ゴーゴリ 浦雅春訳『鼻/外套/査察官』

鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)
ゴーゴリ 浦 雅春

4334751164
光文社 2006-11-09
売り上げランキング : 6791
おすすめ平均 star

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
「鼻」(1836年)「外套」(1842年)「査察官」(1836)の三本を収録。この中でもっとも有名なのはおそらく「外套」でドストエフスキーロシア文学はこの作品から始まったと言ったとか。現在流通している岩波文庫版は青空文庫にも入っているので、冒頭を引用してみたい。

 三月の二十五日にペテルブルグで奇妙きてれつな事件がもちあがった。ウォズネセンスキイ通りに住んでいる理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチ(というだけでその苗字は不明で、看板にも、片頬に石鹸の泡を塗りつけた紳士の顔と、【鬱血(こり)もとります】という文句が記してあるだけで、それ以外には何も書いてない)、その理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチがかなり早く眼をさますと、焼きたてのパンの匂いがプーンと鼻に来た。寝台の上でちょっと半身をもたげると、相当年配の婦人で、コーヒーの大好きな自分の女房が、いま焼けたばかりのパンを竈から取り出しているのが眼についた。

 ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。今日では総じて自分一個が侮辱されても、なんぞやその社会全体が侮辱されでもしたように思いこむ癖がある。つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて、その中には、国家の威令が危殆に瀕していること、警察署長という神聖な肩書がむやみに濫用されていること等が明記されていたそうである。しかも、その証拠だといって、件の上申書には一篇の小説めいたはなはだしく厖大な述作が添えてあり、その十頁ごとに警察署長が登場するばかりか、ところによっては、へべれけに泥酔した姿を現わしているとのことである。そんな次第で、いろんな面白からぬことを避けるためには、便宜上この問題の局を、ただ【ある局】というだけにとどめておくに如くはないだろう。さて、そのある局に、【一人の官吏】が勤めていた――官吏、といったところで、大して立派な役柄の者ではなかった。背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、それに目がしょぼしょぼしていて、額がすこし禿げあがり、頬の両側には小皺が寄って、どうもその顔いろはいわゆる痔もちらしい……しかし、これはどうも仕方がない! 罪はペテルブルグの気候にあるのだから。

 どちらも淡々と始まる。このバージョンで自分も昔読んだのだが、その時にはむしろすっとぼけたストーリーの「鼻」の方がまじめくさった「外套」よりも面白いという感想を持った。間違いだった。どちらもすっとぼけたお話だったのだ! すくなくともそうした面を内包した小説であったらしいのである。
 ロシア・フォルマリズムの代表的な文学研究者エイヘンバウムによれば、ゴーゴリの特異性は「語り」、つまり言葉遊びや語呂合わせなどの側面にある*1。こうした要素はストーリーに較べて移植するのが難しいのだが、今回の本の訳者は果敢にもそれに挑戦した。まず「鼻」の出だしはこうなる。

 なんでも、三月二十五日にペテルブルグで奇妙きてれつな事件が起こったそうであります。ヴォズセンスキー大通りに住んでおります床屋のイワン・ヤーコブレヴィッチ……、といっても、この人の名字が分からない。もちろん店には看板が出ておりまして、そこには頬に石鹼を塗りたくった殿方が描いてあって、「瀉血も承ります」なんて能書きもあるんですが、それ以上何も書いてない。その床屋のイワン・ヤーコブレヴィッチ、この人がかなり早く目をさましますってえと、焼きたてのパンがプーンと匂ってきた。寝床の上で少し起きあがってみますと、かなりご立派なご婦人で大のコーヒー好きのおかみさんが、たった今焼き上がったばかりのパンをかまどから取りだしているところです。

 「外套」だとこんな感じ。

えー、あるお役所での話でございます……。まあ、ここんところはそれがどこのお役所であるのかは申し上げないほうがよろしいでしょうな。なにしろ、省庁にしろ、連隊にしろ、官庁にしろ、ひとことで申しまして、お役人ってえ人ほどこの世で気のみじかい人はございませんから。きょうびどんな人でも、ご自分が侮辱されるってと、すぐさま自分のお仲間までが侮辱されたと受け取っちまう。なんでも、つい先だっても、どこの町だかはおぼえておりませんが、ある郡警察署長から苦情書なんてものが舞い込みまして、そのなかで当の署長は、このままでは官庁は危殆に瀕するにちがいない、神聖なるその人の名がみだりに取り沙汰されていると訴えているそうであります。その証拠に苦情書には、ばかでかい小説の一書がそえられておりまして、そのなかで十ページおきに、あまつさえところによってはへべれけの酔態でその郡警察署長なる人物が登場している。というわけで、あたくしも不愉快な目にはあいたくあいりませんので、これからお話する役所についても、とある役所とよばせていただくことにいたします。
 さて、そのとあるお役所にとあるお役人が勤めていた。お役人と申しましても、別段大それた人物じゃあない。背丈は寸足らず、いささかあばた面に、髪は少々赤茶け、それどころか見たところ目も少々わるいらしく、額の上には五銭玉くらいの禿があって、両のほおはしわだらけというご面相、顔色はいわゆる痔持ちの色というやつであります。いや、こりゃあどうにも致し方ない。ペテルブルグの気候のせいです。

 一読明らかなように、訳者はゴーゴリの小説を「落語」調で訳している。これが素晴らしい発明で、特に「外套」は語り手を前面に出すことで、別物かと思うほど魅力的な作品へと生まれ変わっている。この訳によって読まれる「外套」はもはやうだつの上がらない役人が無理して買った外套をかっぱらわれて死んでいくという寒々しい話ではない。AMAZONのレビューでひとりも言及しなかった死んだあと幽霊になって外套をかっぱらって回るラストまでがしっかりと組み込まれたストーリーになっている。
 これだけでも光文社の新訳古典文庫の創刊には意味があった。そう思わせる本であり、是非とも今後出版される作品も、新たな試みを盛り込んで欲しい(それが常に成功するとは限らないんですが)と思わせる一冊だった。

追記2013/12/27:キンドル版が出ていた。価格は641円。
鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)
ゴーゴリ 浦 雅春

B00H6XBC1U
光文社 2006-11-20
売り上げランキング : 12597

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

*1:解説に拠る