内田樹『私家版・ユダヤ文化論』

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
内田 樹

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文藝春秋 2006-07
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おすすめ平均 star

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 PCトラブルの衝撃で、読んだことを忘れそうになったんだけど、覚えてることだけでもメモしておこう。なかなか面白かったはずなのにさっぱりわからない不思議な本。
 本書は、作者によれば「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か? という問いへの論考である。そしてこんな主張から本書は始まる。

私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、ユダヤ人」というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念である*1ということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除する必要があるということ、この二点である。

 つまり、我々がたとえば「日本人」というときに思い浮かべるような集団カテゴリーをユダヤ人に当てはめてもうまくいかないと内田は言う。
そうなるといったいどうイメージしていいのか分からないなあと思っていたら、本はユダヤ人は誰でないかという絞り込みを始める。つまり

 第一にユダヤ人は国民名ではない。
 第二にユダヤ人は人種名ではない。
 第三にユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。

 三つ目まで否定されたらいったいユダヤ人とは何者であるのかと思ったら本書で採用される定義は次のようなものだった。

私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。

 ちなみにウィキペディアユダヤ人定義はこんな感じ。

古い民族の「ユダヤ人」と、ユダヤ教徒の「ユダヤ人」は同一ではない。現代イスラエル国の帰還法によれば、母親が「ユダヤ人」であるか、ユダヤ教に改宗した人のこととされる。一方、トーラーによると、ユダヤ人であるためには母親がユダヤ人でなければならない。

ユダヤ人 - Wikipedia

 本当にこの定義くらいしかないのだとしたら、確かにユダヤ人とは誰なのかを考えるのは難しい。ユダヤ人であるためには母親がユダヤ人でなければならないとするなら、その母親をユダヤ人とみなすためには、さらにその母親がユダヤ人でなければならずと延々続いて行って結局「ユダヤ人とは誰か」の答えになりえないからだ。なぜなら「最初の母親」がユダヤ人かどうかをどうやって判定するのか、この定義では分からないからだ。
 で、こっから近代の反ユダヤ主義の流れや日本における日猶同祖論などを軽くさらいつつ、何が人を反ユダヤに向かわせるのか、という考察が続けられる。要するにユダヤ人の持つ他者性とはどんな種類のものかという考察だ。
 そこらへんの話は自分には知識がないので何も言うことはないのだが、印象深かったのがユダヤ人の持つ神のイメージは「救いのために顕現する」ものではなく、「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」ものであるというレヴィナスの言葉で、となるとそこでイメージされる神とは父なる神というよりはトレーナーのような神なのかとちょっと新鮮な気持ちがした。
 もうひとつ印象に残ったのが引用されているサルトルの分析で、こんな風に書いてある。

ユダヤ人は勇敢であるこか怯懦であるかを選ぶことができるし、悲痛であるか陽気であるかを選ぶことができるし、キリスト教徒を殺すことも愛することもできる。けれども、ユダヤ人でなくなることを選ぶことだけはできない。もし彼がその道を選び、ユダヤ人などというものは存在しないと宣言したとしても、彼の内なるユダヤ人的性格を暴力的に、絶望的に否認したとしても、まさにそのふるまいを通じて彼はユダヤ人となるのである。

 内田のまとめはこんな感じ。

ユダヤ人は自分のユダヤ人性を否定することで、ユダヤ人性を露呈する(そんなことをするのはユダヤ人しかいないからだ)

 それに対して、反ユダヤ主義者は「自分が何者であるかをあまりに深く確信しているために、それについて考える必要がない人間」のことである。つまり「反ユダヤ主義者は自分が何者であるのか、この社会でどのような社会的機能を果たしているのか、他者とどのようにかかわっているのか、自分にはどのような歴史的使命が託されているのか……といったことをまったく考える必要」がないのだそうである。

 これはしかし、ユダヤ人問題だけに当てはまる構図ではない。おそらくすべてのマジョリティ対マイノリティはそういう対立構造がある。この地点でようやくユダヤ人の問題というのを読む意味を見つけることができたように思った。サルトルからの引用に「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。」というのもあった。これもマイノリティ認定された人間の宿命のようなものだ。「「ユダヤ人」というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念である」という宣言から始まっている本書のこの辺りを読むときに自分が利用したモデルは正直、オタク/非オタクの構図だった。別にオタクでなくてもいいわけだが、社会のマジョリティへの同一化ができず、さらにはマジョリティからラベリングされた個人は、どうしたってそのラベルに対する考察をせずにはいないだろうし、その考察の結果と自分を比較してラベルから逃れようとするだろう。あるいはラベリングを受け入れて自らの特別性にすがろうとするだろう。いずれにせよマジョリティには縁のない振る舞いだといえる。
 たとえばある人間にオタクでもネット右翼でも左翼でも在日でも、なんでもいいが負の表象のこもったラベルを貼り付けるとき、ラベルを貼られた人間から「ではおまえは何者か?」と問われるなら、ラベルを張った人間はおそらく「俺は普通」と答えるが、そのときの普通ほどあいまいで厳密な定義を必要としない言葉はない。それは何者でもないというのとおそらく変わりはないのだが、この文脈では特別であることこそ否定されることなので、普通と答えるその人は、なんの違和感も覚えない。
 もちろんどんな場面でも「普通」で押し通せる人間はそれほどいないだろうし、「普通でないこと」がプラスイメージに取られる局面では彼らは平然と自らを普通でないと言うだろうし、そのことにも違和感を覚えないだろう。なぜならそれは他者から押し付けられたラベルではなく、自らぶら下げたものだからだ。そう考えるなら、「自分が何者であるかについてに関する名づけの自己決定権を持つ」ということがマジョリティの特権なのかもしれない。
 ってぜんぜんユダヤ人と関係ない話を延々続けているのはもちろんこの問題に関する知識がないからだ。そして本書を読んでもちっとも分からなかったのは作者の戦略とこちらの無知の相乗効果なんだろう。なにせ論旨よりも「へえこんなところでイノベーティヴなんてカタカナを使うんだ。そういえば内田樹の文はカタカナや漢語の使い方が上手いよなあ」とかそんなことばっかり考えて読んでいたのだから、本文に関して有益な思考をめぐらせるなんてことはできるはずもないのだった。
 そしてこの文を書いている間にatokもほとんど初期化状態になっていることに気づいた。どんだけ単語登録したと思ってるんだ、くそう。

*1:原文傍点