選択決定回数は決められているのか?

自己責任じゃないならなんだってんだ

オマエだって社会の構成員だろう? ならば、あの人たちが派遣村に流れ着いたのは、オマエのせいでもあるんだよ。自己責任論を採らないならば、即ちオマエもそれに責任を負わなくてはいけないことになるんだが、このことにちょっと無自覚すぎやしないかい?
(中略)
ぼくは、「社会」って、2つの意味で使われるときがあるんじゃないかなって思うんです。ひとつは、いわゆるふつうの本来の「社会」。もうひとつは「自分を含まない社会」(“世界”ってことばもそうですね)、それについて語るために自分を特権的に外側に置いた「社会」です。2つ目は自己言及的になっていますが、この2つ目の意味の「社会」に独立したことばが割り当てられていないこと、1つ目の意味で語るべきところで無自覚的に2つ目の意味で語ってしまうことが、オマエの慎みのなさの原因のひとつであるような気がします。そのようにして、「自己責任ではない!」と叫ぶことによって、オマエもまた同様に責任を逃れようとしているのではないのか?と。


ところで自己責任論を採らないなら、自己責任論者が社会に蔓延することもまたオマエの責任でもあるわけですが……。

 他のエントリを見ると「派遣村叩く人間を想像力がないっていうが、想像力がなかったのはあいつらも同じ」という主張があったり「目的がないなら死ねば?」と読み取りうるような主張があったりするんだけど、要するにこの人は「オマエ*1」たちに「この偽善者が!」と叫びたいようだ。
 たとえば「派遣村に流れ着いた人に同情的な人は強制的に寄付金を徴収しますが、それでも自己責任だと言わずにお金をあげますか?」という質問を突きつけたときにオマエはどれくらいだすんだよ、どーせ出しやしねーだろ、と言いたいように俺には思えた。
 それは多くの場合、その通りじゃないかと思う。
 だけれども、エントリ主の論理に寄り添う形で考えてみても、いくつか疑問が残る。たとえば「自己責任論を採らないならば、即ちオマエもそれに責任を負わなくてはいけない」「自己責任論を採らないなら、自己責任論者が社会に蔓延することもまたオマエの責任でもある」の二カ所。責任という言葉が何を指すのかわからないけれども、派遣村なんて者が必要になる世の中に対して、自分の責任を感じた人や、自己責任論者が社会に蔓延することに対して責任を感じた人が何をするって、そりゃオマエ化するんじゃないか? なぜって自己責任論じゃが蔓延する理由は、それに対して説得的な反論がなされてこなかったことも理由のひとつだし、その結果派遣村に流れ着くような人々がもっと早い段階でどうにかなるようなセーフティーネットの構築が票を集める論点として認識されてこなかったんだから。
 そうなるとこの人の「オマエもまた同様に責任を逃れようとしている」という指摘は空転するように思われる。というのも、まさにこの人の言うような「責任」に向かって反応をしている人に文句を付ける付け方が「無自覚」では言ってることが滅茶苦茶だからだ。だって救済策を講じる場合には、どんな立場であろうと税金という形での負担はすることになるわけで、自己責任を採用しないときにかかってくる責任というのは、それを行うことに同意する世論を形成するのに尽力するってことくらいなんじゃねーか?
 あるいはこの人が言いたい責任というのを「これから」に対して引き受ける責任ではなくて、「これまで」に対する落とし前という意味で取れば、こういうことが言いたいのかもしれない。
「すでにこんな社会になっていることの一端はオマエにもある。であるなら、その結果をとやかく言わずに受け入れるべきだ。今になって人のせいみたいに言うのは潔くない」。
 だけれども、これはこれで「では一度行った選択は状況の変化によってキャンセルすることはできないのか」という問題があるように思う。我々は確かに一度「自己責任」というものを受け入れた。その方がわかりやすいと思った。今回それがうまくいかないケースが「見える化」された。だからこれまで自己責任でいいんじゃねと思った人が、やっぱこれは駄目かもと思うようになった。
 これは別におかしなことではないと思う。選択をするときにはベストだと思った選択肢が完全に予想通りのものでないなら選び直せばいい。一度選んだらそれにそって、どこまでも突き進まなければならないのだとしたら、果たして選択などできるものだろうか。

