心過剰の差別理解・差別の文化

「安心社会から信頼社会へ(感想)」より。
 この本は一冊かけて「人を信頼する人は愚か者か?」という問いを考えている。結論は、「そういう人が愚か者かどうかを決めるのは社会の型によって決まる」となっているのだが、その結論近くに出てくる議論が非常に興味深かったので紹介したい。
 著者は文化というものを「共有された心の性質」として理解する方法と「社会のしくみ」として理解する方法のふたつがあると指摘する。そして前者でだけ文化を理解するやり方を「心過剰の文化理解」と呼び警鐘を鳴らす。
 心過剰の文化理解の例として取りあげられているのが、差別である。心が行動の原因であるという直感的な前提に基づくなら「差別は偏見という心の性質が生み出す現象」として考えられる。たとえば日本において男女差別がいまだに強く残っているのは、男尊女卑的な偏見を人々の間に植え付けてきた伝統的な日本文化に原因があるということになる。しかし、そのような差別理解は「差別的な考えや行動を適応的にしている誘因から、人々の目をそらせてしまう」と著者は言い、レスター・サローの研究を引く。さらりと書いてみたけれど、俺はこの人の名前を知らなかった。たぶん知らない人もこのエントリを読むと思うので、長めになるけどあちこち引用しつつ、話を進めてみる。
 サローはまず労働力を他のものと同じ商品として捉える経済学の考え方では男女差別を説明できないという。なぜなら有能な女性を採用せず、その人よりも能力の劣った男性を採用するのは、経営者にとって愚かな行為であり、そのような雇用をする会社はしない会社との競争に敗れるはずだが、実際には雇用における男女差別が現に存在しているからである。ここから考えを進めていったサローは、労働力は普通の商品とは違うという結論に達する。ではどのような商品なのか。
 サローによれば、雇用とは個々の能力で価値が決まる商品ではなく、何年かの訓練を与えた後で役に立つ可能性のある投資材料としての「人材」を確保する行為だ。数年の訓練期間を経なければ商品の品質が分からないという点で、これは不確実な行為である。この不確実性を減らすのに用いられるのが「統計的差別」とサローがいう方法論だ。

 統計的差別というのは、あるカテゴリーに属する人々についての統計的な情報を、そのカテゴリーに属する個々の人間の処遇に用いることです。たとえば一人一人の女子学生についてみれば、自分のキャリアを結婚や趣味よりも重要だと考えていて、企業の望んでいる資質をもっている人も多くいるはずです。しかし、統計的にはいろいろな側面で大きな男女差が存在しています。たとえば勤続年数には大きな男女差が存在しています。人材の採用にあたって社会的不確実性が存在しないのであれば、つまり人材の質を採用時に確かめることができるのであれば、このような統計的な情報は個々の人間の採用にとっては意味のない情報です。そしてそのような意味のない情報を採用の決定に際して用いるとすれば、それはおろかな行為だと言わざるをえません。しかし、個々の人材の採用にあたっての不確実性が大きい状況では、統計的な情報を使ったほうが使わないよりは、人材採用にあたっての統計的なエラーが小さくてすみます。
(中略)
 このように、雇用を労働市場における商品の購入として考えるのではなく、大きな不確実性を伴う人材の選択だと考えると、採用の決定にあたって統計的な情報を用いるのは賢いやり方です。

 ただし採用の決定にあたって統計的な情報を用いることは差別を意味すると著者は言う。たとえば男女の平均勤続年数には統計上の差がはっきりとあり、幹部候補生を雇おうとするときに、この統計を参照すれば、男性を取るほうが賢い選択だということになる。が、これではキャリア志向の女性は堪ったものではない。男女の平均の差を個々の女性の採用の決定に用いるのは明らかに差別だからだ。これは男女差だけに限らず、たとえば出身校の統計データを用いることなどに対しても言える。

しかし問題は、特定の誰が優れた質の人材であり、誰がそうでないかを、個人レベルでは採用以前にほとんど知ることができない点にあります。採用する側が不確実性を低減するために使うことのできる情報は、多くの場合、統計的な差に関する情報――この場合には出身者の平均的な能力――に限られているからです。

