述があった。この時期はまだフレーズとして定着してるわけじゃないようなイメージか。GOLDEN SHINEには、それよりすこしだけ前の2001年8月13日付でこんな記事が載っていた。
昨日の新聞に載っていた広告にこんな文字を発見した。
「言葉のドッジボール」
唖然・・・それを言うなら「言葉のキャッチボール」やろが。
dodgeと言う単語には「素早く身をかわす」「避ける」などの意味があります。
相手の言葉、避けてどないすんねん・・・何か身の毛もよだつような脱力感に襲われたので今日はここでお終い。
DIARY
どうやら8月12日にどこかの新聞に「言葉のドッジボール」というフレーズを含む広告が載っていたらしい。そしでドッジが「素早く身をかわす」という意味であることを知る。
さらに以前、2000年発行の「人に好かれる人になる101の心理法則」の紹介ページに、
コミュニケーションとは、どんなものなのでしょうか?
どんなイメージをお持ちですか?
「人と話をすること」「心を通じ合わせること」など、いろいろ考えられます。
「言葉のキャッチボール」と考える人も多いかもしれません。
でも時として「言葉のドッチボール」をやってはいないでしょうか?
ほぼ同時期(2000/05/25 18:03)のhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/kenji/log/0251-0300.htmでは、
ビックリしました週刊文春。とうとう、この言葉のキャッチボールならぬ言葉のドッジボールというべき掲示板が役に立った、と言えるでしょう(とにかく原稿はできたのですから)。あのときのやりとりは確かに興味深いもので、会長の非常に気の利いたお答えを見て、「ユーモア・エッセイを書けば爆発的に売れるのではないか」と誤解したものです。
ÅÚ²°¸Æó¤Ë´Ø¤¹¤ë²¿¤Ç¤â¤«¤ó¤Ç¤â
このあたりが"ことばのドッジボール"の検索結果で目に止まった最古の例だった。1999年以前の記録は拾えなかった(見落としたのかも)が、とりあえず、使用されているという意味では10年くらいは経った言葉であるらしい。
ところでいっぱいこの「言葉のドッジボール」を見ていると、ほぼすべてが「ドッジボールは良くない、キャッチボールをしよう」というメッセージになっている。言いたいことは分かるが、なんだかドッジボールが可愛そうだった。
悪いのはドッジボールなんではなくて「今からドッジボールすっからな、ブン」と、ボールを投げてくる奴なわけで、ドッジボールをしましょうという共通了解があるところでなら、ドッジボールが行われるのは構わないだろう。ドッジボールルールの採用自体が駄目という風に見える主張もあったが、それはキャッチボールファシズムとでも言うものではなかろうか。逆に「説明責任」みたいなものいいで粘着するのも、「言葉のドッジボール」と言えるのかどうかちょっと疑問。