フアン・ルルフォ 杉山晃・増田義郎訳 ペドロ・パラモ

ペドロ・パラモ (岩波文庫)
フアン ルルフォ Juan Rulfo 杉山 晃

4003279115
岩波書店 1992-10
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 本屋で見かけたとき、保坂和志が「小説の自由」で褒めていた本だなあと思って購入。あらすじはこんな感じ。

ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。(解説=杉山晃

 断片化された物語が時系列をバラバラにして語られる、どころか、様々な声が断片としてまとめられた文の塊で椅子取りゲームでもしているかのように挿入され、かなり早い段階で話の全体像を把握するのは諦めたのだが、最後まで読み通せたのは訳文が読みやすかったからで、訳者はこれに十年かけたらしい。時間をかければいいというものではないが、時間をかけなければ辿り着かない境地というものも、きっとあるはずで、できあがったものを見るに、訳者のかけた時間は、それに値する結果をもたらしたと感じたれた。
 んで、そんな訳者が言うには「ペドロ・パラモ」は失楽園の話だというのだから、きっとそうなんだろうと思うのだけれど、死者たちが同時に地の文の支配権を奪い合うような語り(に見えただけで、大変出鱈目な誤解かもしれない)の印象か、俺にはこれは失楽園のイメージよりも、コマラの大地が抱え込んだ死者の魂というか思念を、土が夜になって昼の熱気を解き放つように、空へと放った蜃気楼を写生したもののように感じられてならなかった。荒涼とした大地があって、そこにバラバラの声が、同時に響き合って、和音やら不協和音やらを奏でている、そんな印象。訳者は「コンパクトなテキストの中に、膨大な時間と空間を閉じこめる」とルルフォの作劇術を表現していて、確かに小さな場面と小さな場面が共振して大きな話を想像させるように、読者をし向けているような気もした。それと上に書いた印象が重なるのか、矛盾するのかは分からない。

 ところで、本書に関連して驚いたのは、「上で保坂和志が「小説の自由」で褒めていた本だなあ」と書いたのだけど、確認してみたら見つからず、なんで? と思ってあれこれ漁っていたら、保坂の書いたものだと思いこんでいたのは、知人のブログの文章であって、二度ビックリ。こんなことあるんだな、っていうか、大丈夫か、俺の記憶力。