 これが資本主義においてなお、差別が存在する理由だと著者は言う。能力を見ないように感じられる差別的な基準は、一方で不確実性を減らすためには有効なものであり、それを使うのは資本主義的に賢いとなるからだ。そして、ここから「自由競争の資本主義社会でさえ差別が存在するのではなく、自由競争の資本主義社会だからこそ差別が存在するのだと言えます。」ということになる。
 このような議論は差別を社会環境への適応行動として捉えるアプローチだが、環境と行動の間には逆の関係、つまり環境への適応行動が環境そのものを生み出すというとらえ方も可能だ。著者は「男女差別の背景にある統計的な男女差のほとんどは、男女差別の存在に対する男女の適応行動が生み出した」ものであると言う。たとえばデートを予定していた日に急な残業が入ったとして、その残業を断ってデートへ向かう確率は男女で違っているだろうと著者は推定する。

そう考える理由は簡単です。残業を拒否してデートに出かける行動が生み出すコストの大きさが、男女差別が存在している会社では、男女で違っているからです。そのような行動は、男性社員の場合には将来の出世の可能性に直接・間接に影響しますが、差別されている女性社員の場合にはもともと出世の可能性が存在しませんから、残業を拒否することがあまり大きなコストを伴いません。つまり残業を選ぶ行動の「適応価値」は、女性社員よりも男性社員にとって大きいわけです。

 そしてこのような適応価値の違いは、仕事に限らずそれ以前、たとえば大学の学部選びの段階でも存在している。

大学で学ぶ目的は(中略)労働市場での自分の市場価値を上げるために人的資本を身につける点にあります。そしてこの二つの側面(引用社注:教養や考え方を身につけるという目的と自らの市場価値をあげるという目的)の相対的な比率は学部によって大きく違っています。筆者の勤務する文学部などは、後者の人的資本の側面が最も低い学部のひとつでしょう。そしてその文学部では、他の学部と比べて圧倒的に女子学生の比率が高くなっています。

 これは何を意味するのかと言えば、当然、女性が大学入学にあたって、労働市場での自分の市場価値を男性ほど重視していないことを意味する。そしてその理由を筆者は「労働市場での市場価値を上げるための人的資本への投資が、男女差別が一般的な社会ではあまり大きな利潤をもたらさないから」だとする。すくなくとも男性ほどには旨みのない投資になるという意味では。このような社会適応的な行動のクセづけはもちろん男女差別に限らず、人種差別、年齢差別など差別全体についても言える。そしてこのような差別・被差別の関係があるところではそれぞれのどちらに属するかで適応行動の種類が変わってくる。で、男女差別の話に戻ると、このような適応行動の結果、

人材採用に際しての前述の統計的差異を生み出します。つまり、差別のもとで適応的な行動を取ることで、企業経営者にとって差別行動を適応的にしている統計的な差異が生まれるのです。
 このことは、差別行動を適応的な行動としている社会的環境そのものが、その環境に対する人々の適応行動によって生み出され維持されていることを意味します。筆者はこのような、人々の適応行動と、その行動を適応的にしている社会的環境との間の相互強化関係の存在を、「文化」という言葉を使って表現してもかまわないと考えています。たとえばこの意味での集団主義文化とは、集団の閉鎖性と人々の安心追求行動とが相互強化関係にある状態を意味します。同様に、差別の文化とは、差別を適応的とする統計的な差を生み出す行動を人々がとっている状態です。この差別の文化を支えているのは、人々の頭の中にたたき込まれた伝統的な価値観ではなく、人々が社会的環境に適応的に行動するという事実なのです。
(中略)
差別の文化は個々の人間の頭の中にあるのではなく、差別を生み出す行動を適応的な行動としている社会のしくみの中にある、そしてそのしくみを生み出し維持しているのは、差別社会への人々の適応行動なのだということです。
(中略)
重要なのは、男性の差別的行動も、女性の人的資本への投資の欠如も、いずれも同じ社会的環境への適応行動だということを理解することです。
 この点を理解すれば、差別をなくすためには社会環境の性質そのものを変えなくてはならないという結論に達するはずです。つまり、非差別的な行動が適応的になるような社会環境を作れば、差別は自ずから消滅するはずです。

