トルーマン・カポーティ佐々田雅子訳『冷血』

『なんだって泣き続けてるんだよ? 誰もあんたをいたぶったりしてねえのに』

 超有名作品。「The Suspicions of MR Whicher(感想)」を読んでいるときにふと、「そういえばこれと冷血は似てるのかなあ」と思い、手を出してみた。
 原書の発表は1965年。解説によれば資料収集に3年。その整理に3年近くかけたそうだ。題材になっているのは、1959年カンザス州の片田舎ホルカム村で起きた一家4人惨殺事件。地元名士のクラッター一家がある晩、全員ロープで縛られた挙げ句、散弾銃によって射殺された。静かな村はパニックに落ちる。これはロードヒル・ハウス事件と同じ展開。ただロードヒル・ハウス事件では被害者の家は地元の名士であったが人望がなかったのに対して、クラッター家は地元でも評判高い道徳家一家で、奥さんが神経を患っていたのも快方に向かっている途中の惨劇には、みなが戦いた。怨恨の線はほぼ考えられない。しかしクラッター家が現金を使わないことは地元では有名な話で、強盗の線も薄い。いったい誰が何の目的で? 不安は村中に広まる。本作はその様子を冷静な筆致で追いかける。
 「The Suspicions〜」が、社会の変遷や刑事という職業への眼差しの変化を盛り込みつつ、事件を見ていき、採用した推理小説的語り口の縛りから、犯人に焦点を当てる量が少なかったのに対して、こちらは犯人は誰かというのが随分早い段階から明らかになる。犯行を行ったのはディックとペリーというふたり組。このふたりの行き当たりばったりな行動の全貌が中盤までに明らかになっていく。
 タイトルになってる「冷血」という言葉が伊達じゃないなと思ったのは、ふたりが逮捕され、自白が始まったあとの場面。冒頭に引用したのは、犯人の片割れディックがクラッター夫人に言った言葉。クラッター夫人はちょっと精神のバランスを崩している人で、事件のすこし前になってようやく、多少良くなってきたとクラッター氏が安堵しているような状態。
 そこに散弾銃を持って夜中に押し入ったペリーとディックが奥さんを縛り上げる。そのとき、なすすべもなく泣いているクラッター夫人にディックが言ったのが、この言葉だ。「泣くな!」という以上にこの言葉が言われた方にもたらす絶望感は深いだろう。だってこのフレーズは「今が泣くのに相応しい状況であるとは認めない。この場に問題などないのだ」と発言者が考えているというメッセージだからだ。これ以上に懐柔や反論を許さない言葉はない。惨劇の描写よりも、このフレーズに底冷えする寒さを覚えた。
 もう一カ所ぞっとした部分を引用する。

『あいつらを生かしといたら簡単には済まないぞ。少なくとも、十年はくらいこむ』あいつはそれでも黙ってました。まだナイフを持ったままで。おれがそれをくれというと、素直によこしました。で、おれはいったんです。『よし、ディック。やるぞ』だけど、本気じゃなかったんです。あいつにやれるもんならやってみろと迫って、徹底的に突きつめて、自分が偽者で臆病者だってことを認めさせようってつもりだったんです。そう、あれはおれとディックの間の問題だったんです。

 これはペリーの言葉。クラッター家に押し入ったあと、読みと違う状況が出てきて、ディックとペリーのあいだに葛藤が生まれる。ペリーはクラッター氏を縛り上げたあと、なるべく楽な姿勢を取れるようにしたり、娘のナンシーに襲いかかろうとするディックを止めたりと、人間的に優しいとされる行動を取る。しかし上のような台詞でディックをたきつけて、結局の所惨劇を巻き起こす。
 読んでいて本当に憂鬱になったのは、四人が殺された理由が金ですらなかったところだ。ふたりが犯罪を止められなかったのは、互いに対する体面をかけたチキン・レースから降りられなかった、ただそれだけに見える。それがふたりには最優先事項で、そのチキンレースに負けないことに比べると、あとはどうでも良かったように見える。被害者の命も、犯行の結果に関しても。バレたらお終いであることは、ふたりとも分かっている(少なくとも意識の上では分かっているつもりで、ただそのリスクに対する評価が極端に低いのだ)にもかかわらず、止まらなかったところに、何か普遍性のようなものが感じられた。
 身の回りのグループ内におけるチキンレースは、殺人という形でなくても、多かれ少なかれ毎日の暮らしで我々が行っていることでもある。そういう意味でこの犯人ふたりは人間世界の何かをシンボライズするものなのかもしれない。
 
冷血 (新潮文庫)
Truman Capote 佐々田 雅子

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