ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫 訳 ある婦人の肖像

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)
ヘンリー・ジェイムズ 行方 昭夫

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 数年前に「デイジー・ミラー」を読んで十ページ過ぎたら面白くなったので、別のも読んでみようと思いつつ、どれも長くて手を出していなかったヘンリー・ジェイムズに挑戦してみる。「ある婦人の肖像」はデイジー・ミラーの三年後、1881年に発表された*1。イザベルというアメリカ人のヒロインがイギリスにやってきて、いとこ家族の屋敷で暮らしつつ、貴族のウォーバトン卿の求婚を断り、アメリカからイザベルを追いかけてきたキャスパー・グッドウッドを追い返しするうち、屋敷では伯父のタチェット氏が危篤に落ちて臨終を迎えるというのが、大雑把なアウトラインというか、なんの内容紹介にもなってないなこれ。
 行方先生の訳文は、台詞に難ありという気がしなくもないが、煉瓦が積まれていくように文が積み重なっていく印象があって、読んでいるうちに自分でも何か文章を書きたくなってくることが何回もあった。たぶん訳文が丁寧に作られているのだろうと思う。
 それはさておき、ゆっくりゆっくり進む物語の中で何カ所か印象に残ったものがあるので、忘れないうちに引用しておこう。
 まずひとつめ。イザベルのいとこであるラルフ・タチェット(肺病病みでタバコ入れコレクター)の台詞。

「ぼくは控えの間に楽団を置いておくのだ」と彼は言ったことがあった。「ずっと続けて演奏するように指示してある。それで役に立つことが二つある。世間の物音が私室まで入ってくるのを防ぐし、それから、世間の人に室内でダンスをしているのだと思わせるのだ」

 ここまで読んだときには、楽団とは何かの比喩だろうと思っていたのだが、その続きが、

事実、人がラルフの楽団の演奏が聞こえる所まで来た時にはいつも聞こえてくるのはダンス音楽であった。派手なワルツがかなでられているようだった。イザベルはこの絶え間ない軽音楽を聞いていらいらすることがよくあった。彼女としては、その控えの間を通り抜けて、奥にある私室の中に入りたかった。そこがとても陰気な部屋だとラルフは告げたけれど、少しも構わなかった。

 本当にいたよ、楽団。もちろん、この控えの間の楽団と奥の私室の関係はそのままラルフの社交の態度とひとりになったときの様子とを象徴しているのだろうけど。ラルフは、ヘンリエッタ・スタックポールというイザベルの友人であるアメリカ人新聞記者から、真面目さに欠けると非難され、それをヘラヘラ受け流したりしているが、そうした対応も、彼のワルツなのだと思う。それにしても、どれだけ金持ちなのかと。まあ成功した銀行家の二代目という設定ではあるんだけど、ここを読んだ時に、時代も場所も違うところの話だなあと実感した。

 一方ヒロインのイザベルを象徴する一文は19章の始めに出てくるこれだと思う。

理想とは現実に見るものでなく、信じるものであり、経験の問題でなく、信念の問題であるのだ。

 まだ話が動いていないので、確信は持てないけれども、たぶんこのフレーズを試される出来事が中巻以降で起こるはずだ。
 たとえば、上の引用文の出てくる章前後では、イザベルと彼女に影響力を持つ中年の未亡人、マダム・マールとの交流が書かれているのだけど、そのマダム・マールの口からこんな台詞が発せられる。

真空状態の男も女も存在しないわ。誰だっていろいろな付属品で出来上がっているのよ。自分自身と呼べるものは一体何なのでしょう? 自分はどこから始まり、どこで終るのでしょう? 自分は付属品の中に流れて行き、また逆に付属品から流れ帰って来ます。私の着ている服に私自身のかなりの部分が出ていると信じていますよ。ものって本当に大事よ。自分自身といっても、他人には、それが外に出ていなければ見えませんもの。だから自分の家とか家具とか服とか、好きな書物とか、交際中の友人とか――そういうものすべてが自分を表しているのです

 ヨーロッパにいる限り、人は見えるものによって判断される。それが自分自身ヨーロッパに住んだアメリカ人であるヘンリー・ジェイムズのヨーロッパ観であったのかもしれない。果たしてヒロインイザベルは、このヨーロッパなるものとどう渡り合っていくのか。ゆっくり読んでゆきたい。
追記:2月13日
ある婦人の肖像 (中) (岩波文庫)
ヘンリー・ジェイムズ 行方 昭夫

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 中巻読了。なかだるみが激しかったものの、マダム・マールを中心としたやりとりの部分はなかなか面白かった。それが陰謀でさえあれば、結婚なんて張個人的なイベントであっても興味を持てるのは発見だ。最後の方になってようやく物語が動き出した気がしたのだが、下巻で裏切られたらどうしよう。

追記:3月24日

ある婦人の肖像 (下) (岩波文庫)
ヘンリー・ジェイムズ 行方 昭夫

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 ようやく読了した。長かった。そして動き出した物語もとにかくテンションが低かった。乗れなかった理由は普段読んでいる本と物語の文法が違っていたからだろう。急展開があったとして、以前のエピソードが色を変える瞬間にも、直接的にどう変わるかのというところがボカされていたり、脇役のキャラ設定が急に揺れるように見えたりするので、持って行かれる感じが起こってこない。
 ボカされるというのは、たとえば次のくだりのようなところだ。引用は53章から。

何千という些細な事を覚えていたのだが、それが今自然と身震いしながらよみがえり始めた。以前はたんに些細な事と思っていたのだが、今は鉛のようなずっしりした重みを持っているのが分かった。けれども今でも、それらは結局些細な事柄であるのは変わりなく、それというのも、それらを理解したところで、何の役にも立たないように感じられるからだ。

 この些細な事と思っていたことがなんなのか、具体的には書かれない。これを書いておいてくれれば、だいぶ乗り方も違ったろうにと思う。
 で、文庫三冊もの厚さから何を読み取れたのかと言えば、おそらくこれは自由な魂が、檻に囚われ、すり切れてしまうまでの物語だったのだろうということだ。そして見方次第ではあるが、ついでにかなり分かりにくい書かれ方をしているので、作者がそれを狙っていたのかどうかも定かではないが、この物語はリテラシーのなさが招く悲劇を描いたとも言いうるようだ。
 イザベルは最初からずっと、自分の正しさを疑わない。その結果、マダム・マール、オズモンドにつけこまれ、窮地に立つ羽目になるわけなのだけれども、その間、たとえば友人のヘンリエッタや求婚者のひとりキャスパー・グッドウッドなどから伸ばされる救済の手を取ろうとはしない。なぜなら、そうしないことが正しいとイザベルが考えているからだ。自由を求めて貴族を袖にした女が、いつの間にやら自ら自由に背を向けるようになっている。自由に生きるための武器だったはずの「自分の考え」を疑わなかった結果である。
 果たして作者がそうしたリテラシーのなさが引き起こす悲惨な状況(おそらくはパンジーの人生において再生産されるだろう)を書こうとしたのかは定かではないが、途中、本作最大のサプライズを告げる人物がずっと愚か者であることを前提に描写されていたりするのを見ると、そう読める可能性はあるんじゃなかろうかという気もする。つまりキャラ設定が揺れるように思われるのは、イザベルに寄り添った描写のためで、実際に作者がキャラクターたちを作品で描写したように設定していたのかどうかは、宙づりにされるのかもしれない。
 それにしても長かった。そしてあまりにも派手な場面がなさすぎた。あったのかもしれないが、ほとんど読み取れなかった。映画にもなっているらしいが、いったいどんな作品になっているんだろう。