井上ひさし『ブンとフン』

ブンとフン (新潮文庫)
井上 ひさし

4101168016
新潮社 2000
売り上げランキング : 55383
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見るrakuten:konno:1432478
by G-Tools
 井上ひさしの処女小説でもともとは朝日ソノラマのサン・ヤング・シリーズの一冊として出たものが、のちに新潮文庫に入ったようだ。あらすじは売れない小説家フン先生が書いた作品の主人公の四次元人、怪盗ブンが作品から抜け出して、世界を股にかけて大暴れってな感じだが、盗むものがあんパンのヘソだったり、シマウマの縞だったりと、馬鹿馬鹿しくも楽しいエピソードがマシンガンのように綴られる。
 基本的に、語呂合わせやら言葉遊びやらには感心するけれど、あまりそれだけで押されても興味が持続しない俺としてはどうしても、そういう場面の合間から顔を覗かせる、すこしテーマ臭いところに目がいってしまうので、本書でも一番感心したのは中盤のブンとフンのこんなやりとりだった。あ、ちなみにブンは何にでも化けられ、男でもあり女でもある設定なんだけど、引用しているところでは女になっている。

どうせ盗むなら、人間の一番大切なものを盗んでやろうと思ったんです。で、いろいろ盗みをするうちに、人間が一番大切にしているものがわかりましたの」
「ほう、そりゃなにかね」
「権威です。人を思いのままに動かすことのできる、あるもの。ある人にとっては八の字ヒゲ。ある人にとってはこれだけのことをしたという過去の栄光、お医者さんの白衣、勲章、菊のバッジ、文学賞……人はそういうものがすきなんです。そういうものをたくさん手にいれて、その威光で、人を思いのままに動かそうとしているのね。お金も出世もホコリも、努力もよい行いも、なにもかもみんな、権威、力をもつための手段にすぎないんです」
 フン先生は、ブンの話に耳を傾けながら、インスタントコーヒーをいれた。
「まあ、コーヒーでものみたまえ。でもねェ、ブン、もしそうだとしても、権威をもつことがなぜいかん?」
「人間の目がくもりますもの。権威をもつと、人は、愛や、やさしさや、正しいことがなにかを、忘れてしまうんです。そして、いったん、権威を手に入れてしまうと、それを守るために、どんなハレンチなことでも平気でやってしまうのだわ」

 このあとフン先生は再反論を試みるが、ブンはフン先生も他の人間と同じだと言って、先生の記憶を盗む。
 ここは比較的、真面目っぽい会話をしているが、基本的にはナンセンスというか、基本的に笑わせに来ている話で、ブンが起こす事件の中には大富豪のオナシスが出て来たりコント55号が出て来たり、大鵬高見山も出て来たりと、読者サービスもたっぷりだが、とりあげるトピック自体がいまとなると、時代を感じて、ギャグよりもそうしたトピックが興味深い。ただ一カ所、どうにも分からないところがあったので、引用しておく。

ヒューストンの宇宙基地から、ブンに質問がとんだ。
「ブンと名乗る人間にたずねる。貴殿はどこでどうやって発生したのであるか?」
「発生だと? いっとくけどこっちは、ぼうふらじゃねェや。あたしゃね、小説家のフンの小説『ブン』のなかから抜けだしたのさ。つまり、生みの親はフン先生ってことになるね」
 ここでブンはポケットから一冊の本を出すと、表紙をカメラに向けて、あの有名な俳優のように気取っていった。
「読んでますか?」
 その本は日本のアサヒ書店から発行されたフン著『ブン』であった。

 いったいあの俳優ってどの俳優だろ。

 作者の後書きによれば、これは最後の七十枚は一晩で書き上げる程の勢いだったそうで、そのせいか、転の部分にやや無理がある、というのは、山形東作というキャラクターがフン先生に恨みを持っていて、そこからクライマックスへ向かうレールが伸びていくのだけれども、「どうしてそんなことをフンがしたのか」がまったく説明されない。これはブンがどうしてフンの原稿から飛び出してきたのか、というところにはとってつけたような説明が為されていたのと比べると、ナンセンスだからとかそういう話ではなくて、忘れたんじゃないかという気がする。

 ところで解説の扇田昭彦は、この話を持ち上げようとして、アポリネールの「贋救世主アンフィオン」やエイメの「サビーヌたち」、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」などを引き合いに出しているが、なんか引っ張ってこられた先のあらすじの方が面白そうに思えたのは、解説としてやりすぎではなかろうかと思った。

 ひょんなことから「へえ」と思う発見をしたので追記。
 本書の冒頭、フン先生の描写にこんなのがあった。

それは暑い夏の午後だったが、フン先生はクーラーも扇風機も買えないので、玄関のたたきに井戸の水を流して池のようにし、そこへ机を持ちだし、パンツ一枚で、水の中に足をつkながら、宙をじっとみつめ、
 ぴっ! ぴっ! ぴっ!
 と鼻毛を抜いては、その鼻毛を、机のはしにさかさに立てて植えつける作業に熱中していた。

 鼻毛を植えつけるというところが妙に印象深かったのだけど、これには元ネタがあったのか。しらなんだ。ということで元ネタ

茶の間から妻君(さいくん)が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐(す)わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼(どら)を叩(たた)くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺(なが)めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭(パン)を御食(おた)べになったり、ジャムを御舐(おな)めになるものですから」「元来ジャムは幾缶(いくかん)舐めたのかい」「今月は八つ入(い)りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体(てい)で、ふっと吹いて見る。粘着力(ねんちゃくりょく)が強いので決して飛ばない。

夏目漱石 吾輩は猫である

 ということでここは漱石のパロディだったのかもしれない。といっても別に「猫」を読んで知ったのではなくて、「漱石、ジャムを舐める(amazon)」という本を読んでいたら、たまたまぶつかっただけなんだけど。この本はまだはじめの方しか読んでいないのだけど、パンやアイスクリームの歴史が興味深い。

ブンとフン (新潮文庫)
井上 ひさし

4101168016
新潮社 2000
売り上げランキング : 55383
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見るrakuten:konno:1432478
by G-Tools

追記2015/06/20 キンドル版が出ていた。確認時の価格は400円。
ブンとフン
井上 ひさし

B00FYJFRUA
新潮社 1974-05-28
売り上げランキング : 41756

Amazonで詳しく見る
by G-Tools