水村美苗 日本語が亡びるとき

 あっちやこっちで話題の書。

この本は今、すべての日本人が読むべき本だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生、高校生、大学生、大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107

弾言かつ断言する。

日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。

本書「日本語が亡びるとき」は、今世紀においてこれまで書かれた中で、最重要の一冊

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html

 というような取りあげられ方だったので乗ってみることにした。日本語でしかものを考えられないし、会話もできない人間的には、それが滅ぶのはもちろん困るし。
 読み終えてとっちらかったままの印象を適当に書き綴ると、本書の結論部分は正直凡庸。しかしながら、そこへ至る思考過程には一読の価値があるように思われた。
 著者はインターネットの普及により、英語が「普遍語」としてますます強くなっていくことのもたらす結果を「非英語圏の優秀な人材が英語しか発信しなくなる」未来として描く。その結果、受信言語としての英語の価値はますます上がり、各言語圏にいるであろう〈叡智を求める人〉は、自国語に見向きもしなくなる。こうして非-英語はまず有益な情報の送受信媒体としての地位から滑り落ち、日常会話専用の〈現地語〉になる。それと並行して教育も普遍語である英語で行われるようになれば、やがては英語優位のバイリンガルが増えていき、自国語は消滅していくだろう。
 雑な纏め方をすると、こんな未来図だったと思う。タイトルの似た本との違いは、「言葉の乱れ」をやり玉に挙げていないところ。そうではなくて、ネットの到来による英語高日本語安が進んでいけば、ほんとに日本語なくなっちゃうよという問題設定がなされている。そうそう滅ぶわけないよ、と思われるのはもとより承知で著者は主張しているわけだけれど、類書の「滅ぶ」が変質するの言い換え語であるのに対し、本書の滅ぶは本当に滅ぶ可能性を示している。この文脈ではすり切れてしまった単語「滅ぶ」が使われているのが残念だが、この危機感は直感的に考えるよりも深刻な事態だし、対策を立てなければ思った以上に早くその事態が出現する可能性はある、ように思われる。ただし何世代か先において。そういうスパンでの危機感を著者は持っているように思われる。

 で、不思議でならなかったのは、上記引用サイトの方々が読め読めいう理由。いまいちピンとこない。日本語が滅んだら、どのようなマイナスがあると思っているんだろう。404 Blog Not Foundの該当エントリーは熱の伝わってくる感じがあって、とても好きだけど、本書を引き合いに出す必要が、話の枕として以上にあったのだろうか。梅田望夫のエントリーも肩入れの根拠が見えない。たとえば日本語が滅ぶとして、そのときなんの言語も残されていないというわけではないはずだ。英語かもしれないし、英語と日本語が語彙的にも文法的にも混じり合ったキメラかもしれないが、そういうものはあるだろう。言葉が滅ぶというのは、別の言葉がとって替わるということに他ならないはずだ。

 で、水村が言うように日本語から「書き言葉としての輝き」が失われたとき、一般人はどんなことで困るのかといえば、ほとんど困ることはない気がする。細々したあれこれを掬い取るのは新しい言語がしてくれるだろうし。
 そういう意味において、本書の危機意識はたぶんみんなが共有するようなものではない。ただ何か書くのに日本語しか使えず、かつ文章表現をしたい人間には共有されていいように思う。なぜって、日本語しか書けない人間にとって、著者の言う未来が実現した場合、読んでくれる人がいなくなってしまうからだ。ネットに文章をあげたところで、具体例としてはこの文だけど、これは英語で検索した人の眼には、なんらかの文字化けでもない限り触れることさえないわけだから、日本語が滅ぶというのは、これから未来の世代にある危機なのではなくて、俺たち英語を習得できていない人間に訪れつつある危機なのだ。
 そして、日本語で小説を書くことを選択した作家にとっては、みんなが日本語を読まない世界に対する恐怖はやはりリアルなんだろう。「結局自分の好きな近代文学が読まれなくなっちゃう、ヤバイ」とまとめていたサイトもあったけど、著者にとっては確かにヤバイんだって、それは。揶揄するような話じゃなしに。だって日本語が滅んだら、読者もいなくなっちゃうんだから。
 紹介ルートとタイトルのせいでわかりにくくなっているけど、著者が護らなければと言っているのは、日本語というよりは「日本語」と表記した方が良い日本語のサブジャンルとそれを読み解ける文化のことだ。だから著者は日本の国語教育に噛みついている。

国語教育の理想をすべての国民が書けるところに設定したということ、――それは、逆にいえば、国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるところに設定しなかったということである。ところが、文化とは〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。〈読まれるべき言葉〉がどのような言葉であるかは時代によって異なるであろうが、それにもかかわらず、どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉がある。そして、それを読みつぐのが文化なのである。
 ゆえに、〈読まれるべき言葉〉を読みつぐのを教えないことが、究極的には、文化の否定というイデオロギーにつながるのである。
(太字は原文傍点)

 たぶんこれだけが、どうしても言わなきゃいけなかったことなんじゃないかという風に俺は感じた。これは作家にとっては大切なことだし、文化というものが実はとんでもなく軟弱であるという視点の導入は良い論点だと思う。そしてこの前提から導き出される処方箋が「日本近代文学を読み継がせる」になるのは、必然だろう。すくなくとも声に出して読みたい日本語とか、美しい日本語みたいな気持ち悪さ、浅ましさ(勝手に感じてるだけです、あしからず)は本書の結論部分には感じなかった。ただ結局それなのかという脱力はあったけれど。著者の立場からの処方箋は当然そうなるのはわかるんだけど、手に取るのに影響した風呂敷がでかすぎたからか、なんかね。
 amazonの売り上げランキング1位ってのは、いくらなんでもおかしいけれど、非-英語言語に突きつけられた危機を日本語を具体例に論じた本として読むなら、一読の価値はあるんじゃないかと思う。個人的には鼻につくなあというところも多々あったけど、面白いところも同じくらいあった。
 極端な高評価に対しては眉に唾しておけば、言葉や文化もしくはその絡まり方なんかについて考えるきっかけを与えてくれる本だと思う。 