 この人は別のエントリで、「派遣村に行った人にも想像力がなかった」みたいなことも言っていて、それは一面本当だと思う。しかしながら、だから仕方ないというのは、最大限見積もって解雇されて路頭に迷ったところまでの話で、救済の必要があるかないかは別の問題だ。要するに今回の派遣村騒ぎは自己責任社会が抱えたバグだ。ある振る舞いをすると立ちゆかなるバグが検出されたときに「そんなコマンドを入力しちゃ駄目」って書いて済ませるわけにはいかないんじゃなかろうか。ベストな対策が何かはわからないにしても。
 この人の「この偽善者!」って批判は結構広い範囲で当てはまるかもしれない。俺だって「じゃあいますぐ救済のボランティアしてこいや!」と言われたら、絶対行かない。寄付が回ってきても、そんなところに回す余裕はない。あそこにいかなきゃいけないのが、俺じゃなくて本当に良かったとも思う。
 でもだからこそ、あの人たちのために頑張る人を、自分たちの良心の代理人に仕立てて、あんまり大変なことにならないと良いねという見方をするべきじゃないか。すくなくともその方が「困っている人を突き放す正当性」を考え出すより手間も労力もかからない。もちろん金もかからない。さっきも言ったけど救済策を講じると国が決定した時点で立場関係なく金銭的負担は確定だから、叩かないと負担が増えるわけじゃない。むしろ叩いていた方が心理的負担が大きい気がする。
 それから今回の件で救済策が否定されたとして、派遣村バッシングをする人が得られるものはなんなのか、想像力の乏しい俺にはいまいち掴めない。逆に、日々努力しなくてはいけないという信条で頑張っている人は、頑張らなかったとみなされる人が救われることで何か失うんだろうか。俺は「個人が通常状態のときには自己責任論ベースだが、非常事態になればちゃんと救済策が発動する社会」である方が、安心して暮らせると思うんだけど。
 もちろん理想的なシステムなかなか構築できないし、いつだってこぼれちゃう層はあるに違いない。自営業の人や正社員だけど低賃金・低保証な人はどうなるって問題もある。ただ、政治がこの先、そういう問題へ取り組むかどうかは、国民が救済策を是とするかどうかにかかっているわけで、いろいろ思うところがあろうと、たとえ偽善的であろうと、この手の話には肯定的反応をするのが、得策なのではないかと俺には思われてならない。少なくとも俺は、自分がどうにもならないくらいテンパッた状況に追い込まれたなら、俺がテンパッているのを知っている人には、せめて優しい言葉をかけてもらいたいと思うし、逆にテンパッている人に対して「おまえらなんざみんな野垂れ死ね」とわざわざ声を上げる、どんな理由も見つけられない。




追記:リンク先のコメント欄にこんなコメントがあった。

とおりすがり 2009/01/18 01:51
仰る通りだと思います。

自己責任だから、不安だから、怖いから、他人より真面目に働く。

自分の為に。頼る当ても無いから。それも運命ですかね。

って事を他所のブログにコメントしたら徹底的に叩かれた。「『今の時期の』失業した派遣労働者達は何としても守らなければならない。国家の義務である」みたいに言われて、ボクの人格は全否定されてしまった。それも運命ですかね。

「失業した派遣労働者達は何としても守らなければならない」と主張する人が、こういう印象の残る対応をしたとして、それが何らかの合意形成=「失業した派遣労働者達は何としても守らなければならない」の実現に繋がるはずはない。派遣村バッシングを叩く人たちがあえて無視しているのは、論破と説得は違うというところだ。だって学術の世界じゃないんだから。
 議論好きが敵を作るのは別に良いっていうか、その人の勝手なんだろうけど、ある話題で意見が対立する場合、自分の意見は相手にとって「自分の意見に反対する奴の代表」として受け取られる。つまりこの場合だと、「失業した派遣労働者達は何としても守らなければならない」と主張する人の代表になっている。であるならば、「失業した派遣労働者達は何としても守らなければならない」と思う人が、上記のような対応を取るのは、自らの合意する理念を、自らの行動で裏切っていると思う。このコメントを残した人はますます自己責任という考えに固執するだろう。この話で同意を取り付けるには、まず「自己責任だけじゃない社会」モデルを受け入れさせなきゃならないのに、誰がムカつく奴の言うことを聞いて、わざわざ社会モデルを考え直したりするものか。

*1:「『派遣村に流れ着いたような人たちに対して“自己責任だ”と発言する人たち』を批判する人たち」のこと。それにしてもなんつーネーミングだ。