都の西北、早稲田大学のそばにある洋食店が20日で看板をおろす。創業から34年。500円前後の九つのメニューと皿からあふれそうな大盛り料理が、多くの学生や卒業生らに愛されてきた。店内の18席は閉店を惜しむ客で連日満席が続いている。
■安くてうまくて、大盛りで
大学の北門から都電の早稲田停留場の方へ歩いてすぐ。雑居ビルの1階に洋食店の看板がある。
「キッチン エルム」
L字形の黒光りするカウンターに10席と、奥に4人掛けのテーブルが二つ。ポークカレー、ナポリタン、カルボナーラ……。9種類のメニューは400〜650円で、それぞれ大盛りは100円増し。この店では《大盛り=2倍》だ。
「安くて、うまくて、ボリュームがあって。学生さんの店だから」と店主の山口勝見さん(71)。仙台市の米農家に生まれ、中学卒業後、コックを目指して上京した。最初に築地の洋食店で働いた後、「山手線のほぼすべての駅の洋食店を渡り歩いた」。エルムを開いたのは38歳の時。店の名は、大きく育つ楡(にれ)の木(エルム)からつけた。
男手ひとつで長男を育て、暮らしは決して楽ではなかった。だが消費税率が5%、8%と上がっても、開店から値上げしたことは一度もない。「学生さんが9割。お金がなくても、おなかを満たせる店にしたかった」。定休の日曜に趣味の競輪や競馬に通い、勝てば家計の足しにした。
という15日の記事を読んで以降、妙に学生時代のことを思い出してしまい、20日目処と書いてあったのもあって、最後にもう一度だけ顔を出したいと、何年かぶりで早稲田を目指した。天気は雨。連日一時間以上並ばないと入れない状況と聞いてはいたが、悪天候で人が減るかもしれない。記憶では4時くらいがガラガラだった。よーし、4時につきゃあばっちりだ。マスター(親父と呼ぶ人が多いみたいなんだけど、おれはマスターと呼んでいた)に挨拶できればいいなあ。などと考えつつ午後2時に家を出た。エルムに行くのは大抵ひとりだったので、知り合いに誘いを掛けたりはしなかった。
電車もスムーズにやって来て、東京駅から東西線に乗り換える。そのときにデーモン小暮そっくりなメイクの人を見かける。マジで本物かと思ったが、本物があのメイクで駅のホームに立ち、スマホをいじるだろうか。しかし、本物でなければ、あのメイクで駅のホームに立ち、スマホをいじるだろうか。それにしてもそっくりだ。そういえば、デーモン小暮って早稲田出身だったよな。もしかしてエルムに行くのかもしれない(そんなわけはなかった)などと、色々妄想膨らませてやって来た東西線に乗った。飯田橋で向かいのホームにも、やっぱり聖飢魔?(ゼノン石川和尚?)みたいな人がいてスマホをいじっているのが見えた。都会はいつの間にか魔界になったのかもしれないと思った(帰宅後、武道館で聖飢魔IIが解散ライブしていた話を知る。それに行こうとしていたファンだったのかも、と今は思っている)。
で、早稲田に着いた。雰囲気は変わらないけど店舗はさすがに変わっていた。今日は政治経済学部の入試だったようで、到着した3時50分頃は人もあんまりいなかった。入試シーズンということは春休み期間だしね。勝利の予感を感じつつ、大隈講堂から商店街へ向かった。
おれの知っているエルムは商店街入口近くにある建物の2階にあって、隣はおばちゃんが切り盛りする定食屋、下は東京そばっていう立ち食いそば屋だった。在学中はそば屋さんの店主、店員さんたちと仲良く遊んでもらった(大学時代の後半、いちばん仲がよかった友人と知り合ったのもこのそば屋だった)。夏なんかは店が跳ねると電話がかかってきて(というのも、下宿していたのが大隈商店街の中だったので、無茶苦茶近かったのだ)、出かけて行き、店のまえで缶ビールを飲んだりした。近所の専門学生なんかも混じってしょうもない話をしていた。やっぱり店を終えたエルムのマスターもやって来て雑談に加わったりすることもあった。そば屋の店主が「マスター」と呼んでいたので、おれもエルムのマスターは「親父」ではなく「マスター」と呼んでいる。
けれども、その建物はすっかり姿を変えて、何やら黒い大学の施設になっていた。そこを通過して、正面に赤い自動販売機が健在なのに喜んだのも束の間、毎日使っていたファミマが郵便局になっていた。ウルトラロン毛でどじょう髭を生やしていた店員さんはどうなったのだろう。ってか、郵便局はおれが住んでた部屋のほぼ真正面にあったはずなんだけど、あれは何になったんだろうかと、ちょっと興味を持ちつつ、かつての自宅へ向かう。途中、よくお喋りの相手になってもらった美容院のまえを通りかかると、不動産屋になっていた。移転するという話は聞いていたのでショックはなかったものの、やはり寂しかった。
で、住んでた建物について道路の向かい見てびっくり。なんかグッドモーニング・カフェとかいうおしゃれなカフェーができていた。裏の天津が店を閉めたのは風の噂に聞いていたが、「まほうつかいのでし」は?(2013年に閉店していた。)ちょくちょく使っていたので消えててショック。
