チェーホフ 牧原純・福田善之 共訳『結婚、結婚、結婚!』

結婚、結婚、結婚!―熊・結婚申込・結婚披露宴 (ロシア名作ライブラリー)
アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ 牧原 純

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群像社 2006-11
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 1幕戯曲選とあって収録作は「熊」「結婚申込」「結婚披露宴」の3本。
 チェーホフって、「地味であんま筋とかなくて淡々と進むなかに人生の断面がどうちゃらこうちゃら」っていう勝手なイメージがあって、一度も読んだことがなかった。ところが先日、ツイッターで本書に収録されている「結婚申込」が全編熊本弁で訳されているという話が流れてきて、にわかに取り敢えず読んでみたいと思い、手に取った。目次はこんな感じだった。

・熊 未亡人の決闘
・結婚申込
・結婚披露宴
・方言訳「結婚申込」について
・解説

「方言訳『結婚申込』について」の項目が輝いていたので、まずそっから読んだ。

 田舎の地主同士が意地の張り合いをする小喜劇『結婚申込』は、普通に標準語で訳してもぴったり来ない。かつて伊賀山昌三の東北弁による『結婚申込』があり、これがなかなかの名作だった。(略)
 本書の翻訳では、人物も状況もチェーホフのテキストを忠実に翻訳して、なおかつ、それを九州の方言で表現する試みに挑んだ。気の強い、しっかり者の娘ナターリヤの性格は東北地方よりも、九州の例えば熊本あたりのほうが相応しく思えるし、筆者の母が長崎の五島列島の漁村で生まれ育ったので、断片的ながら独特でユーモラスな五島コトバが頭の中に刻まれてもいた。
(略)
 現在、現実には死滅に向かいつつある方言の活性化にもなりうるような〈舞台言語の創出〉をわれわれは目指した、といえば大仰に過ぎるだろうか。久しぶりに意欲を燃やして集中的に作業をかさねたコラボレーションだった。

 というようなことが書いてあって、わかったようなわからなかったような気分のまま、「熊」から読み始めた。夫を亡くし、死ぬまで喪に服すと言って引きこもっている奥さまのところに借金取りがやって来て亭主の借金を返せと迫る。彼は彼で明日に迫った支払いがあるのだが、奥さま、

夫(たく)のニコライがあなたに借財があるのでしたら、それはもちろんわたしがご返済いたします。でも、ほんとうに生憎(あいにく)ですけど、今日はわたくし手もちがございませんの。明後日には支配人が町からもどりますので、しかるべくお支払いするように申し伝えますが、今日のところはご要望にそいかねますわ……それに今日は夫が亡くなってからちょうど七カ月目にあたりますので、わたくしのいまの気持ちといたしましては、お金のことなどにはいっさいかかずらいたくございませんの。

 とか言っちゃって、借金取りも自分の破産がかかってるから引くわけにも行かず延々続く押し問答。とうとうふたりは「決闘だ!」といきり立つ。奥さまが決闘って新しいな、おい。
 で、一本読んで暖まったところで、いよいよ「結婚申込」に入った。

チュブコーフ(出迎えながら)こらまた、久しかねえ! イワンの兄(あに)しゃん! ようおいでました!(手を握る)ほんなこつ思いがけなか……どげんですかいな、ここんところ?
ローモフ おかげばもちまして。お宅さまは、みなさん、お変わりのなかですか?
チュブコーフ まずまず――そこそこ、てなこつですばい。ま、こっちゃへどうぞ……ばってなんですたいね、お隣にいっちょン顔見せなはらんとは、そらなかよ。ばって……兄しゃん、今日はまたえろう改まっとんなはるばって……フロックに白手袋に、てなこって。どけェお出かけなはっとかね?

