かける眼鏡の選び方

 先日来、ちょっと気になる話題があって、思うところを書いてみようと考えていたところ、一昨日くらいから淡々とブックマーク数が増えて(ブクマしてくれた皆さん、読んでくれた皆さんありがとう)いて、何もこんなタイミングで、書き方の難しい話に触れることもないか? と躊躇していた。っつーかビビってた。

 けど、書いてみる。

 俺的発端になったのは以下の一連のエントリ(エントリ主さんはその前に上げていた村上春樹の「正論原理主義」批判からの流れで考えているようだ)。
歴史問題と政治問題の憂鬱な関係、あるいは、歴史的修正主義について
史上最大のタブーに挑戦すること、あるいは、今世紀最大の知的冒険
粛々と虎の尾を踏み続ける……orz
コメントへの応答
コメントへの応答の続き

 先に断っておくけれども、俺はすぐにデマに乗る程度のリテラシーしか持ち合わせていないので、それを自覚してからこの手の話題はなるべくスルーすることにしている。

 だから、エントリ主(スペルが難しいのでこの呼び名で統一させてもらいます)の主張は無理筋だとは考えるけれど、それを無理筋だと批判するのが主旨ではない。もちろんホロコーストがあったのかなかったのかという話をするのが趣旨でもない。俺はあったと考えるけれども知識の持ち合わせがないし、そうした主張についてはリンク先へのトラックバック先の人々がやっているから今更付け加えることもない。
 ここで考えてみたいのは、なんで俺(たち)はとんでもに引っかかるのかということだ。具体例で一連のエントリを取りあげる理由は、自分も引っかかりそうだと思ったからに過ぎない。

 エントリ主が主張したかったのは、この辺だろう。

冷静に、歴史的に、事実を確定しようという学問的姿勢や努力は、政治的に圧殺されてしまいます。
(中略)
歴史、特に近現代史の記述には、政治的なバイアスが掛かっていることを、我々は常に警戒する必要があります。

 ある種の「史観」を盲目的に信仰することの危険を、常に意識すべきなのです。

あらゆる歴史研究、あらゆる「正史」批判は、開かれたものであるべきであり、特定の主題のみが聖別され、その研究自体が禁圧されるようなことがあってはならない。
(中略)
研究に先立って、ある種の結論のみが選好されていたり、忌避されること自体が、学問的態度とは言えない

「正史」と「修正主義」のどちらの言い分が妥当なのか、比較検討してみよう、という姿勢を見せただけで、「修正主義に加担している!」と断罪されなければいけないのですか?

 
 で、誤解されると嫌なんだけど、引用したブロックのはじめのふたつだけなら、そこまで目立った主張ではないように見えるのだけど、実はこの時点で主張者はこけているように見える*1
 上のような印象が妥当であるなら*2、こけている場所は、自分にはバイアスがかかっていないと感じている点だ。「ある種の結論が先にあるような態度は学問的態度とは言えない」と言っている時点で、「現状はそうだ」と考えているはずだが、果たしてそれは本当かという部分がポッカリ抜けている。
 批判者が「周回遅れ」と揶揄するのは、エントリ主が「かくあるべし」といっているオープンな議論はすでになされているという論を含んでいるはずだが、それを受け取る方は自分の「かくあるべし」が批判されたと考える。たとえばこの辺を見るとそんな気がする。

手始めに、『試訳:ホロコースト講義 ゲルマール・ルドルフ 歴史的修正主義研究会試訳 最終修正日:2006年11月21日』を読みます。
 序文から、なかなか興味深いです。
 以下、引用しつつ。

今回のホロコースト講義は、今日多くの人々が「絶対悪」の権化とみなしているものを扱うことになる(中略)
このテーマは神学論争という色彩を帯びやすい(中略)
絶対悪と定義することは、ファンダメンタリスト的であり、ドグマティックであり、学問的分析を超越してしまっているからなのです。

 前回のエントリをUPした経緯だけからでも、よく分かる言葉です。

http://d.hatena.ne.jp/negative_dialektik/20090319/1237441294

 ここでエントリ主は自分の主張への批判を「ファンダメンタリスト的であり、ドグマティックであり、学問的分析を超越してしまっている」と感じていて、ゆえに開かれた議論はやっぱりなされていないと考えている。
 なぜにそのような齟齬が出てくるかと言うと、要因のひとつには、俺たち素人は専門研究分野の中で何が起きているか知らないということが考えられる。実際エントリ主も素人みたいだし。そうなると、「現状はこうです」という話に疑問が持てない。そこで吹き込まれるのが「これは政治的タブーであり、通説を信じている人間はみな洗脳されている」に類するような設定だったりすると、反論が「洗脳された人のヒステリー」に見えてくる(この辺、ソースは俺の引っかかった史)。実際、批判する側に「くだらないことを言う奴は許さねえ」的な義憤を抱える人が混じっていたり(全員じゃなくて)すると、「ヒステリー」という自分の判断が正しいと思えてしまう。で、「「信者」と議論するのは、ご遠慮しておきます。」となって議論は終了。「やっぱり俺は正しかった」が結論になる。「そういう雑音は無視して、粛々と勉強しつづけるしかないのでしょう。」の勉強は本人的に「真実を語っている」ソースを漁るということになる。
 一連のエントリの流れは、バイアスから自由にならなければいけないと言って始めたことの筈なのに、気づけば別のバイアスを身につけただけに終わっているように俺には感じられる。そしてこれは非常によくある話でもある(ソースは俺)。こうなるとググレカスの呪文も有効に機能しない。ググってデータに当たっても、「正史派」とみなした主張と真実認定した主張では受け入れ態勢が違いすぎるからだ。
 自分の経験に照らして考えるに、おそらくエントリ主はゲルマン・ルドルフの主張をワクワクしながら読んでいるだろう(推測のソースは俺)けど、たとえば次の記事なんかは読んでいないのではないか。

