はやみねかおる『そして五人がいなくなる―名探偵夢水清志郎事件ノート』

そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノ-ト (講談社青い鳥文庫)
はやみね かおる

4061473921
講談社 1994-02
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 1994年作品。知り合いの小学生が「面白い!」というので読んでみた。さらにその話をしていたら、後ろから別の人が「あれ面白い!」とドルビー・サラウンドに反応してくれたりしたもんだから、こりゃ面白いに違いないと判断したわけである。

 それは四月の一日――よく晴れたエイプリル・フールの日のこと。
 わたしたちの町に、名探偵が引っ越してきたの!

 という宣言から始まる探偵物語。ワトソンは中学生の女の子、名探偵はとなりの洋館に引っ越してきた黒ずくめの「教授」夢水清志郎。表に出した表札には「名探偵」と書かれている。ワトソン役の女の子は隣の名探偵が気になって思わず突撃。出てきた夢水(身長180センチオーバー、瘦せ形、黒の背広にサングラス、元大学教授で専門は論理学)はその子を招き入れ交流が始まる。
 以下、女の子による夢水清志郎観察ノートより。

  • 夢水清志郎はプレゼントに弱い
    • 何を持っていったのかは不明だが、女の子がお母さんから預かった引越祝いを見て、すぐに家の中に女の子を通してしまった。
  • 夢水清志郎に常識はない。
    • 自分で自分のことを名探偵ですと名乗り、研究室とアパートに本を溜め込みすぎて追い出され、人間に必要なものは「本と、それを寝ころんで読むためのソファー」と言い切る辺りからそう判断されたらしい。
  • 夢水清志郎は、食事をわすれるくせに意地きたない。
    • 引っ越してきて三日目、なぜかフラフラしている清志郎。理由はご飯を食べてなかったから。にも関わらず、何か食べさせてもらうとなると「京風の石狩鍋」が食べたいなどと言い出して、そう判断された。
  • 夢水清志郎はパジャマを持っていない。
    • いつも黒背広にサングラスのいでたちでソファーに寝ているのでそう判断された。
  • 夢水清志郎は、食事にいろいろ注文をつけるが、それでも好ききらいなく、なんでも食べる。
    • そういうことだ。

 ここからワトソン役の女の子は「夢水清志郎は名探偵ではない」と結論するが、その後名探偵である認めるに到る。清志郎がはじめて探偵能力を披露する24ページはなかなかパンチが効いている。
 これが四月のお話で、メインは夏休みの遊園地「オムラ・アミューズメント・パーク」で起こる連続誘拐事件。伯爵を名乗るマジシャンが、子供たちを次々に消失させる。はたして普段ゴロゴロばかりしていて、自分の生年月日も忘れてしまう「名探偵」にこの事件が解けるのか?(まあ解けなきゃ推理小説は終わらないわけだけど)
 うん、人気があるのも頷ける。自分的には、最初にさらわれる天才ピアノ少女みさちゃんの家の前で清志郎の言った台詞に好感を持った。

ぼくは名探偵です。犯人をつかまえるだけの警察とは違います。きっと、みさちゃんがいちばん幸せになれるように、事件を解決しますよ。

 大人向けの名探偵は事件を解決した結果、どうなるのかということは無視する。例えば「獄門島」の金田一が、大混乱に陥ったであろう村からさっさとずらかるように。そうした「事件の解決なんて、所詮解く側の満足に過ぎないんじゃないの?」ってテーゼをバーンと見せたのが初期の「トリック」だったが、これは脱線。
 とにかく出しているレーベルの縛りなのか、作者のこだわりか、名探偵夢水清志郎が目指すのはただの解決ではなく、ハッピー・エンディングなのだ。
 またワトソン役の女の子が夢水のことを気に入る理由も、小学校の教師をやっていたという経験からか、実に普遍的な理由を設定していると感じられた。そりゃ読者は夢水清志郎みたいな人にそばにいて欲しいだろう。子供に「大人の願い」を託したような話なのではなく、こどもが求める大人を出現させたところに、本作の成功があった*1。それだけに次の箇所は少し寂しく思えた。

あー、いやだ、いやだ。どうして、わたしのまわりにいる大人は、みんな、へんな人ばかりなんだろう。

 裏返せば、当然子供の回りにいる大人たちは、決して子供の求める大人ではない、ということだもんねえ。

 という実によくできた「児童向け推理小説」である本書。しかし皆さん、こんな言葉を御存じか?「良き子供向けの物語には毒がある」。以下、本書の対象読者向けではない、読書感想文。ろくなこと書いていないので、ファンの方は読むのを止めておきましょう。大量にあるシリーズの最初の一冊しか読んでない人間が思いついたデタラメ読解ですし。
 普通に頷ける感想を読みたい方は児童書読書日記とかヒビノキロクへ行きましょう。どちらに書いてあることも妥当だし、非常に頷けます。できれば本書読了後に読んでもらいたいけれど。


 はい、先に警告を出しました。ファンのみなさまは退出してくれたことと存じます。では続き。
 自分がはやみねかおるの名前を知ったのはかなり最近で、辻真先の「盗作・高校殺人事件感想)」の解説で初めて文章に触れた。そこではやみねかおるはこう書いている。

