澁澤龍彦 カマクラノ日々

 鎌倉文学館ウェブサイト)の企画展「澁澤龍彦 カマクラノ日々」を見てきた。文学館のスペースの制約もあって、物量的な面では物足りなかったが、澁澤の生原稿が見れたのは良かった。俺は一時期、澁澤のエッセイにハマって気がついたら十数冊は読んでいたのだが、内容はほとんど憶えておらず、その魅力は気障ったらしさを前面に出した文体にあって、「読者にこびを売るつもりなんかないから」というポーズがたまらないと思っていたのだが、生原稿を見てみると、それはあくまでもポーズだったようだ。
 どのページも推敲のあとがきっちり残っていたが、そのほとんどすべてが削ることよりも増やすことに費やされていて、文字の増える理由が「もっと分かりやすく、詳しく説明する」であるのが見て取れた。つまり、あれでも敷居を低くしようと一生懸命だったということである。
 にもかかわらず、そんなそぶりを見せない完成稿に仕上げていたのはスタイリストの美学を持っていたからなのだろう。サービス精神と美学の葛藤を水面下で行いつつ、水上の姿は優雅でキザでそんな苦労をおくびにも出さず、何十冊もの本を書き飛ばしているような顔をして出版し続ける。
 今となっては澁澤もさっぱり読まなくなったけど、そういう姿勢を貫いたのはとても格好いいと思った。それと同時に生原稿を見てしまったことに対しては多少の罪悪感を感じた。たぶん澁澤にとってこれは人目にさらして良いものではなかったはずだ。

 それとは別に、いくつか印象に残ったこと。
1.澁澤家では捨てウサギを拾って飼っていたらしい。家の前に捨てられていた、何が、ウサギが。
2.妙なイラスト。本人が小説の主人公のイメージを伝えるために描いたと思われる人物のデフォルメ画も展示されていて、これが妙にヘタウマなかわいさで意外だった。
3.澁澤といえど、プライベートではだらしない言葉も使っていた。晩年、癌で声を失った澁澤は筆談でコミュニケーションを取っていたそうだが、その時の紙も展示されていた。月見うどんとか、うるせえなとか殴り書きされていて、相手は口で喋っていたため、流れのない短い文が縦横斜めに並んでいる不思議な紙切れになっていて、もちろんそこにはスタイルも糞もない日常言語が記されているわけだけども、なんというかステテコとランニングシャツ姿で髪がボサボサの田村正和を見てしまったような、居心地の悪い気分があった。

 全体にこの展示会、故人が隠したいことを片っ端から暴露するようなニュアンスが潜んでいるような気がした。まあそこが興味深かったし、面白くもあったところなんだけど。