東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」

「メタリアル・フィクションの誕生」(2003〜2004)を四回まで読んだ。せっかくだから思いつきを書き留めておこう。
 と言ってもゲームやらんしラノベ読まんし、マンガもよー知らないので、明後日なことしか考えつかないんだけど。
 まず第一にこの論を杜撰だと詰るのは、それぞれのジャンルに詳しい人なら容易であるらしい*1のだが、詰っても無益だろう。この評論は未来への投機として書かれているからだ。正確性より創造性をメインに綴られているように思われる。それは東自身が、第一回で

批評は、新しい解釈の枠組みを投入し、人々の想像力を喚起し、好ましい未来が実現する可能性を少しだけ高めることができる。

 と言っていることからも明らかだ。で、「Ever17」が面白そうだ、誰か貸してくれって話はどうでもよくて、とりあえず四回分読み終えたとき考えたのは、論が著者の意図を裏切ってるんじゃないかということだった。別のところで東は「文学の革命」を夢見ていたと書き、さらに「ファウスト」で革命を夢見ているとも書いている。これを鵜呑みにするなら「メタリアル・フィクションの誕生」は、革命宣言書みたいなものと位置づけられたいのではないかと思う。少なくともぼくはそう読んだのだが、ではこの論はそういう働きをするのかというと、全然しないだろうと思う。言葉と扱われる問いが、「文学の側」*2からもたらされたものである以上、この論法でいくら「ラノベ的なもの」を意味づけても、それは文学カテゴリーの延長にしかならない。それでは全然革命にならないじゃないか。革命を唱えるならライトノベルを文学に組み込むという戦略は有効でないと思う。むしろそういう意味づけに抗うような評価基準の提出が必要だったんじゃないだろうか。欲を言えば独自の価値基準とその文学の側への適用。それが達成されて初めて革命の名に値するのではないかと思う。
 読んでない、やってない、見てないの三重苦なので、どんな基準なのかは想像もできないんだけど。
 ところでこの評論を読んでいて、舞城王太郎って、逆平野敬一郎なのかもしれないとちょっと思った。ゲーム的なストーリーを純文学雑誌に送りつけてデビューした平野と純文学的な読みとり易さをたっぷり持ったエンターテインメント作家の舞城は、コインの裏表のように感じられる。
 たぶん落とし穴は出発点に大塚を選んだことだ。大塚と東は扱うものは近いけど、それを扱うことで何を目論むかという方向性に大きな隔たりがある。そこを無視して論が始まったために、東の論は東の目論見を裏切っている。

*1:あちこちに文句を見かける。大抵は「知識が足りてないよ!」という文句に見える。

*2:ここでは東が言う主流文学という言葉を言い換えている。