追記:もしかすると本書の独自性は、一部の人がとっくに知っていた「英語の普遍語化による非-英語の価値低下」という話を、美しい日本語が言葉の乱れによって亡びようとしているなんて与太を飛ばす人々に届く話題にしたというところなのかもしれないなあ、と一日経って思った。要するにこの本は変質することを騒いだり憂いたりしてみせて悦に入っている人々に、それどころじゃねえんだよ! もっとマジに対応策考えようよ! と叫ぶ本なんだろう。上にも書いたように一般に広く訴えるようなものではない(というのは第一章の終わりで著者も言っているんだけど、取りあげられ方が思いもかけない方からだったので、妙な誤配が起きているように思う)。けれども、ごく一部の人にとっては真剣に考えるに値する視点を提供しているんじゃないかと思う。つまり、英語が普遍語になっている時代において、非-英語で書かれたテクストの翻訳不能な部分を流通させ続けるにはどうしたらいいのか、とか、なぜ表現言語として英語を選ばないのか、あるいは非-英語でなければ掬い取れないものが本当にあるのかと言ったことを考えずにはいられないような人には。
 すくなくともそこにある切実さは「今年の新人賞は不作だった」から軒並みコメントを始め、しかも大人の事情で賞を与えてしまう審査員なんかよりも誠実なものだと思う。すくなくとも本書において水村は、文学言語としての日本語が滅ぶことを真剣に憂いている。
 水村の間違いは対策として「いまからでも遅くない。時計の針を戻せ!」という類書の主張を繰り返してしまったところだ。無論それは彼女の理想郷が現代日本の言語空間にはないからという事情もかかわってくるんだろうし、内側に宿った切迫感を一刻も早く軽くしたかったという事情もあったとは思うけど。

 その一方で、「水村の主張はそれこそ文化の破壊だ。そんな時間があるなら他の科目の時間を増やせ」という主張も見かけたが、これは水村の主張以上の暴論(というか論なのか?)だ。別に古典に親しむ時間を作れとは思わないし、水村の上げる素晴らしい日本語の書き手のリストに同意しようとも思わない。が、国語にかける時間をもっと増やすべきだという論を否定する人は、正直なところ、忙しすぎるのか頭が良すぎるのかはわからないけれど、初等教育がどうなされるのかを忘れているのではないかと思われる。現代の日本人の子供が、なんらかの知識を学ぼうと思ったら、それも学校で学ぼうと思ったら、知識の伝達は日本語を通してしか行えない。一般の学校において、国語以外の科目は国語の運用能力を前提に作られている。つまり現状の学習カリキュラムは、日本語という通路からしか情報が入ってこないようにできている。それを減らして他の科目に時間を振り分けたところで、学ぶ側のメリットはほとんどない気がする。細かい助動詞の活用や文学史の暗記とか、そんなレベルの話ではなくて、小学校卒業までの目標が「そして」と「しかし」の区別がつくようになることとという現状では、一番必要なのは国語の割り振り時間の増加だろう。
 水村の言うような日本語について「滅ぶなら滅ぶが良い」というのは、価値観の問題だが、「国語なんて増やしている場合か」というのは、素面とは思えなかった。もしかしたら素面でなんかいられないくらい忙しい人が発言してるのかもしれないが。

 って、結局どっちつかずなことしか言ってないのは、自分が日本の外に立ったことがないからなんだろう。物差しが一本しかないから、この日本語とその文化というのが、他と比べてどんな長所を持ち、どんな短所をもつのか把握できていないという気分が自分にはある。英語ができれば色々な情報にアクセスできて便利というのは頷くしかない一方で、そのとき放棄される日本語アーカイブというのが、どれくらいの価値を持っているのかはよくわからない。だから水村の結論部分に首を傾げてしまう。学ぶに足る価値があるのか、あるいは護るに足る価値があるのか、それと。未来において、無理矢理英語を押しつけられるわけではなくて、英語優位の趨勢に対応して日本語使用者が消えていくというなら、そしてそれがほんの百年ほどあとであってくれるなら、もしかすると構わないのではないかという気もしている。
 なぜその趨勢にノーを唱える必要があるのか。気分以外に母国語を護らなくてはならない根拠はなんなのか。たとえば俺がこんなことを日本語で書いているのは、英語ができないということ以外に積極的に日本語を選ぶ理由があるのか。
 この本は類書のように現状が気に入らないという地平にとどまらず、未来を見ている。水村の願いは英語の世界支配が強まり、非-英語話者は現在よりもさらなる不利を抱えた状況に陥る世界において、我々の子孫に、その不利を甘んじて受けろ、それでも日本語と日本文化を護れということだ。基本的に人間社会は多数派・強者に便利なようにできているなかで、情報弱者・言語マイノリティにとどまれというからには、それによるメリットが、世界の多様性なんていう全体への奉仕とは別に、なければ説得力を持ち得ない。それはいったいなんなのか。それをきっちり検討してからでないと、この本への立ち位置は決めかねるのだと思う。
 なんとも因果な本を読んだものだという気が段々強くなってきた。面倒な荷物を背負わされた気分だ。別に頼まれたわけではないけれど。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗

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筑摩書房 2008-11-05
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