『仮題・中学殺人事件』、本書、『改訂・受験殺人事件』の三部作の中で、ぼくは、本書が一番好きなんです。

「盗作・高校殺人事件」は確かに面白いが、上の三部作の中で、もっとも重たい主題、皮肉な結末を織り込んだ作品
だ。これを愛するはやみねかおるが、毒のない話など書くだろうか。否、断じて否である。
 しかし一見すると、本書に毒などは見当たらない。
 それは見事なカモフラージュが施されているからなのだ。何が読者の目を欺いているのか、一人称の語りである。一人称の語りと三人称の語りの違いは、描写の自由度の違いとして現れる。三人称視点であれば、作者は例えば庭の花や木なども好きに描写できるが、一人称であるなら、語り手の知識を越えた描写は行えない。
 そして本作は幾分変則的な一人称を語りに採用することで、同時に数カ所で起こるイベントには過不足なくカメラが走り回ることを実現しつつ、語り手を中学一年生にすることで、知識や観察力に制限を加えておくという具合の設定が為されている。これによって隠されているものこそ、はやみねの仕掛けた毒なのだ。
 この制限をとっぱらって物語を見つめ直すとき、事件そのものは解決されたものの、いまだ解かれ得ぬ謎が残っていることに我々は気付かざるを得ない。

  1. なぜアパートの家賃を払えない夢水が洋館に住めるのか?
  2. なぜ母親はワトソン役の女の子にひとりで挨拶に行かせたのか? またあずかりものはなんだったのか?
  3. なぜ夢水は自分の誕生日を憶えていないのか?
  4. なぜ夢水はワトソン役の女の子の母親がカレーを作ったことは忘れないのか?
  5. なぜ警視総監は夢水に便宜を図るのか?
  6. なぜ夢水のコメントはテレビで流れたのか?
  7. なぜ夢水への抗議の手紙は「にせ名探偵を追放し、あわせてAIDS撲滅を率先する会」から届いたのか?
  8. なぜ伯爵はあれだけ大がかりな事件を起こせたのか?

 他にもあるかもしれないがとりあえずこれくらいの謎は残されたままだ。さらにこれらを検討することで現れてくる謎に「夢水清志郎は本当に名探偵なのか?」というものがある。
 まず初めの謎から考えていこう。家賃を払えなくてアパートを追い出された人間の行く先として、古びた洋館(しかもとなりはエリート商社マンの家なのだから格安であってもある程度以上の値段はするだろう)は相応しいだろうか? 明らかに不自然である。事件の年代はどこにも記されていないが、本書の出版は1994年2月。するとその前年1993年が年代設定としては妥当だろうと思って、こよみのページで調べてみたら、みさちゃん誘拐事件が起きる8月1日が日曜日、1992年は土曜日になっているので、1991年以前の話であるのが分かった。というのも、こんな会話が展開されているからである。

「で、小村さん。このオムラ・アミューズメント・パークは何時に閉門するんですか?」
「土、日にはナイト・イベントがありますが、今日は平日だから、六時に閉めます。」

 そしてワトソン役の女の子の家にはNBAのポスターが貼ってあることや、ポケベルへの言及があることなどからも1991年を物語の推定年代にするのは妥当だと思われる。というのもバスケットボールの認知度を爆発的に押し上げたスラム・ダンクの連載が1990年後半からだからだ。つまり、本作品は第一次湾岸戦争が正式に終わろうとするころから始まり、事件が起こっているあいだにソ連の崩壊が始まっていたということになる。
 国内はどうだったか? この年の五月にジュリアナ東京がオープンしている。時代はバブル末期。この時期にアパートの家賃を払えないような人間が、洋館に引っ越すというのは、信じがたい話だ。ではどうしてこの設定が受け入れられるのか、語り手が中学生だからである。
 逆に言えば、夢水は彼女に引っ越してきた理由で嘘を言っている。そう取って良いのなら、「なぜ夢水は自分の誕生日を憶えていないのか?」という謎も謎にはならない。これも嘘だからだ。そもそも記憶力に問題があって探偵などできるはずもない。語り手に中学生を採用したのは、こうした無理な設定を流すためである。
 ではどうしてこのような嘘を言う必要があったのか? それを検討するためには、他の謎を見なければならない。
 それは「なぜ母親はワトソン役の女の子にひとりで挨拶に行かせたのか? またあずかりものはなんだったのか?」として書いた不可解な母親の対応である。
 誰も住んでいなかった洋館に、独り者の男が移り住んできた。表札には名探偵と書かれている。好奇心が刺戟されるのは分かるが、なぜ母親は娘ひとりに様子を探らせたのか? しかも娘は四日連続で夢水の家に入り浸り、夏休みも行動を共にする。しかしこの頃はまだ宮崎勤事件の残響も生々しく「有害」コミックの規制などが喧伝されていた頃である。この時期の母親が、ひとりものの変人が住む洋館へ毎日のように娘が通い、さらにはホットラインの糸電話までひいてしまうことを危惧しないというのは、どういうことだ? しかも謎のあずかりものを持たせることで、娘と夢水の接触を促してさえいるのだ。
 この不可解な謎に対する一番シンプルな答え、それは母親と夢水がもとから知り合いであるということだろう。であればこそ、母親は安心して娘を放っておけるのだ。
 ところがふたりが以前からの知り合いであるという話は一切出ていない。ただ夢水が母親には頭を下げるし、カレーをごちそうになる話を忘れずに、ステーキの誘いを断って帰るというエピソードがさりげなく書かれているだけである。これこそが一人称を採用した作者の戦略なのである。つまり読者は語り手の認識しないことは読めない。作者の設定のうち、語り手の知覚の外にあることは隠される。でありながら、そこにあるもの。それこそが本作の毒である。
 結論を言えば、ワトソン役の女の子の母親(三十五歳でそうは見えないほど若くてかわいい)と夢水清志郎(年齢不詳だがぱっと見三十歳程度)はデキている。
 そうした関係を想定したとき、この物語は一気にその姿を変えるのだ。なぜ夢水はアパートの家賃を払わなかったなどという嘘を吐くのか、引っ越しと退職の理由を悟られたくないからである。おそらくそれは母親との関係が露見するスキャンダルだった。なぜ母親は娘をわざわざ夢水の元へ出向かせたのか、それが一番自然に「引っ越してきた夢水さん」との関係を構築できるからだ。実際その後、夢水は自分の家に電話がないという理由でワトソン役の女の子の家の電話を使い、一書にテレビを見たりしている。ちなみに旦那@エリート商社マンは「海外行きもしょっちゅう」で家族と顔を合わせる暇もない。笑ってしまうほど典型的なシチュエーション。
 といえば、反論もあるだろう。花火大会の日、母親は父親と花火大会に出かけ、「ばっちりおめかしして」出ていったじゃないかと。しかし我々大人は知っている。人間はやましいときほどキッチリと相手にサービスしようと務めるのだと。
 そして作者の意地悪な筆はさりげなくこんな場面を挿入する。