さらにショックだったのは、大隈商店街の出口のあたりに行列が見えたことだった。万が一勘違いだとなんなので、念のため列の最後尾の人に尋ねてみた。「この行列って?」その人はひと言こう言った。「エルム」
雨なのに。
めちゃくちゃ寒いのに。
今4時なのに。
エルム待ちの列は交差点に達して曲がっていたのである。本気で驚いた。列に並んでぼんやりあたりを眺めたら、入学した段階で明日にも潰れそうと思っていたCDショップがまだ健在でそっちも素で驚いた。頑張ってるなあ。
列に並び、雨に降られながら、まず最初に思い出したのは、マスターが「始めた頃なんて一日やって客が十人とか言う日もあって、あれにはめげた」と言っていたことだった。記憶違いで人数はもっと少なかったかもしれない。当時もピーク時の混雑は大したものだったので、「そんな時期もあったんですねえ」なんて言っていたのだが、その閑古鳥が啼くところから始めて34年経って、今やこの行列だ。マスターの努力とその豊かすぎる実りを思って、よかったなあとしみじみした。まだしみじみする余裕があった。天候を考えると、ほんとうに豊かすぎる実りだとも思ったが。うしろの人なんて九州から戻ってきたとか言っていたうえに2時間待ちの時点で挫折してその場を去って行ったのだ。
列は進まなかった。店はマスターひとりで切り盛りしている。レジに立てば調理は止まる。皿洗いをしているあいだも調理は止まる。4時まえに早稲田駅に到着したときは、「昼飯をもっと少なくしておいたほうがよかったかなあ」などと余裕なことを考えていたおれが明るい景色のなか並んだ列は日が暮れて、空腹感を感じるようになったときにも、まだまだ先が長い状態だった。TDLではありません。エルムです。
最初の1時間半くらいは、昔のことを思い出していた。
大学時代のいちばん幸せな瞬間を思い出そうとすると、いつも出てくるイメージがある。さっきも書いたような、夏にビール飲んでたときの一場面だ。流れはすっかり忘れているのだけど、そば屋の店主が店の手伝いをしてもらっていたカノジョを肩車し、それを中国人の店員さんとエルムのマスターとおれが笑って眺めている。店主も笑っていて、肩車されたカノジョもとまどいつつも笑っている。そんな画だ。
それがあったのはもう大昔のことで、エルムのマスター以外誰も早稲田にはいない。覚えてるのもおれだけなんじゃないかと思うんだけど、当時その場で、たぶんこれは将来、セピア色の記憶になって思い出すような場面だろうと思った(し、案の定、そのとおりになった)。あのときの空気はとても平和でハッピーだった。
チャンスがあれば、マスターにあの肩車を覚えているか訊ねたいと思った。趣味で描いているんだと言って見せてくれた大隈講堂の絵の話もしたかった。当時嬉しそうに息子さんの就職が決まった話をしていたので、その後順調かなんてことも聞いてみたかった。客がいないときにサービスしてもらったコーヒーのお礼も改めてしておきたかった。
チャンスがあれば。
列は進まない。雨は強くなったり弱くなったりするけれども、やみはしない。足元から冷えてくる。風は冷たい。念のためにヤクのマフラーとかリストウォーマーとかで防寒していた(余談だが、ヤクはモンゴルに暮らす動物でその毛で作ったマフラーとか帽子は無茶苦茶暖かい)が、下半身は割と無防備だったのは失敗だった。まえの方の女子はカイロを持っていた(賢い!)。うしろのグループはモスで暖かい飲み物をテイクアウトしていた。羨ましかった。
待ち時間が2時間半を過ぎた頃には、もはや何も考えてはいなかった。あとから振り返って考えるに、つくづくひとりで行ってよかった。連れがいたら、とてもこんな苦行に耐えろとは言えない。ほんとうに離脱しないで待ち続けた人たちの根性は賞賛に値する。同時におそらくみんなそう思っていたんじゃないかという気がするが、なぜ自分より前にいるやつの根性がもう少しやわでないのかと恨めしかった。おれは動かなくなった頭で何度も「おまえらエルム好き過ぎだろ!」と突っ込んでいた。たぶん後ろの人からは同じことを突っ込まれていたはずだ。
店の手前のマンションの入り口がちょっと奥まった位置にあって、列はそこで曲がり、そこにいるあいだは雨が避けられた。寒いことには変わりなかったが雨に濡れないだけで天国のようだった。で、そこにいるあいだに、まえからまわってきた色紙とノートにひと言書いていくのが自然発生的なルールとなっているらしかった。色紙は2枚くらいあって、それとは別にノートもあり、白いビニールに入れられていて、水性カラーペンが何色も用意されていた。みなさん熱心に書いていた(おれは何を書けばいいのかわからなくてパスした)。