Mannheim, Germany - A 42-year-old German neo-Nazi who claims the Holocaust never happened was jailed for 30 months by a court in the south-western city of Mannheim on Thursday.

At the start of his trial in November, Germar Rudolf had called the Holocaust 'a gigantic fraud.' He was last year expelled from the United States to Germany, which charged him with incitement to racial hatred.

A chemist, Rudolf has published pseudo-scientific claims that it was impossible that Zyklon-B poison was used in the gas chambers at the Nazis' Auschwitz death camp.

ホロコースト否定論者ゲルマル・ルドルフがドイツで30ヶ月禁固刑 木村愛二

 この記事ではルドルフというのは、ネオナチで職業は化学者(職業については複数のソースがあった。)ということになっている。claimという単語の意味は「他の人々が信じていないことや証明されていないことを真実だと主張する」だ。
 さらに言うと歴史修正主義研究会という団体がどのような主旨のもと、誰が作って、どのような評価をされているのかというチェックがなされていない。いま俺もちょっとググってみたけれど、なんら相手の分かる情報は出てこなかった。冷静に考えるなら、このような出所の情報に対する信用度は高くないが、そこはあまり気にしていないかもしれない(ソースはやっぱり俺)し、それら情報源の更新日時(すべて数年前)と「周回遅れの議論」という批判をくっつければ、自分より前にそれを信じて主張した人間がいるはずだが、数年経ってもこれらソースが顧みられていないことの不思議も考慮されていないように見える(そして俺も考慮しない多分)。

 自分の経験に照らして考えると、通説が「間違っている」という主張から距離が出来るのは、その主張そのものの論理的誤謬とかよりも、情報ソースがどのくらい信用できるの? ということを考えたときのことであるように思えるので、エントリ主がやるのはルドルフのソースを読み込むことではなくて、バックグラウンドをチェックすることではないかと思う。
 バイアスという眼鏡を外したと思っているときには、別の眼鏡をかけているだけだったということが多いから。

 で、そうすると、辿り着くのは「結局人はバイアスから自由になれない」っていう評判の悪い相対主義になるんだろうと思う。無知を右手に相対主義を左手に持つ完全武装が完成するわけだ。


 ところで「真実は結局分からない」というのを乗り越えようとするのが、専門家のやっていることだとしたら、我々素人は何をしたら良いだろう、というのがここんとこずっと考えていたテーマだったりする。


 情報の送り手としては、ひっかける側に回らないように気をつけるということになるかと思う。これはどういうことかというと、飛びついた情報に「隠された真実です」という粉飾を施さずにリリースするくらいの縛りをつけようよということだ。上の一連のエントリにおけるやりとりで、エントリ主は「これから勉強していきたい」と言っているにもかかわらず、通説は間違っていたと読み取れる書き方をしている。「本人がそう思い、それを表現する自由が禁じられるいわれはない」というのは、否定されるべきではない。しかしそれなら同じように「自由には責任が伴うべきだ」という論も守られなければならない。ここで言う責任とは何か。間違いを自覚したら修正を加えるというのはもちろん、自分よりもそれを知らない人が見たときに、自分のエントリの信用度を誤解させない工夫を施すことだろうと、俺は考える。たとえば一連のエントリなら「ルドルフは化学者で歴史学者ではない」「禁固刑になった人物でネオナチと言われることもある」「論文を訳している歴史修正主義研究会のバックグラウンドおよび語学力は不明」くらいは記事から分かるようにしておいた方が良いし、66Q&Aもくじみたいなものの存在には言及するべきだろう(ちなみにこの記事はエントリ先のトラックバックから飛んで知った)。読んでいる時間がないとしても、紹介するのはできるわけだから。

 こうした程度の配慮がなければ、不確定な知識に基づくエントリであることは隠されて、真実を語るエントリだと受け取られる。あとで「あちゃあ間違いだった」となったときに、収集がつかない。政治的中立を掲げる人間(俺含む)は、無邪気にとんでもに引っかかるし、それが間違いだと知りつつプロパガンダしようという気はない。であるなら、このような影響を与えていくのは本意ではないと思われる。そうならないように、せめて自分のソースの信頼度を開示するのは大事なんではなかろうか*3

