ティル・バスティアン 石田勇治・星乃治彦・芝野由和 編訳 アウシュヴィッツと〈アウシュヴィッツの嘘〉

 以下のエントリで存在を知った本。
ホロコーストの基礎知識について - Danas je lep dan.
 俺のようなド素人には非常に有益なホロコースト否定論に対するまとめ。紹介してくれたid:Mukkeさんには感謝したい。もともとは1995年のマルコ・ポーロ事件がきっかけになって、翻訳されたもので、2005年に白水社Uブックス入り。著者のティル・バスティアンは医学博士でナチ時代の医学犯罪について論文集「想起すること――医学と大量殺戮」を編集するなどホロコーストに対して医学方面からアプローチをしている人であり、またノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師の会」ドイツ支局長でもある(たぶん出版当時)。
 本書は二部に分かれ一部ではホロコーストの簡単なまとめが、二部では否定派の主張とそれへの反論がなされている。さらに三部として芝野由和、石田勇治、芝健介、西川正雄の諸氏が寄稿している。前にも言ったことだが、他の問題同様、アウシュヴィッツの話も殆ど知らない身には、大変有難い作りの本だった。特に第二部が有益。ここでは「修正派」と呼ばれる人たちの「説」が紹介されている。特にページを割かれているのは「ロイヒター・レポート」と呼ばれるもので、著者はアメリカの処刑ガス室に従事していた「エンジニア」フレッド・A・ロイヒター。彼は、カナダでホロコースト否定の書物を出版した件で裁判にかけられていた出版業者のツンデルを擁護する「科学的」な調査のため、1988年2月25日ポーランドに渡り、アウシュヴィッツとマイダネクの強制収容所跡とその付近を視察、3月3日に帰国する。それから4月5日までかけて132頁にわたる「鑑定書」を書き上げる。この鑑定書がロイヒター・レポートと呼ばれることになるわけだ。
 このレポートが提起したのは「アウシュヴィッツとビルケナウの『ガス室』が処刑ガス室として利用された、あるいはそのように機能したと考えることは不可能である」というテーゼだった。
 著者は第二部のかなりの部分を使ってこのロイヒター・レポートに反論を行っている。ちょっとムキになりすぎじゃないかというほどに。なぜそう思うかと言うと、この「エンジニア」ロイヒターは、エンジニアの学位も持っておらず、エンジニアとしての専門教育も受けていない。そしてアウシュヴィッツへ行く下準備でやったのはホロコースト否定派の文学者ロベール・フォーリソンが用意した資料を読んだだけ。と専門家が相手をするにはかなり労多く益少ない相手のように見える。ではなぜ相手をするのか、著者はこう言う。

 私が思うに、こうした対決を避けて通るわけにはいかない。なぜなら『ロイヒター・レポート』の本来の読者である右翼急進主義者たちはどんな反論にも耳を貸さないが、それ以外の多くの人間がこうした書物に出会った場合、きちんとした反論がないと不安に陥るからである。

 基本的な批判は「ホロコースト肯定派は『ロイヒター・レポート』が主に違法手段*1で得られた標本で作製されたこと、またロイヒター自身が工学の学位を持たず、また実績においても、彼は専門家としての能力に欠けることから、証拠能力に乏しい*2」と言ったことになるが、それ意外にも、著者はロイヒターが自分の知っているアメリカのガス室の常識に照らしてアウシュヴィッツガス室を論じるという間違いを犯していると指摘する。ロイヒターの結論はアウシュヴィッツガス室が「同時期にアメリカ合衆国で稼働していた定評ある処刑施設のようには建造されていなかった」、「アウシュヴィッツガス室なるものを計画した人物が、米国で用いられている技術を参考にしなかったのは奇妙な話だ。なぜなら米国は、囚人がガスで処刑されていた唯一の国だったからだ」という結論を出す。これの何がおかしいと言って、著者も指摘するように、絶滅収容所と呼ばれる施設が作られたのは、第二次大戦中でドイツとアメリカは敵国同士なのである。何が不思議なのか、俺にはちょっと分からなかった。
 また毒ガスによる大量殺戮があったはずがないという主張の根拠は、「ガス室だとされた部屋は、ガスを発生させるために部屋を暖めることもできなければ、迅速に喚起もできない」という点にあった。また彼が採取した壁面からは青酸ガスのはっきりした残留物が見つからなかったという主張もされている。それに対する著者の反論は次の通り。

青酸ガス(ツィクロンB)は摂氏二十六度以上にならないと気化しないので、米国の場合、ガス室は処刑前に必ず暖められる。アウシュヴィッツでは、ナチは囚人の体温でこの室温を確保できるよう、大勢の人間をガス室鮨詰めに押し込んだのである。このため、――密閉された部屋は、裸で怯え、泣き叫び、空気をえようともみ合う人々で溢れかえり――暑さのために短時間で気化した青酸ガスの大部分が、犠牲者の体内に吸い込まれたのである。つまりアウシュヴィッツガス室に入れられた人々の呼吸数は、米国の刑務所で椅子に固定され静かに死を待つ死刑囚よりもずっと多く、そのため吸い込んだ青酸ガスもはるかに大量だったのである。(中略)ナチは、米国の刑務所で通常行われているように、「人道的な」理由から、念のため致死量の十一倍の青酸を投与することなど必要とは考えていなかった。実際、一九四一年九月三日、第十一ブロックの地下室で約八五〇人が犠牲になった最初のガス殺が行われたが、報告主任バーリッテュは、自分がその翌日ガスマスクをつけてガス室のドアを開けたとき、まだ何人もの囚人が生きていたと証言している。