7時を過ぎてやっと店のまえまで来た。昔と同じ看板、昔と同じメニューが移転後も使われていたのがわかった。カルボもいいが、よく食べたのはポークカレー。しかしピラフミートも捨てがたい。いっそ頼んだことのないハンバーグや生姜焼きにするか? などと思いつつ、改めて値段の安さに驚いた。ワンコインで食べられると思っていたが、それは大盛りにしたときの話で、価格は400円からいちばん高いので650円。当時650円のハンバーグは高値の花だった。よし、今日はハンバーグにするべ! そんなことも考えたが、エルムで食事をするのは今回が最後である。定番のカルボでなくていいのか。いちばん食べたカレーでなくていいのかと迷いに迷った。
店のなかに入った。L字のカウンターに人がずらりと並び、その真ん中でマスターがフライパンを振っている。髪が白くなったこと以外、記憶のとおりのマスターだった。カウンターに載った料理はカルボばかり。ひょっとしてカルボ縛りになっていて、マスターは注文なんか聞かずに機械的にカルボを作り続け、出し続けているのではないかと思うくらい、見事にカルボだけだった。それもエルムっぽい気がして、なんとなく嬉しくなった。それ以上に暖かったのが嬉しかった。
「あとどれくらい並んでる?」マスターが訊ね、「交差点の辺りくらい」と答えが飛ぶと、マスターは処置なしだという顔で首を振りながら、「もう材料なくなっちゃうよー」とぼやいた。そうそう、いつも早口の独り言を言いながら客をさばくのだ。これがエルムだ。
「カルボ大盛り」
「カルボ大盛り」
「カルボ大盛り」
「また大盛りなのか、もう材料なくなる。大盛りだと三人分ずつしか作れないんだからな」
マスターのぼやきは、少なくともおれとオーダーするとき一緒だったふたりに関しては完全に無視された。あ、おれも無視した。
移転前には見れなかった角度からマスターがカルボを作る様子を眺めた。まず卵を3つ割り、軽く溶いてフライパンに放り込む。ある程度たまごが固まったところでパスタを投入(細かい見落としはあるかもしれない)。そのあと、謎の粉の入った缶を3つ(塩? こしょう? 味の素?)順番に振りかけていった。ずいぶんと大量だった。
出てきたカルボ大盛りは、昔に比べてちょっと少ない気がした。値上げしていないんだから無理もない話だ、というか、単純に材料の残量に不安があったのかもしれない。けれども、味は昔より美味しくなってる気がした。空腹がスパイスになっていたとも考えられるけれども、試行錯誤の成果にも思えた。記憶では味覚が衰えないように時折亜鉛を舐めたりして舌のケアをしているという話だったから。
みんな無言で食べ、店のなかはマスターの独り言だけが響いていた。エルムだなあと思った。
結局、レジで支払いを済ますときにも「ごちそうさまでした」とひと言言っただけで会話はできなかった。まだ、ひと皿のカルボを食べるためだけに、あの糞寒い地獄のような風雨に耐えている人の列が続いているのである。悠長に昔話をするような雰囲気ではなかった。おれが待っている側であったら、絶対に思い出話なんか仕掛けて欲しくない。食ったら帰れである。
それともうひとつ、フライパン振ってるマスターを見て思ったことだったのだが、こっちはもう早稲田のすべてが過去の思い出だけれども、マスターにとってはずっと現在で、懐かしいなんて感覚がこれっぽっちもあるわけがなかった。戦場はまさに今ここにあるのだ。7時終了の店で7時半に新しいパスタをゆで始め、肉を刻みだしているのである。そんでもって、この最後の大一番は、あと数日続く。昔話をしようなんて時期尚早だったのだ。まだ昔になんかなってないんだから。
来週中にエルムは閉まる。最長で25日と言っているのが聞こえた。それを過ぎたら、マスターにとってもエルムは段々昔の話になるだろう。もしかすると、ネットで店の名前を検索するかもしれない(本人はしなくても、息子さんが検索するかもしれない)。そうしたら、この記事を読むかもしれない。書いているおれが誰だかさっぱり思い出せなくて首を捻るかもしれない(年に1万人前後の新入生がやって来る学生街で34年も学生の腹を満たしてきたのだから当たり前の反応だ)。それでも、こんな長々とした文を綴るくらいだから、きっとうちの店が好きだったんだろうと思ってもらえるかもしれない。そんなことを夢想しながら、この記事を書いた。
マスターが今後も元気でいてくれたら、こんなに嬉しいことはない。ジーンズで自転車に跨がって絵を描きに行くようなマスターの姿を想像しつつ、この稿終わり。
追伸:今日並んでいた皆様。ほんとにお疲れ様でした。あんな悪コンディションのなか、カルボのために立ち続けたみなさまのエルム愛には、深い感銘を受けました。正直、(おれもだけど)あんたらみんなおかしい!←全力で賞賛しています。
追伸の追伸:今日は20時50分に食材切れで閉店したらしい。200分並んで食べられなかった人もいたとか。おれなんて、まだラッキーだったのか……。ほかの人もですが、食べられなかった人は特に、風邪など引きませぬようご自愛ください。