 で、読む方というか情報の受け手であるときに、我々相対主義な素人ができることは何かっていうと、対立する情報のどれがデマ要素少なめか分からない以上、真実の探求なるものに対してできることはほとんどない。勉強しろ! と知っている人たちは言うが、そんな気力も時間もないし、勉強するつもりで手に取った本がとんでもでしたなんてしょっちゅうである(俺は)。
 では我々はなにもできないのか。


 ほとんどなにもできなくはあってもまったく何もできなくはない。


 すくなくとも「明確に誰かが損をする『真実』はとりあえず退ける」という判断基準を設けることはできる。っていうと「自分(たち)が損をする『真実』は退けちゃいけないのか」と言われそうだけど、人間は自分の損を避けようとするようにできている以上、そんなもの、わざわざ対応として覚える必要はない。中立という立ち位置にいるつもりの我々は、常に我々に優しいポイントに立っている。判断の外にこぼれているのは誰かの損だけなのだ。

 これは倫理的な判断基準なのかもしれない。しかしどうやったって真実を発見できない大半の素人(つまり俺たち)にとって、倫理的基準を持っておくのは、悪いことではないだろうし、発見された「真実」が本当に真実であるなら、いずれ我々の倫理的基準と折り合いもついていくはずだ。そうならないものは所詮真実の皮を被ったセンセーションに過ぎない。
 ……とはいえ、ワクワクするしすぐに乗せられちゃうんだけどね、センセーション。

ちょっとだけ参考文献:「W.リップマン 掛川トミ子 訳 世論(上)(感想)」
関連記事:ダミアン・トンプソン 矢沢聖子 訳 すすんでダマされる人たち ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠



追記:negative_dialektikさんからトラックバックを頂きました。「こういう作業に忙殺されると先に進めないので、今後はなるべく避けたい」と仰っているし、こちらもそこには激しく同意なので、ここに追記することでお返事に代えさせていただき、今後この件については反応しないことをご了承いただきたいと思います。

 ただ困ったことには、俺の手に負えない難儀な質問ばっかりなので、以下は信頼度低いですよ。裏なんてどう取ったらいいのか考えつきもしませんでしたから。

ところで、「オープンな議論」の受付期間はいつ終了したのでしょうか?
現在は、議論の主題は「解決済み」だから、結論を確認する作業以外は禁圧されてもOKとお考えですか?

 ひとつ目について。別に終了なんてしていないのではないかと考えます。どこに行けばできるんですか? と言われても分かりません。二つ目については字面通りの疑問であるならOKとは考えません。ただし現状禁圧されていると思っておりません。そういう点は無邪気に学者さんたちを信じることにしています。

 ルドルフ自身は、自分の政治的立場が「右派」であることを明言していますが、右派=ネオナチなんでしょうか?「ネオナチ」という規定が、ある思惑によって押し付けられたものではないかどうか、チェックはしましたか? 「ことになっている。」のは、いいですが、記事の信憑性のチェックをはぶくのでは、ご自身が指摘する危険に自らはまっているのではないでしょうか? (チェックしたうえで、彼をネオナチだと断じますか?)

 修正しておきました。関連して「ルドルフに対して失礼」という話に関しては、ホロコーストがあったことに疑問を持っていない自分としては、「ホロコーストは大規模な詐欺(上の英文の適当な和訳です)」と言っている人に対してネオナチ認定するのは、あまり失礼だとも思っておりません。将来的に実は主張が正しかったんだ、なんてことになった場合には「失礼なことをした」と思うかもしれませんが。

あなたはいちいちそういう注意書きを書いているのですか?

 危険性を自覚できたときは「どこまで本当かわからない」旨、書き加えるようにしています。ただし絶対につけるかと言われれば、漏れはあるはずです。思いこみはいくらでもあるし。たとえば上の英文記事はご指摘の通り信憑性チェックをし忘れた一例です。まさに「ご自身が指摘する危険に自らはまっているのではないでしょうか」という感じのブーメランでした。反省。

 そして、同様のことは、「虐殺派」「正史派」の主張及びバックグラウンドについても、なされねばなりませんよね?

 一方にだけそれを求める訳ではないのですよね?

 なされていないという前提は共有できませんので、当然なされているでしょうと答えておきます。

──ところで、gkmondさんご自身は、「かける眼鏡」を、どのように選ばれていますか?

 正しい選び方があれば、ご教示ください。

 選び方なんて知らないので答えられません。勝手にかけちゃうものだと考えています。変な眼鏡かけちゃったと気づいたときには、さっさと外す(外そうとする)というのを心がけようとは思っています。その具体的な基準にできるかなと思ったのが、上の本文でも触れた「倫理的な基準」という奴です。

p.s. 参考文献は機会があれば読みたいと思います。

「世論」も「すすんでダマされる人たち」も面白い本でした。機会があれば是非読んでみてください。ブクマコメントの方で紹介していただいた「小説家夏目漱石」は気が向いたときに当たってみます。ご指摘ありがとうございました。

*1:決めつけだと指摘を受けたので「ように見える」を追加した。

*2:決めつけだという指摘を受けたので追加。

*3:それ以外にもログが残ることの重要性を肝に銘じる必要ってのがある気もする。