 やばい、なんか読むの楽しいぞ。
 で、ローモフはチュブコーフに娘さんをくださいとやり、チュブコーフにも否やはなく喜び勇んで娘のナターリヤを呼びに行く。呼ばれてやって来たのが、訳者曰く熊本弁が相応しい女ナターリヤ。

ナターリヤ(はいってくる)あんれまあ、ああたですの! パパったら、仲買人が来とるけん、ちいと顔ば出して来(け)ェ、て……久しかぶりでござります、イワンの兄さん!
ローモフ 久しかぶりでござりました、ナターリヤさん!
ナターリヤ かんにんしてはいよ、うちゃ前掛けで、こげな格好のまま……いまうちら、えんどう豆ば洗うて干そうとしちょりましたばい。ずいぶんとお顔ばお見せなはらんでしたね? 掛けなはらんとですか……(両人すわる)お昼食(ひる)ばめしあがる?
ローモフ いンね、おかまいなく、もう済んましたけん。
ナターリヤ ならお煙草……マッチここ……よかお天気ですたいね、ばってん昨日はひどか雨の降りましたばい。作男たちがまる一日なんもしよらんだったでしょ。お宅じゃ幾山、刈入ればすましましたと? うちゃ、精ば出して牧草の刈入ればすっかり終えましたばってん、どげんでしょう、いまんなったら、干草の全部わやくちゃになってしまやせんかと、気がもめて、まちっと様子ば見とったらよかったとに……あら、どげんしたの? それ、フロックのごたる! 珍しかね!

 なんか、昔京都で『踊る大捜査線』の映画を見たときに、うしろのカップルが京都弁でじゃれあっていたのを思い出した。そして、おめかししてることに気づいてもらったローモフ、いよいよ興奮しすぎて体調に不安を覚えたりしつつ、話を切り出そうとするのだけど、「手短に言いますたい」と始めたのに、単刀直入には言えず、亡くなった伯母夫婦(から、ローモフは土地を相続した)がナターリヤの両親を尊敬していたとか、両家は親戚も同様だとか、そんな話をするうちに、なんと雲行きが怪しくなってくる。

ローモフ(略)ご承知のとおり、ぼくの土地とお宅の土地とはぴったんこ隣あわせ。ちいと思いだしてもろうてん、うちの雄牛原(おうしがはら)はお宅の白樺林と境ば接しておりますたい。
ナターリヤ お話ちゅうすまんばって、いま〈うちの雄牛原〉と言いなはったですか……あそこがお宅の土地ですの?
ローモフ ぼくんとこですばい……
ナターリヤ まあ、きつか冗談! 雄牛原はうちの土地ばい、お宅ンじゃなかですよ!

 このあと、雄牛原がどちらの土地かを巡って、角突き合わす大げんかが起こり、結婚どころではなくなり、ローモフ怒って帰っていくが、その直後、彼が結婚を申込に来たと知ったナターリヤが呼び戻させ、甘ーい会話が始まるかと思いきや、今度は両者が飼っている犬のどちらが優れているかなんて張り合いが始まり、途中でローモフが意識を失ったりして大騒ぎに。もちろん全部熊本弁。すごい躍動感。ええと、熊本弁がベストなのかどうかはわからないけれども、訳者が標準語で訳してもぴったり来ないと言ったのには、それなりに理由があったなとは思った。ついでに、三作読んで、チェーホフのイメージが確実に変わったけれど、きっかけは「熊本弁で訳している」という情報だったので、フックとしては熊本弁の採用は効果があった(少なくともおれには)。

 今日段階アマゾンは品切れ(おれが買ったからだ)なんだけど(その後確認したら入荷してた)、800円というリーズナブルな価格設定(これ、ソフトカバーだけど単行本ですよ)だし、長く読み継がれてほしいものです。いやあ、いい本を読んだわ。すっごい楽しかった。
結婚、結婚、結婚!―熊・結婚申込・結婚披露宴 (ロシア名作ライブラリー)
アントン・パーヴロヴィチ チェーホフ 牧原 純

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