「教授も、だれかいい人見つけて、花火大会にいけば良かったのに。」
 わたしに言われて、教授がビールにむせる。
「そういうきみたちはどうなんだい? だれもデートにさそってくれなかったから、ここでぼくに遊んでもらっているんだろ。」

 もちろんここで夢水の動揺はやましさとしては描かれない。語り手がそう知覚していないからだ。が、もしもふたりの関係がなりたつのなら、この場面も違った影が差してくる。つまりこの話は、中学生の語り手というフィルターを通して描かれる一種ファンタジーめいた物語の向こうに、意地の悪い大人たちが子供に隠し事をし続ける話としても読めるのだ。
 無論、「なぜ夢水への抗議の手紙は「にせ名探偵を追放し、あわせてAIDS撲滅を率先する会」から届いたのか?」という謎の結論も明らか。別にどんな団体からの手紙でも良いこの場面に「AIDS撲滅」というフレーズを書き込んで見せたのは、これが「にせ名探偵」のお話で、AIDSを縁語とするような話でもあることをそれとなく示唆しているからなのである。
 このように並べてきたとき、当然次の疑問は「であるならば、最初に夢水が見せた探偵としての能力も、本当に観察と推論によるものだったのか?」ということになる。この前提があるならば、夢水の推理は推理ではなくなるからだ。落ち着いて考えれば、予告された被害者の割り出しもワトソン役の女の子がしているし、伯爵との事前の打ち合わせも行われている、しかもそれはワトソン役の女の子の家の電話でである。ここに連絡を寄越すために伯爵はどこかで夢水の連絡先を入手していなければならない(しかもそれは隣の家なのだ)。状況から考えて夢水が事件を推理で解いたと考えるのは難しい。
 そしてこの二重に編まれた物語に潜むこうした毒こそが、子供たちの願望を叶えてくれるような表の物語の隠し味となって、圧倒的な支持を受け続けているのだ。ただ光があるだけの景色にはなんの魅力もない。読者である子供たちはどこかで知っているのである。ここに描かれる明るく夢のようなお話は、いつ崩れるともしれない脆く儚い嘘の上に成立していることを。本書が建前的なメッセージだけを並べた退屈な物語でないことを。何しろ夢のようなお話に起こる優しい事件を解き明かす名探偵は「夢を見ない」という名前なのだから。


 なーんてね。
 万が一にもファンの方がここまで読んでしまった場合、あくまでもこれは適当な思いつきであるということをご理解していただきたく。どんなジャンルであれ、小説というのは色々な角度から覗くことができるものであるほど、またいろいろな角度から読む誘惑を持つものであるほど傑作だと自分は思ってます。そういう意味でもこの本がとても面白かったのは、間違いありません。やっぱり読まれるものにはそれなりの理由があるということを再確認しました。はい。

追記2016/03/02 キンドル版が出ていた。確認時の価格は486円。
そして五人がいなくなる 名探偵夢水清志郎事件ノート
はやみねかおる

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*1:ところで大人視点で見たときに一番良いキャラクターなのは夢水ではなくて、むしろ上越警部だ。この人は実に渋い。ラストシーンの台詞がたまらない。