いまある希望に乗れなければ好きで絶望してるのか?

 ホットエントリ経由でこんな記事を読んだ。
このルサンチマン充め! - Something Orange


 この記事が出てくるまでの流れ。


恐るべきリア充ゲーム「ペルソナ4」←「リア充」という単語を用いてゲーム「ペルソナ4」を面白おかしく紹介。
リア充なんてこわくない! - Something Orange←上の記事を枕にして、リア充なんてくだらない概念に縛られるなと主張。

 なるほど、この世には恵まれたひともいれば、恵まれないひともいるだろう。この世は不条理で不公平だろう。しかし、だからといって、ひとを「リア充」と決め付け、妬み、そねみ、うらやましがっているだけではいつまでたっても「充実」にはとどかないと思う。

 ただ冗談で「リア充どもめ」といっているぶんには問題ないが、本気で「リア充」をねたみはじめると洒落にならない。

 ぼくたちはそれぞれ固有の物語を抱いて生きている。自分に与えられた物語に不満があるとしても、それを受け入れ、他人の物語に関心を抱くとき、初めてひとは他者に共感をもって接することができる。

 そのとき、もはや「リア充」も「非リア充」もない。ただ、そういった境界を超越した複雑きわまりない人間存在があるのみである。

 それが「生」だとぼくは思う。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090306/p2


『ペルソナ4』と弱い自分 - こづかい3万円のひび←上の記事に関して「どんなに安っぽく考えなしでばかばかしいものでも、絶望するものにとって絶望は絶望であり、それを「その価値観は誤りだ」とか、「世の中にはもっといいことがある」などと言っているだけでは何も変わらない」と主張。結語はこう。

 けっきょく、最終的な答えは「それでも絶望せず、自分にできる全力を尽くして生きていくしかない」ということではあるのだろうけれど、みんながみんな、がんばれる人間ばかりじゃない、と思うのだ。

『ペルソナ4』と弱い自分 - こづかい三万円の日々


このルサンチマン充め! - Something Orange←上への反論。結語はこう。

 ルサンチマン充はいつだって自分を不幸だと主張するが、実はそんなことはないのである。自分を不幸だと主張することで、たっぷりルサンチマンのエロスに浸っていられるのだから。

 本当に苦しんでいるひとは、何としてでもその苦しみの沼から抜け出そうとするものだが、ルサンチマン充は逆に何としてでも沼から出るまいとする。ルサンチマンに浸っていることが快感だからである。

 全くうらやましくも妬ましい。このルサンチマン充め!

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090307/p1

 俺的まとめとしては「人を一面的に見て羨ましがるのは不毛だ」→「そんなこと言ったって絶望してる奴は楽になれないよ」→「あいつらは好きで絶望してるんだよ。全くうらやましくも妬ましい。」という話に見えた。


 Something Orangeの人の最初の主張は、以前「電波男感想)」を読んで思ったこととかなり近い(かつ俺がもやもやした部分を言語化してくれているようにも思う。もっとも数年前の話なのでアテにはならない)。ので思うんだけれども、Something Orangeの人は、二文目を書くべきではなかった*1と思う。


 というのは、ひとつ目のエントリーで言ってる「そんなものに縛られるな」という主張がふたつ目のエントリーで台無しになっているからだ。こづかい3万円のひびの人が言っているのは、「縛られないためにはどうしたらいいんだよ。縛られるな、だけじゃ人は自由になれねえんだ」ということだったかと思う。


 それに対して、「自由になれないんじゃない。お前ら好きでそうなってんじゃねえか。このルサンチマン充が!」と返すのは、「『お前たちが何と言おうとおれは絶望しているんだ!』と叫ぶひと」をその世界に閉じこめる手伝いをしていることになる。「やっぱり『普通の人』には自分の気持ちは分からない」と思わせるわけだから。このメッセージはその前の「『リア充』も『非リア充』もない。ただ、そういった境界を超越した複雑きわまりない人間存在があるのみである。」というメッセージを無効にする。ハッパをかけるつもりで言っているとしても、そのハッパは機能していない。


 それから、この人に限らず、大抵の人間はつい、「本当に○○なら〜」と言って、不都合の純粋性のようなものを他者に要求しがちだが、これは、他人に対して使うときには、その人間を「甘えているだけ」というカテゴリーに放りこんで、自分は知りませんと言っているだけだろう。


