尊敬する学者・宇井純・水俣病

 昨日のことだが、友人が博士号を取ることが確定したのでお祝いをした。俺的博士イメージはお茶の水博士とか敷島博士とかギルモア博士とかなのだが、博士確定の友人が会って最初に言ったのは「日本のパンクロックはすげえ。特にスターリン」だった。
 で、近くの地酒とおでんのお店で飲みながらあれこれお喋り。共通の話題なんざないので、お互い好き勝手な話題を喋り、相手の話を聞く。なんの流れだったかはアルコールの影響で憶えていないが、友人が「学者にもすげえ人がいる」と言いだした。たぶん村上春樹すげーとか話したあとだったと思う。
 友人がすげえ学者として挙げたのは宇井純という人だ。なんでも水俣病のことを知って現地に赴き、こりゃあやばいぜってことで国に報告。しかし国が相手をしてくれず、でもなんとかしなきゃなんねえよと国連にその悲惨さを訴え、問題の解決に尽力した人なのだそうだ。ここまでで普通に良い話。
 本気ですげえなと思わされたのは、宇井純水俣病を追いかけ始めたのは、大学院時代だったということ。そんな時期にそんなことをするとどうなるか。出世の道が閉ざされるのである。結果、宇井純は教授どころか助教授にもなれず、助手の身分のまま齢を重ねることになった。最終的には沖縄大学が教授として迎えたのだが、それまでの助手暮らしは20年を超えた。水俣病を可視化するきっかけを作り、国際的な公害問題の権威とされながら、身分はずっと助手だった。
 友人は言った。「俺とは専門が違うが、俺はそういう人が本当の学者だと思う。学者にはそういう人であって欲しいんだよ」
 それは本当にすげえなと俺も思った。そして、友人の将来に少々期待することにした。志は日常に埋もれるものだろうと思う。理想は現実に敗れるのかもしれない。毎日の生活は海のようで夢や理想や決意はその中を漂う氷山みたいなものだろう。水面の上へ出るのはほんの一部分だ。しかしこの比喩が妥当であるなら、現実の海の上に突き出す一部分の長さは、理想や夢や決意の高さに比例する。案外でかいことを成し遂げてくれるかもしれない。

 帰宅後、ウィキペディア宇井純の項目を読んでみた。

日本ゼオン勤務時代、塩化ビニール工場の製造工程で使用した水銀の廃棄に関わっていたことから、水俣病有機水銀説に衝撃を受け、大学院生時代から水俣に足を運び、合化労連の機関紙に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで連載した記事により、水俣病の問題を社会に知らしめる発端を作った。将来を嘱望されていたが、助手就任の1965年に新潟水俣病が発生し、実名での水俣病告発を開始したため東大での出世の道は閉ざされ、「万年助手」に据え置かれた。従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。

宇井純 - Wikipedia

 そこからリンク先に飛ぶとこんな記事があった。こういう活動をする人に対してどんな眼差しが向けられるのか、参考になる気がした。

宇井さんは万年助手と言われ、ご自分でも言っていたが、今計算してみると21年間助手だったようだ。本人も皆の前で「助手の方がいい」「これは勲章だ」と言うこともあったが、いつもいつもそのように割り切れていたわけではなく、「なぜ、あいつが教授で、俺が助手か」という怒りが、どろどろと宇井さんの体中を占領し、のたうち回らせるのをしばしば見てきた。

それを見て、宇井さんの悪口を言う人もいたが、「ふざけたこと言うな!」と言うしかなかった。「そういうことを覚悟して自己主張を続けているのでしょう、覚悟がないならやめた方がいい」と言った若い教授もいた。

かつて、「都市の再生と下水道」(日本評論社、1979年)の中で、私はこう書いた。「研究者の社会で、無能という烙印ほど辛いものはない。「有能だけど不遇だ」などと言われているうちはまだよいが、不遇が続けば無能になる」。これを読んだ宇井さんが、「中西さんどうしてこういうこと書けるの?これって、俺の気持ちだよ」と言ったことがある。

苦しむ人間宇井純を私は助けることはできなかったが、少なくとも近くにいて、その苦しみが分かる存在であり続けた。

http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak366_370.html#366-A

 我々は水俣病に対する評価をすでに知っているから、この学者はひでえと思うわけだが、宇井が教授になれたのは、1986年であることに注目する必要があるだろう*1。要するにこの教授は「出過ぎた真似をしたクセに何言ってやがる」という主旨の発言をしたわけだが、こういう「聖者にあらざれば社会変革目指すべからず」的な発想はいまでもあると思われる。っつーか、普通の人間が後先考えずに問題に飛びこんで行けるというミラクルをそこに見るわけにはいかないのか。

 宇井の敵は教授だけではなかった。ウィキペディア水俣病の項目を引く。

水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの中傷や新日本窒素肥料に同情的見方もあった。

水俣病 - Wikipedia

 今からでは信じがたいけれども、この問題が明らかになってからも、地元ではこのような見方があったらしい。俺たちがこの動きに唖然とすることができるのは、現在において話題としてどう扱うかということが決着した問題であるからに過ぎない*2。たぶんこの変わることへの嫌悪=チェンジフォビア*3こそ、現在まで続く日本人の特質だ。宇井が戦い、いまも多数の宇井が戦っているのは、この特質に他ならない。
 驚くのは水俣病の症例が現れたのは1942年からだと言うことだ(ウィキペディアの記述で知った。)。では宇井が問題にしなければ、宇井が国連まで巻き込まなかったら、これが惨劇であると、我々はいつ気付けたのだろうか。「当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。」ともウィキペディアにはある。呪いだ祟りだという前世系自己責任論やエセ科学で、いったい何年被害者に責任を押しつけていたのだろう。絶句せざるを得ない。
 もうひとつ絶句するのは、水俣病の項目にも新潟水俣病の項目にも、宇井純の活動が記録されていないことだ*4ウィキペディア集合知として考えるなら、我々が出世ルートを放り出して不正と戦うことをどう評価しているかよくわかる例だと思う。

 俺自身は水俣病のことを学校では習ったしテレビでも見た。しかし宇井のことは知らず、認知が広まったのは写真家桑原史成の作品を通してであり、住民運動によって解決したものだと考えていた(もちろんそれらなくしては解決しなかったろうとも思うけど、それだけじゃなかったのかという意味)。この人の存在を知れただけでも出掛けて行ってよかったと思うし、宇井純を「すげえ学者」だと言い切った学者である友人を誇りに思う。
 たぶんこんな風にして、いまも知られなくてはいけない人が活動の意義を無視され、中傷に晒されて、それでも前に進もうとあがいているんだろう。俺たちには、まだまだ知らなくちゃいけない人たちがいるんだ、たぶん。 

*1:ちなみに政府が水俣病工場排水の因果関係を認めたのは1968年だ。それから18年宇井は懲罰的処遇に居続けたことになる。

*2:当然、問題解決が終わっているわけではない。

*3:いま思いついた造語

*4:水俣病の方には参考文献として著書が載っている。