渡辺実『平安朝文章史』


 だいぶ前に読了。著者は京大名誉教授。この本は半ば以上、著者の見た夢想によって成り立っている。別に悪い意味ではない。というか、非常に面白かった。こんな風に始まる。

日本語が漢字に出会ったことの意味は大きかった。それは、今まで書き留めることのできなかった日本語が、これで書き留めうるようになった、という理由からではない。むしろ逆に、いくら漢字を用いても、ついに日本語を書き留めることはできない、という自覚がそこに生まれたにちがいない、と思われるからである。

 外国語である中国を用いることの限界が、日本語を乗せるための文字を欲求した。これに応えた最初の形式は言うまでもなく万葉仮名である。漢字の音だけを借りてくることによって、日本語自体を記述することが可能になった。しかし、例えば古事記などは万葉仮名だけで書かれてはいない。それは漢字漢文の記述と比較して、当時の日本語の話し言葉が冗漫に過ぎたからである。であるならば、万葉仮名によって日本語を記述できるようになったあと、なされなければならなかったのは話し言葉を洗練させた書記言語の創出だったはずだ。
 著者はこの書記言語の洗練と完成、そして衰退というテーマで平安朝の文学史を、いや文章史を書き記す。そこに立ち現れるのは幻想の興亡史とでも呼びうる不思議な物語だ。平安時代文学史の上で中古と分類される。が、その時代に記された文芸批評的な文章はほとんどが歌論だ。著者の考える歴史意識で当時の人々が文章を捉えていたとは簡単には頷けない。
 しかし、ここで語られる物語は実に魅力に富んでいる。それは著者の深い学識がここの文章を分析するに当たって的確な批評を行っているからだ。
 例えば著者は、日本語の書記言語の出発として「竹取物語」の冒頭にあらわれる、

 今は昔、竹取の翁というものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、讃岐の造となむいひける。その竹の中に、本光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、うつくしうて居たり。

という文章を取り上げて、強く漢文訓読体の影響を受けたものであると述べ、もしこれが典型的な日記文学の文章で書かれたならば、こうなるであろうと変換してみせる。こんな感じに。

むかし、讃岐の造とてありけり、野山に出でて竹を取りつつ、よろづのことに使ひければ、世には、竹取の翁とぞ言ひける。翁、ひと日竹伐らむとするに、本光る竹の一筋ありけるを、あやしみ寄りて見れば、筒の中光りとほりて、三寸ばかりなる人、いとうつくしうて居たり。

 こういう作業が、著者の見た幻想の物語を読者と共有させる力になっている。でかい嘘をつくなら、小さな本当で脇を固めなければならない、というのが、物語を作るときの常識であるが、評論であってもそれは同じことで、そうしたミクロの確実さが読者をしてマクロの大風呂敷をありうるものに見えさせる。
 もっとも、幻想幻想と繰り返しているからと言って、著者のコンセプトが間違っていると言いたいわけではない。むしろ逆である。政治史に大きく影響を受けて造られる文学史の時代区分はかなり胡散臭いものだ。例えば中古文学と呼ばれる時代区分は400年の幅を持っている。中世と呼ばれる時代区分も同じく400年近くある。今を基準にすれば江戸時代の初めに戻る(江戸幕府が開かれたのは1603年で、丁度400年前だ)だけの時間だ。無茶苦茶もいいところである。この区分の出鱈目さをぶち抜くだけの射程を設けようと思うなら、著者のように考えるのがもっとも有効なのでないかと、自分には思われる。
 この本は9割が地味な作業でできている。だがその9割が残りの一割、400年間に跨る書記言語の興亡という大河ロマンを現出させる力となっているのだ。読者としては、このような夢想を努力することなしに楽しめる幸福とそのために行われた著者の努力に感謝しなければならないだろう。

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渡辺 実

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