 俺がこのアプローチに説得力があると思うのは、たとえば宗教的な心根の問題、個人の意識にだけ落とし込むよりも話が分かりやすくなる気がするからだ(いやそんな単純に悪いのは社会だ、個人は悪くないなんて言うつもりはないよ、もちろん)。引用しなかったけれども、たとえば女性差別はよくないと教育したとしても、男性上司は「そんなこと言ったって女性社員はやる気ないもん」という意識を捨てられない、という例が出てくる。筆者はなぜそうなのかという理由に「実際そういう女性社員に日常接しているからだ」と言う。これまでネットでこの手の話が語られるときの対立軸としても「○○差別はいけない」「いや○○は本当に酷いんだ」というのはよく出てきたが、上のような理解をすると、両者はともに成立する。○○が酷いのは確かだな、現状の社会ではそれは○○にとって適応的な行動であり、○○に対する差別的な社会構造を解消することで○○のひどさは自然と減っていく(消滅するは突き詰めた意味では無理だと思う。個人差があるから)というような形で。
 正直、引用した論旨は楽観的すぎるかもしれないという気はするけれど、すくなくともこのモデルで取り組んだほうが生産的な議論が生まれる可能性のある問題はいくらでもあると思うし、たとえばジェンダーフリーとはで説明されているアファーマティブアクションなんかも、これまで差別していた埋め合わせという見方だと逆差別にも映るけれども、基本的には女性の適応行動を変えるという意図で考えられたものと捉えるべきなのだろう。
 逆にマジョリティの適応行動ってのを遡上に載せるなら、一番求められるやり方は、そのような差別的な言動へのコストを上げることがひとつと、反差別的な行動を取った場合の利潤を増やすということが求められそうだ。本書の感想エントリですでに引用したことだが、知っている人間の行動予測ができるのと共感能力にはさしたる関連はない。であるなら、情に訴えるとか、「これが分からなくては人でなし」的な脅迫はあまり効果的ではないということが示唆される。論破すれば黙らせることはできるのかもしれないが、本書の考察を踏まえるなら、それだけでは足りなくて、差別的でない言動や共感的な行動や他者への信頼が適応行動になるような、(悪い言い方をすれば)ニンジンを用意できることが重要になってくる。

 俺の勝手な国家イメージでは、このニンジンの用意が日本には足りていないように思う。だから俺たちは知らない奴や自分と違う人間に対する利他的行動を取るのに抵抗があり、その抵抗を感じたくないから、社会的な歪みに対する文句の声を上げた人間を悪者扱いする。大声を出す人間に絡まれたら逆らわないのが適応行動であり、その結果大声を上げる人間の意見が通ると、それに逆らわなかったことよりも主張をした人間へ不満をぶつけるのが適応行動だからだ。たとえば女性専用車両ができたときに怒りの声は「逆差別」という形で上がり、痴漢犯罪者やそれを決めた鉄道会社の対応がメインで批判されはしなかった。これはケチをつけられたら相手をしていられないという対応を会社がすることへのコストが少なく、ケチをつけることが適応的でないという例に思われる。

 で、先日の糞長いエントリとの関連で言えば、そのような男女差別が存在する社会において、成人向けゲームはどの程度の教育効果があるかは分からないが、このような社会の価値観を維持するという意味では分かりやすく差別的な内容を含んでいる(ただし、これを規制して社会から男女差別が解消される可能性は相当低いと俺には思われるが)。であればこそ、成人ゲーム擁護派はそうしたジャンルが(他の多くのものと同様に)差別を維持することを認めた上で、話を進めなくちゃならないのであって、相手に黙れと叫ぶのは戦術として間違っていると思われる。これは居直るなという話ではない。現行の適応行動が「絡まれたら逆らわない、悪いのは大声出した奴」という社会では、まずマイノリティが声を上げるのを許容するのが適応行動にならなければ、マジョリティの耳を傾けさせることができない。価値観の違う人間の言葉をうるさい黙れと言うコストを上げていかなければ、睨まれたジャンルの生き残りは不可能になっていく。罵りあうだけでは「エロは規制されました。女性差別についてはなんにも変わりません。うるさい人は嫌ですね」という結論になってお終いなんである。それでは、女性差別的表現を内容とするエロゲーが必要であったり求められていたりする社会にメスは入らない。うるさい黙れと叫ぶたびに、規制も女性差別も上手いこと利用しようとする人たちに塩を送っているのではないかと俺は思う。

 ところで、先程友人から電話が来て、ふたつ前の長いエントリに感想をくれた。曰く「長すぎ」。俺は答えた「もうあんな長いの書かないよ」。電話を終えて、書き出したエントリがこれですよ。もう長いのは仕様って開き直ろうかな……。

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