1981年に行われた三回の連続講演に基づいて書かれたイスラム文化入門書。コーラン、ハディース、スンニー派、シーア派、スーフィズムなどのキー・ワードの解説を丁寧にしてくれる。
実は6年か7年前に一度読んでいるらしいのだけれども、まったく内容が飛んでいて、手元に残ったのは無意味なメモ書きのみ、という状況だったので、今回はちょっとだけ内容を引いておこうと思う。
- イスラームはその起源においてすら、アラビア砂漠の砂漠的人間の宗教ではなかった。
ここでいう砂漠的人間とは、「ひとつの場所に定住せず、広漠たる砂漠をたえず移動しながら遊牧生活を送るいわゆるベドウィンのこと」。ムハンマドはメッカの商人で同じアラビア人と言っても「砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティーも、生活感情も、生活原理もまるで違」う。ムハンマドは砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの=砂漠的人間の価値体系に対抗し、「それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げた」。言い換えるなら、イスラームという宗教は商人の道義を反映した宗教だということになる。
- イスラーム文化は種々様々に異る文化伝統の入り乱れ、錯綜し、からみ合う多くの交差点の網の目の広がりのなかで形成された複雑な内部構造をもったひとつの国際的文化である。
イスラーム文化はコーランをもとにして、「それの解釈学的展開としてでき上がった文化」と言えるのだが、決して一枚岩的なものではない。端的な例としてあげられているのはアラブの代表するスンニー派的イスラムとイラン人の代表するシーア派的イスラムの違い。同じ「コーラン」を解釈するにあたっても両者のアプローチはまったく異なる。本書の三分の二まではこのイスラーム内の違いというところに焦点が当てられている。
- コーランの中の区分
ムハンマドへの神の啓示は二十年に渡り、断続的に繰り返された。コーランはそれをまとめたものであるが、啓示の内容は時代とともにすこしずつ変化している。専門家は前期十年(メッカ期=終末思想の色が強い)と後期十年(メディナ期622(イスラーム歴元年)慈悲と慈愛、来世で救われる的な思想)を分けているそうだ。またメッカ期とメディナ期の著しい違いとして、後期になるとムハンマドが神の代理人とされだすことが挙げられる。メッカ期においては神との契約はひとりひとりが神と直接結ぶものだったのに対して、メディナ期は人はムハンマドと契約を結ぶという風に考えられた。そしてムハンマドと契約を結んだ人同士は同胞として扱われる。この共同体的に組織された信仰的・宗教的、かつ教義的な社会機構としての宗教、それをイスラームと呼ぶのだそう。何言ってるか、引き写している俺にも掴めたとは思いがたいけど。メッカ期は神と人とを結ぶ糸のような宗教だったのがメディナ期になるとその縦糸と共同体(ウンマ)の人間関係の横糸が合わさって布のようなものになったイメージか?
ユダヤ教の場合と違ってイスラームの選民思想は民族的に解放されていて、排他的ではない。つまり民族を基盤にする選民思想ではなく、あくまで信仰を基盤にする選民思想である。またイスラームでは宣教はあまりしない。他の宗教を認めるという価値観がある*1
- イスラームでは隠者とか、世捨て人というものを人間の正しい生き方としては認めない。
引きこもれない……。
- イスラーム法における5つの基本的な倫理的範疇
- 絶対善。かならずしなければならないこと。すると誉められ、しないと罰せられる行為。
- 相対善。それをすることは望ましい、することを勧められる、だが、しなくとも別に罰せられはしないような行為。
- 善悪無記。してもしなくてもかまわない行為。
- 相対悪。法はそれを是認しないが、たといしても罰を受けるまでには至らない行為。
- 絶対悪。神に明文をもって禁止されたこと。すれば罪を犯すことになる行為。
かなり細かいところまで決まっているらしい。
ここまでは基本的に多数派のスンニー派というのの考え方で、これとは別にシーア派やスーフィズムというものもあり、ふたつはハキーカ*2中心主義であるのは同じで、シーア派は聖と俗をはっきり区別する点*3で、スンニー派と対立する。シーア派の最高権威者をイマームと呼ぶ。シーア派の中心を占めるのはそのイマームがこれまで十二人しか現れていないとする「十二イマーム派」という宗派である。スーフィズムの方は、意識的に世をいとい、世に背く点でスンニー派と対立する。またイマームを通さずハキーカへ至るという考え方の点でシーア派とも対立する。この三つの流れが自らを正統とだと主張し合う歴史がある意味ではイスラームの歴史だと著者は言っている。
ところでスンニー派とシーア派では言語から違う。前者はアラビア語で後者はペルシア語だ。著者はそんなことを言ってるわけではなく、おそらくは間違いだろうと思うが、コーランがアラビア語で書かれていることと、書かれていることの裏を「通常のアラビア語の知識ではとても考えることもできないような異常な意味をもって」コーラン解釈を行うのがシーア派であることのあいだはには、なんらかのつながりがあるのではないかという気がする。「外国語」であるからこそ、できる深読みのような*4。
そして外国語であるゆえに、というのは日本におけるイスラームの知識にも加えられる制限であるように思われる。というのも、少なくとも日本語で書かれた文章でイスラームの不合理性・不条理性を訴えるのは、なんの意味もないというか、結局直接届くことがない。ならば、日本語ユーザーの学者が何か書くとして、日本語で書く以上、彼らの価値観を紹介することくらいしかできないのではないか、と思ったら、著者を初めとしたイスラーム関係書がここまで見た限りにおいて、意識的に価値判断をしないという戦術を採用しているのも頷けた。マイナー言語ユーザーには世界を思うように構築していくような言説よりも、他者を理解するべくなされる言説の方が有意義な効果が期待できる。そんなことを考えた。
とりあえず再読であるのに、初読と何も変わらなかったので、忘れた時用のメモとして、このエントリを書いたわけだが、あとで確認したいことに限って書き忘れているというボーンヘッドがないことを祈っておきたい。
ちなみにアルカイーダはスンニー派なんだそうだ。ある意味社会参加型だからそりゃそうか。
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追記:2017/06/23
キンドル版が出ていた。確認時の価格は777円……え、紙より高くない?
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