 俺は「電波男」の感想をあげたときに、「こいつは毎日が上手くいっていて、挫折知らずの勝ち組なんだろうよ!」と匿名掲示板に書かれた*2し、このあいだ、非コミュの話を読んだ流れで、非コミュ診断してみたらコミュと出たので、「絶望している人」の事情やら辛さやらは分からない。同じようにSomething Orangeの人のことも知らないから、一方的におまえは人の気持ちが分からないというつもりもない。宮沢賢治の詩の内容から考えるに、一連のエントリは「俺だってリア充じゃないけど、がんばってるんだからさ」というつもりで書いたのではないかと推察している(でなければ引用が上から目線過ぎてビビる)。


 たぶんある程度まで気持ちは分かっていて、自分はこういう考え方で楽になったよと言いたいんじゃないかと考えるんだけども、一方でこづかい3万円のひびの人は「そのルートに乗れない人はどうすればいいんだ?」という疑問を呈したってことなんだろう。


 思うにこの疑問は「けっきょく、最終的な答えは『それでも絶望せず、自分にできる全力を尽くして生きていくしかない』ということではあるのだろうけれど、みんながみんな、がんばれる人間ばかりじゃない、と思うのだ。」という形で提出されるよりは、むしろ「どんな文脈、あるいは価値観でも、物語でもいいけれど、とにかく今世の中を流通するメッセージではがんばれない人間を立たせるには、リア充/非リア充という価値観から抜け出すには、どんなメッセージが必要なのか」という形で提出された方が良かった気がする。少なくとも一連の流れに載せるとそう思う。


 「電波男」に対して「これは布教するようなことじゃない」と書いたとき、俺の頭からポッカリ抜けていたのも、この問いだった。これは今回の一連のエントリを読んで思ったことだ。


 絶望している人が絶望していると言うのは、世界に対する異議申し立てなのかもしれない。それは純度百パーセントのものではたぶんないんだろう。しかし、混じりけがあること=嘘であるというロジックは、疑いもなく乱暴だ。であるなら、絶望の声を減らしていけるようなメッセージを生むにはどうしたら良いのか、ということを考え始めた方が、どうせ労力と時間を使うなら、有意義ではなかろうか。
 もちろんこれは、Something Orangeの中の人が、という話ではなく(メッセージの生成ってのはやっぱり多くの人間の思考の蓄積によるだろうから「おまえ、これどうすんだよ!」と誰かひとりに迫るのは暴挙だと思う。)、この手の話に反応してしまう人みんな(俺含む)がというつもりで言っている。


 難問かも知れないが、不可能ではないだろうし、絶望する人の数が減る度、絶望してない人間にとっても、世の中は住みやすくなっていくんじゃないかと俺は思う。


 少なくとも、自分がその中で生きるなら、「世の中にはもっといいことがある」というきれい事が通じない気がするときや、あるいは自分にくっついた重りが重すぎるってときに、「なら筋トレすればいい」というメッセージしか返ってこない世界よりも、さまざまなメッセージが戻ってきて、そのうちのひとつかふたつが有効である可能性を常に持った世界にいたいし、自分の重りが重すぎると言っただけで「それを捨てないんだったら、好きで重たい重りを持ってるんだろ」という決めつけがまかり通る世界は嫌だなと思う。その前提にはこれ以上希望の種類は増えていかないという発想があるからだ。


「(いまある)希望があるのに、それに乗ろうとしない。であるなら、お前は絶望好きなだけである」
 という判断基準は、考えてみれば、人間がこれから新しい夢や希望を生み出す可能性への侮辱である。


 他人の夢を貪り喰らうことで成立する読書ブログをやっている身としては、たとえ自分には新しいメッセージのひとつも捻り出せなくても、解決が自分の手に余っても、好きで持っているわけじゃない重りを捨てられる物語や夢が誰にでも、どこかに存在しうるということの可能性だけはどうしても抱えておきたい。


 この件に関してはもうちょっと考えてみようと思う。


 ちょっとだけ関連エントリ:リップマンのアリストテレス批判 

追記:記事のタイトルつける前にトラックバックを飛ばしてしまった……(よくやるんだよな、これ)
追記2:続きを書いたので、良かったら読んでみてください。あいつらどーせ変わらないが隠すもの

*1:これでハッとなる人もいるかもしれないけど、ラベリングは簡単に悪口の決まり文句になることを考えると、やっぱり他の書き方があったんじゃないかと思う。

*2:もう数年経ったし、言っても良い? 挫折知らずの勝ち組ってのはさすがに誤解だよ。