 またロイヒターは焼却棟には密閉型のドアがないとも主張しているが、これについては密閉型ドアの注文書が残っているそうだ。他に状況証拠として提出されているのは、ツィクロンBという青酸ガスは法律で臭素を混ぜることが義務づけられていたが、親衛隊は臭素を抜いたものを特注していた。「シラミ駆除」などの消毒剤として使用されていたなら、なんでそんな特別措置をする必要があったのか? と著者は疑問を投げかける。ちなみに1945年5月クラクフの法医学研究所に、アウシュヴィッツの倉庫で発見された293個の麻袋が運び込まれたが、その中には女性の頭髪が一袋につき25.5キロ詰まっていた。同研究所の調査報告書には、「ガス殺後の女性の死体から刈り取られた頭髪に」青酸反応が見られると記されているそうだ。
 で、このかなり信憑性にかけるロイヒター・レポートが日本のウィキペディアにも載るくらい有名になったのはナチの退役将軍オットー・E・レーマーなんかが「ユダヤ人の大量殺害を学問的に覆した」とプロパガンダを打ったためだったそうだ。ちなみにこのレーマーによって、ルドルフ・レポートは世に送り出された。つまり、この二つはプロモーション元が同じっつーことね。


 日本人著者の論考を集めた第三部も興味深い記事がいくつか拾えた。特に「ドイツではホロコーストを否定する言動を行うと逮捕される」という話についてこんな記述があったのは発見だった。

犯罪対決法が成立したことをもって、〈アウシュヴィッツの嘘〉へのドイツの対応を称賛することはできない。政府はあくまでもナチ犯罪を「単独」で法案に明記することを避けようとしていた。また井戸端会議や口コミの〈アウシュヴィッツの嘘〉には法の手はのびていない。

p.136

 また「哲学者」アルミン・モーラーの「ナーゼンリング」という本を取りあげて、

この本は「過去の克服」を揶揄することによって、ナチの過去との取り組みを全面的に放棄することをあからさまに求めるものとなっている。(中略)そこでは『ロイヒター・レポート』や「ラホウト文書」を信用できるものとして紹介したり、『アンネの日記』が戦後の偽造品であるかのような印象を抱かせたり等々、〈アウシュヴィッツの嘘〉が網羅されているのである。この本は公然と買えるものであるばかりか、本のカバーには『ツァイト』紙と『フランクフルター・アルゲマイネ』紙での書評が抜粋され、「これはけっして〈アウシュヴィッツの嘘〉の類の著作ではない」との「お墨付き」までもらっているのである。

pp.137-138

 とも書かれている。ホロコーストプロパガンダに過ぎないという話の最重要な根拠は「ホロコーストに異議申し立てをするような言動は法律で禁じられており、封殺されている」というものだった。しかし本書を読む限り、上のような反論もあるし、「ナーゼンリング」のような本が普通に流通している。そのような法律があるということと、その法によってどこまで規制されているかは別問題ということではなかろうか。いやこの辺データを探したけど見つけられなかったんだけども。とりあえずホロコースト否定派のいう「言論弾圧」という話は、法律によって発言が封じられているというよりは、法律があることを利用して自分たちの論にリアリティを与えるように動いているんじゃないかという印象を得た。ミュージシャンのギャグでライブハウスのオーディション落選を「○○出禁」みたいな伝説にする感じ?

 とりあえずこんな感じの本でした。これまで興味を持っていたとは言い難いジャンルだったので「へえ」が多かった。将来的に誰かの役に立つといいなと思ったので引用多めでやってみた。「ホロコースト」とかの検索ワードで本書が引っかかることを望む。個人的にはこの問題を追いかけるつもりはないし、「なかったかも」と思う人間を「許さん!」とも思わない。ただたとえばこの手の「ユダヤ陰謀論」って人によっては本当に怖いんじゃないかと考える。「自分だけが真実に辿り着いた! 回りは馬鹿ばっか!」って人が乗せられるのは正直良いっつーか、俺にはあまり興味の持てる話にならない。ただそういう人があんまり根拠なく書き散らかしたエントリであっても、読む人によっては「恐るべき真実」って奴に見えちゃう場合があると思う*3。発見とかではなくて、本当に怖いって意味で。そういう人がこのエントリを見て、この本を読んで「なあんだ」と思ってくれるなら、この記事上げた目的は達成されたことになる。未来永劫不変の真理かどうかは知らないけれど本書を読む限り、ユダヤの陰謀だのプロパガンダだのというフレームでホロコーストを見る必要はあんまりなさそうだ。

 しっかしこの手の問題って「思想・表現の自由」ってものを考えさせられるね。いや規制しろって意味じゃなくて。まとまったらそこに特化して続きを書くかもしれない。


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石田 勇治 (他)

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*1:つまり客観的な証人なしで得られているということ。

*2:ウィキペディア「ロイヒター・レポート」参照

*3:いちいち反証を取りに行く人ばかりではないし、それ自体を責めるのはやり過ぎだろうというスタンスを取りたい。というか、乗せられたときには反証の検索ワードが思いつかないもんじゃなかろうかと思う。