追記

 一昨日のエントリは予想もしないほど大勢の人に読んでいただきました。ありがとうございます。ブックマークへのコメントもすべて目を通させていただきました。思いつかなかった観点が出てきたり、同意や共感を表明してもらったりしました。どれも考えるきっかけになりました。自分としては、たぶん手遅れなんだろうけど何か言わずにはいられなかったというだけで突発的に書いたエントリだったので、スターやブクマで反応をもらえて嬉しかったです。意見の違う人も一端立ち止まってからコメントを寄せてくれているように読めたのも嬉しいことでした。姿勢に感謝します。

 それからこんなトラックバックをいただきました。

村上春樹イスラエルで何を言おうが言うまいが、それは日本の民度の高さを保証するものでも証明するものでもない。

「壁」はいつでもここにある。口先だけで行動しない、「自称、非政治的な一般市民」として。

「卵」はいつでもここにある。ただし、いつでも目に見えない。口の端にも上らない。もちろん、耳にも聞こえない。

「卵」が「壁」に阻まれて粉々になったのが、「行動する保守」のせいかどうかは問題ではない。

「壁」と「卵」の話に喝采を送るような連中が、「行動する保守」程度のこともしなかったことは確かだ。

村上春樹に喝采を送る人間は腹を切って死ぬべきである - こころ世代のテンノーゲーム

 すくなくとも自分に関しては「行動する保守」程度のこともしなかったのは確かです。これからだって多分「行動」らしい「行動」はしないんじゃないかと思います。ただ他にリンクを張られた人たちはそんなことを言われる筋にはないと考えます。
 なので「『行動する保守』程度のこともしなかった」「『壁』と『卵』の話に喝采を送るような連中」というのは、自分を始めとする「自称、非政治的な一般市民」のことを指し、「おまえ等は壁のくせに卵の側に立つなんてスピーチに拍手を送る資格があるのか?」と言いたいのだと解釈しました。
 確かに我々は壁です。「批判しているのに、外野から徒党を組んでいる!みたいに思われてしまう図式」が出来上がる程度に、みなが同じパターンで話すように外部から見えるという意味において、我々は壁なんでしょう。見えない卵が今日も我々にぶつかって割れているんでしょう。
 けれども同時に我々は生きた壁でもあります。少なくともある程度の可変性があるとぼくは信じます。そのように信じる以上、「壁であるなら黙ってろ」という意見には承伏できません。壁の一部である我々「自称、非政治的な一般市民」にできるのは、卵の側に立つ人々を喝采することで、壁にすこしずつ共鳴を広げていって壁の形や向きを変えることくらいだからです。
 そんなのは偽善だと思われるかもしれません。温いと言われればそうでしょう。しかし温い層が卵の側に立つ人々に喝采すら行わなくなれば、壁はそのときこそ、本当に壁になってしまうはずです。
 ぼくは誰であっても、卵の側に立つ人を喝采するのを止められるべきではないと思うし、それを揶揄するのは壁をコンクリートで上塗りするような行為だと考えます。