ペニー・ガム法

 私家版・ユダヤ文化論より。
 自動販売機にペニー硬貨を投じるとガムが出てくることを、「銅がガムに変化した」と推論する思考方法のことを「ペニー・ガム法」と呼ぶらしい。命名者は分子生物学者のルドルフ・シェーンハイマー。
 この思考法は陰謀史観と相性がよい。百円を入れれば百円分の二百円を入れれば二百円分のガムが出てくるなら、

ということは、「帝国の瓦解」というような巨大な「ガム」の出力があった場合には、それにふさわしい「帝国規模の侵攻」が「ペニー」として入力されていなければならないことになる。

私家版・ユダヤ文化論

 こうした思考法に基づく歴史解釈が陰謀史観だと内田は言う。これに駄目出しすることは正しい。すべての結果から単一の原因が導き出せるわけではないことは当たり前だから。「けれども、この考え方を根絶することはできない」と内田は続ける。こうした「正しくないけれど人間の本性に根付いた信憑」を過小評価するのが、「正しい政治理論」を語る人々に共通する傾向だが、

むしろそのようなものを要請せずにはいられない人間の心性の構造を解明し、それがもたらすネガティヴな効果を最小化することに知的リソースを集中する方が経済的だろうと私は思う。

 なぜなら、ペニー・ガム的思考を過小評価した考え方は理論的には正しくても現実から乖離したものになりがちだからだ。
 ここからは私見だが、ペニー・ガム的思考を根絶できないのは、これがすごく便利で我々がそれなしではやっていけないほど、この思考法になれ親しんでいるからだ。この論法の肝は手持ちのデータだけを使って推論するというところにある。自動販売機のシステムを学ぶよりも「銅がガムに変化した」と考える方が簡単だし、それを飲むなり誰かに持って行くなりするという次のステップへ早く移行することができる。決してペニー・ガム的思考に手を染めない人は、原因も結果も推測できないグズにしかなれない。ペニー・ガム的思考とは有限の時間で処理できる案件数を増やすために採用された知恵なのだ。
 もっとも「短絡的な思考」でなければペニー・ガム的思考とは呼ばないのかもしれないが、問題は自分の考えがペニー・ガム的思考であるか、そうではないかの判断を当人が下せるようになるのは、判断してから時間が経ったのちのことだということで、判断の瞬間にはそれがペニー・ガム的思考かもしれないと疑うことはできても、そうだと思えずペニー・ガム的思考から導き出される結論に乗るしかないということが往々にしてある。
 これは原因の推論だけでなく、結果への推論にも当てはまる。

 また我々は大して興味のないことであればあるほど、原因にも結果にもペニー・ガム的思考を当てはめる。より正確には自分の判断の根拠にした採用モデルがペニー・ガム的かどうかを考えない。
 中学生が自殺すればいじめが原因だし、何を言ってもアサヒは駄目なのだ。
 こうした思考法を糾弾するのは「正しい」が、やはり現実からは乖離しているだろう。
 問題は大半の人にとって大して興味のないことへの考え方にすぎないものが、一部の人にとっては甚大な影響を与えるというところだ(追記2019/04/17このあと、例を出していたのだが、つまんなかったから消した)。
 おそらくペニー・ガム的思考は、ひとりの人間がそれを行っているかどうかを問題にするよりもあるトピックに関してペニー・ガム的思考を行う人の割合がどれくらいいるかという方を重視して考えられなければならない。みんなが同じ推論をするという場合、そのことによってペニー・ガム的思考である可能性は隠蔽されるからだ。
 ところで、ルドルフ・シェーンハイマーは1941年に自殺したそうなのだが、そのころガムの自販機なんてあったのか? というのが疑問だった。